【手談への誘(いざな)い・第38回】名人戦 (14) 【2007年12月15日(土) 】
囲碁の日本ルールは最終的に地の多い方が勝ち。韓国も同じです。中国ルールは一方の石と地の合計が、盤上361の半分より多いか少ないか数えます。計算法が違うだけで、競技法は変わらず、同じ碁です。
日本ルールでは双方の地が同数になることがあり、それをジゴ(持碁)といいます。その場合は引き分けとするのが古来からの慣習です。
碁では先着する黒の方が有利なので、それを調整するためのルールがコミです。昭和14(1939)年に本因坊戦が誕生してから40年代まで、棋戦のコミは4目半(黒が出す)がほとんどでした。
しかし、昭和36(1961)年に生まれた旧名人戦(読売新聞)は異例のコミ5目を採用。ジゴは白勝ちと規定されたので、それならコミ5目半と勝敗結果は同じです。しかし違いがひとつあり、リーグ戦におけるジゴ勝ちは通常の勝ちに劣るという規定が加えられていました。
『昭和囲碁風雲録・下』(岩波書店)で中山典之六段はこう書いています。「ジゴ勝ち下位という規定がケチの付き始めで、昭和の碁聖呉清源はついに名人になれなかったのである」と。
その年(37年)の春に入段した(棋士初段になること)ばかりの中山は記録の名手で、名人戦リーグの最終局、呉清源・坂田栄男戦の記録係を務めました。
ここまで、両者とも8勝3敗。9勝2敗でトップの藤沢秀行九段が敗れたときは、呉・坂田の勝者と藤沢でプレーオフになります。ただし、ジゴになった場合を除いて。
- 何しろ天下の呉清源怒濤の追い込みである。さすがの坂田も大事を取り、ゆるみ、ついにジゴ一(注、ジゴか1目差かというきわどい局面)の碁になったのである。 夜半11時55分。半コウツギツギとなって碁が終わった。坂田本因坊は負けと思っていたとみる。坂田、 「負けですか?」 と盤側の立会人藤沢朋斎を顧みる。 「サア……」 朋斎九段は煮えきらない。 坂田本因坊は盛んにこぼし出した。あきれた、バカな手を打った、どれくらい損をしたんだ、大分良かったのに……、などと際限もなく。 その間、5分ほど、呉清源九段は黙然と盤上を見つめていたが、 「作ってみましょう」 と落ちついた声で坂田をうながした。 白地30目。黒地35目。5目のコミがあり、果然ジゴである。ジゴ白勝ちである。 「何だ、半目か。半目負けだったのか」 うめく様な坂田の声。規定ではジゴだが、坂田は事実上の負けであるジゴをジゴと思っていない。彼がハッキリと「半目負けだったのか」と叫んだ声を私は聞いている。
その3時間前、秀行九段は橋本昌二九段に敗れていました。しかし、結果がジゴなら第1期名人が決まるわけで、念のため記録係の中山初段が別室の碁盤で棋譜を手に、初手から並べ返して確認。
- 間違いがあるはずもなく、ジゴである。 対局室にとってかえした私は、 「ジゴに相違ありません」 と報告した。とたんに坂田本因坊、 「オイ。間違いないだろうな」 と血走った目玉で睨んだが、恐る恐る「ハイ」と返事をした記録係から目をそらし、 「しょうがねぇなァ」 と呟いて天井を仰いだ。藤沢秀行名人が確定した瞬間であり、呉九段の姿はなかった。
(続く)
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