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【手談への誘(いざな)い・第15回】呉・木谷・高川の時代(1) 【2006年12月29日(金) 】

新しい年を迎えるこのとき、半世紀前の囲碁界をふり返ってみようと思います。
戦後12年になる昭和32年は呉清源(ごせいげん1914−)と木谷實(きたにみのる1909−1975)、そして本因坊の連覇を続けていた高川秀格(しゅうかく、本名は格、22世本因坊秀格1915−1986)の時代でした。

将棋界では最近、名人戦の毎日新聞から朝日新聞への移行が物議をかもし、決定した朝日・毎日の共催という方向も、まだ契約内容の合意にはいたっていないようです()。過去には囲碁界も名人戦の創設や移行をめぐり、三度の紛糾がありました。

ちょうど50年前の、昭和31年(1956)12月7日。読売新聞は「実力名人を決める」と大きく見出しに謳った社告を掲載しました。新たに生まれる棋戦の名は「日本最強位決定戦」とあっても、それが囲碁界初「名人戦」への発展を目指す棋戦であることは明らかでした。

最初に誕生した棋戦は毎日新聞が主催する本因坊戦で、昭和14年に予選が始まった大棋戦でした。16年に初の実力制本因坊が決定。木谷實でも呉清源でもなく関山利一(1909−1970)が第1期本因坊に就きました。現在、第62期本因坊戦の挑戦者決定リーグ戦が進行中です。
朝日新聞は昭和2年(1927)から大手合(おおてあい、2004年廃止)を後援し、戦後の27年には名人戦創設を提案しました。しかし名人戦は実現せず、30年から6年間、朝日は最高位戦を主催。病から再起した木谷實九段が第2期(32年)に優勝し、第3期(33年)も連続優勝を飾りました。

読売新聞は人気実力抜群の呉清源九段を擁し、「呉清源打ち込み十番碁」のシリーズで囲碁ファンの関心を集めていました。十番碁で、呉九段は当時の一流棋士をすべて一段差以下の手合割(てあいわり)に打ち込んだのです。
昭和30年から31年に打たれた本因坊四連覇中の高川秀格(当時八段)との対戦を最後に、呉清源十番碁は幕を閉じました。互先(コミなし)で打たれた対高川十番碁に呉清源は6勝4敗。第8局で呉清源が白で1目勝ち、6勝2敗(4勝勝ち越し)となって高川を先相先(せんあいせん、一段差の手合割)に打ち込みました。『中の精神』(呉清源 2002年 東京新聞出版局)につぎのようにあります。

『17年間続いた打ち込み十番碁も、相手となる棋士はだれもいなくなってしまいました。(中略)鎌倉十番碁の時は25歳だった私は、既に42歳になっていました。この歳月を考えると、感慨無量のものがありました。私の棋力が最も充実していた時期であったと思います。』

昭和3年に中国から14歳で来日し、飛付三段を許された呉清源は、11年に帰化。14年七段に登りました。
「鎌倉十番碁」は14年9月から開戦半年前の16年6月まで。足かけ三年の真剣勝負で、人気と実力で呉清源と双璧だった木谷實七段が相手でした。
呉は木谷を兄のように思い、親しかった両雄でしたが、盤上の勝負は非情。第6局に敗れた木谷は1勝5敗となり、先相先に打ち込まれてしまいました。(続く)

12月28日の朝日、毎日両紙が「将棋名人戦共催決定」を報じました。5年契約で契約金は年3億6千万円(両社が半々)。加えて将棋普及協力金として両社で年1億1200万円(5年間)。

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【手談への誘(いざな)い・第14回】風林火山 (3) 【2006年12月15日(金) 】

「割菱」の紋と「風林火山」は甲州軍団の代名詞。しかし、これを初めて軍旗に用いたのは武田信玄ではありません。

室町時代初期(南北朝)に「花将軍」と呼ばれた若き公家・武将の北畠顕家(きたばたけあきいえ 1318-1338)は、建武2年(1335)奥州鎮守府将軍に任ぜられました。後醍醐天皇(1288-1339、即位1318)による「建武の新政」を補佐した父の北畠親房とともに、顕家は陸奥多賀城に下向。東北経営で力を蓄えました。同年、足利尊氏(あしかがたかうじ 1305-1358)が天皇に反旗を翻し、翌年正月には京を制圧します。
つぎの引用は横山高治(新聞記者、歴史家)『北畠太平記』(創元社1986)から。中略は筆者。

「陸奥の顕家はまだか」悲痛な言葉を残して、天皇はまたも比叡山に逃れた。官軍の挽回を祈り、尊氏調伏の大護摩をたかせた。正月27日、待ちに待った顕家の率いる奥羽の10万の大軍が吹雪をついて入京した。 あわてふためいた尊氏は(中略)逃げ回った末(中略)九州に落ちて行った。

九州で態勢を回復した尊氏は再び東上し、湊川の戦い(1336.5.25)で楠正成(くすのきまさしげ 1294-1336)を打ち破って入京。奥州に戻っていた顕家は、後醍醐の綸旨(りんじ)を受けて翌延元2年8月、精兵を率いて再び京へ向かいました。「割菱」と「風林火山」の旗を掲げて。『北畠太平記』より。

「鎮守府将軍起つ」の知らせに土豪、武士が続々参軍、白河の関を越える時には総勢10万余騎の大軍、疾風枯れ葉をまく進撃を続けた。顕家軍の先頭には、北畠氏の定紋「割菱」の旗と、親房が孫子の兵法を学んで作り、京都から送った「風林火山」の旌旗(せいき)が風にはためいていた。

伊勢を経て奈良に入った顕家は楠木正行(まさつら)と初めて会見しただろう。南朝のためにと戦って戦い抜いた北畠、楠木両氏の歴史的な“出会い”だ。横山はそう書いています。
武運尽き、堺で敗れた顕家は腹を切りました。数え21歳の若さでした。
その10年後、楠木正成の嫡男正行(まさつら)は四条畷(しじょうなわて)の戦い(1348)に敗れ、弟の正時と刺し違えました。南朝最後の忠臣となった正行は、まだ数え23歳でした。

死を覚悟して湊川の戦いに向かう父正成と別れたとき、楠木正行は11歳でした。その年に楠木正行は碁を(初めて)打ったとあり、その神童ぶりが伝説になっています。
江戸時代後期の棋士、林元美*1が嘉永2年(1849)にまとめた『爛柯堂棋話』(平凡社東洋文庫)より。中略は筆者。

「楠正行、囲碁の事」
楠判官正成が嫡男、多聞丸正行、年十一の時、近習の青侍ら詰所にて碁を囲み居りけるが、多聞丸来たり給いて暫時観居り給いしが、大いに笑い、「汝等両人、碁に勝たんと欲するかと思いしに互いに敗けん敗けんとするこそおかし」と嘲り給うにぞ、青侍ら心怒り「未だ碁を知ろしめさずして、笑い給うことのおかしさよ」と詰(なじ)りぬ。(中略)
多聞丸、少しも辞する色なく、石を取りて囲み給う。須臾(しゅゆ*2)にして打ち勝ち給いければ、衆人愕然として大いに驚き、「さても、いつの程にやかくは鍛錬し給いけん(中略)」と、舌を揮って賞しぬ。

文中の青侍(あおざむらい)とは、身分の低い若い侍のこと。
伝説の真偽はさておき、「太平記」*3など他の史料を見ると、この当時すでに囲碁は広く知られ、身分の低い武士や若い武士が碁を楽しんでいたのは事実と思われます。

*1 はやしげんび 1778-1861準名人(八段)。水戸藩士の子。本因坊家で修行し、林家11世を継ぐ。博識の棋士で著作は多数。
*2 少しの間。
*3 作者未詳。南北朝の動乱が、史実に基づいて南朝寄りに記されている軍記物語。室町時代初期の14世紀後半に成立。

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【手談への誘(いざな)い・第13回】風林火山 (2) 【2006年12月05日(火) 】

武将や武士が碁を好んだことは、囲碁ファンでなくても知っている人が多いのではないしょうか。NHKの大河ドラマを見ても、碁を打つ場面が時々ありました。太閤秀吉、徳川家康、大石内蔵助、…。来年の大河ドラマ『風林火山』でも、碁を打つ武田信玄が見られたらいいですね。

信玄が碁を好み、しかも強かったのは事実のようです。囲碁史にも登場するのですが…

武田晴信(信玄)と春日源五郎(高坂弾正昌信)の棋譜が初めて世に出たのは文政12年(1829)の『古棋〈こご〉』で、30部だけ発行された棋譜集。日蓮上人と吉祥丸の師弟対局、真田昌幸と信幸の父子対局、信玄・弾正局、その三つの棋譜のみを刷ったものです。しかし、この三棋譜はいずれも偽作とみられています。

その理由はと言えば。まずもって、日蓮が独自の布教を始めた建長5年(1253)の正月に、その地である鎌倉松葉谷〈まつばがやつ〉の草庵で吉祥丸(日朗)と碁を打ち、しかもその棋譜が書き残されているなんてことがあるとは思えません。日朗が日蓮の弟子になったのは翌建長6年、10歳のときと、日蓮宗年表にあります。その棋譜を見ると、10歳に満たない子供が打った碁とは考えられない、たいへん立派な内容です。勝敗結果は持碁〈じご〉と記載されており、持碁=引き分けは縁起が良いとされることも偽作を裏付けているといえるでしょう。(日蓮・日朗局の序盤棋譜などを集英社新書『囲碁の知・入門編』p188に記載しました。)

『古棋』を発行したのは井上家から二段を許された三神松太郎ですが、後に八段となる林元美(1778−1861)が深くかかわっていたのではないかとみられています。元美はその著『爛柯堂棋話』に「古譜の伝わりしは、この碁を以て第一とすべし」と記しました。以来、日蓮・日朗の棋譜が「日本最古の棋譜」として伝えられてきたのです。

信玄・弾正の碁は、それが実譜なら16世紀半ば、戦国時代のものです。しかしその当時、武将とはいえ碁の素人どうしで、棋譜を書いて残すことがあったとは思えません。それに、たとえもしそういうことがあったとしても、その棋譜が戦乱の世を経て後世に残り、しかも300年近くを経て、はじめて世に出るなどということがあるでしょうか。

そうしたことから、また三棋譜はいずれも高い棋力がなければ作れない内容であることから、いずれも元美による偽作であるとするのが今日の一般的な見方です。

話を戻します。信玄が率いた甲州軍団の軍旗「風林火山」は広く知られ、その字句が兵法書『孫子』に拠るのを知っている人も多いでしょう。

疾〈はや〉きこと風の如く 徐〈しず〉かなること林の如し
侵掠〈しんりゃく〉すること火の如く 動かざること山の如し

「割菱」の紋と「風林火山」は甲州軍団の代名詞です。しかし、これを初めて軍旗に用いたのは信玄でなく、信玄の220年前、室町時代初期(南北朝)に「花将軍」と呼ばれた若き公家・武将の北畠顕家(きたばたけあきいえ 1318-1338)だったことをご存知でしょうか。(次回に続く)

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【手談への誘(いざな)い・第12回】風林火山 (1) 【2006年12月05日(火) 】

「ヤマカン」の語源は山本勘助であるという説があります。山本勘助の軍略は当て推量(ヤマカン)だったと、江戸時代に言われたので しょうか。
それはさておき…

『信玄がこういう人物だったかという種類のことも、この小説では問題にならない。山本勘助は伝説上の、架空の人物だったかもしれな いのである。そして、それでも構わないのは、これが小説であるからではなくて、古府の信玄の世界はこの通りのものだったと言えると ころまでこの小説は行っている。』

新潮文庫『風林火山』の「解説」に吉田健一(文芸評論家)がこう書いています。
来年のNHK大河ドラマは「風林火山」。その原作は、生誕100年になる井上靖(1907-1991)が昭和30年(1955)に発表した歴史小説『 風林火山』です。
描かれているのは、戦国の名将武田信玄の軍師として知られた山本勘助の生きざま。しかし史実ではありません。

山本勘助が最初に登場する史料は『甲陽軍鑑』。甲州武田家の軍学を記したその書に、山本勘助が軍師として記されています。しかし他 の史料にその名は見えず、『甲陽軍鑑』の記述が創作であることは定説になっているのです。
江戸時代になって、信玄人気の高まりとともに山本勘助にまつわる様々なエピソードが創り出され、浮世絵や浄瑠璃などによって広まり ました。
井上靖はそうしたことを踏まえて、実在しない山本勘助を『風林火山』に書いたのでした。

ところが昭和44年になって、釧路の市川氏が所持する古文書にその名があることが発見されました。敵陣に届けられた晴信(武田信玄) の花押がある書状で、そこには、重要なことは使者の「山本管助」が口頭で伝えると記されています。
これによって、信玄の側近に山本という人物が実在したのは確実であるとわかりました。しかし、『甲陽軍鑑』に書かれた「勘助」のモ デルが市川文書の「管助」とするなら、事実は軍師でなかったことも確かめられたのです。

『甲陽軍鑑』を書いたのは「武田四天王」の一人として知られる高坂(香坂)昌信とされます。
囲碁の歴史でも、武田信玄と高坂昌信は有名です。
江戸時代に書かれた『爛柯堂棋話』に、武田晴信(信玄)と春日源五郎(高坂昌信の幼名)の碁が載っています。明治以降も、その棋譜 は繰り返し紹介されてきました。
( http://www3.lib.pref.yamanashi.jp/cgi-bin/refjirei/refs.cgi?c=yamanashi&n=11 )

しかし、これも創作に違いないというのが定説です。棋譜は『爛柯堂棋話』を執筆した林元美(準名人)による偽作と見られています。 (次回に続く)

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