プロフィール
リンク集

【手談への誘(いざな)い・第17回】呉・木谷・高川の時代(3) 【2007年01月31日(水) 】

記録は破られるためにある。
そう聞くことはあっても、あの記録が破られることはないだろうと思っていました。
高川秀格の本因坊九連覇です。

昭和26年(1951)の第7期本因坊戦。本因坊戦リーグで優勝し、挑戦者となった高川格七段は本因坊昭宇(橋本宇太郎、昭宇は号)を4勝1敗で破りました。本因坊に就いた高川は慣例に従って号を名乗り、秀格(しゅうかく)。

翌第8期本因坊戦は木谷實八段(当時)が挑戦権を獲得しました。戦後間もない22年、木谷は本因坊薫和(岩本薫)に挑戦して敗れ、二度目の挑戦。呉清源と並ぶ実力者であった木谷は人気もあり、大方の衆評は木谷有利でした。
穏やかな棋風とその繊細な風貌から、非力とみられていた高川。しかし、本因坊戦七番勝負になると抜群の集中力を発揮し、木谷を4勝2敗で破りました。

以後、本因坊秀格は挑戦者を毎年退け、高川に対する評価は年々高まります。
昭和31年、第11期の相手は前期に続いて島村利博八段(当時)。玄人好みの渋い棋風で「いぶし銀」と呼ばれた島村を再び破り、高川は本因坊五連覇を達成。

今から50年前、昭和32年の挑戦者は強腕の藤沢朋斎(旧名庫之助)九段でした。
33年は杉内雅男八段(現九段、86歳の現在も現役)の再挑戦(29年初挑戦)を、34年は木谷の三度目の本因坊挑戦を、35年は気鋭の藤沢秀行八段(現九段、名誉棋聖)の挑戦を、いずれも第7局を迎えることなく高川は退けました。

ついに本因坊を九連覇。以来、近年まで「不滅の金字塔」と呼ばれ続けた九連覇です。
この偉業により、高川は現役のまま名誉本因坊を名乗ることになります。

翌年、坂田栄男九段に敗れて十連覇は成らず。しかし、永久に破られないだろうと思われた九連覇でした。高川を意識し、その記録を超えることを願った坂田も七連覇で止まりました。

ところが、高川を超える者が現れたのです。趙治勲(ちょう ちくん)。
平成10年(1998)趙が本因坊十連覇を成し遂げました。
新たな偉業を期に、毎日新聞と日本棋院は名誉本因坊の称号を廃止。
代わって、世襲制最後の21世本因坊秀哉に続けて、22世本因坊秀格、23世本因坊栄寿(坂田栄男)、24世本因坊秀芳(石田芳夫)、25世本因坊治勲と称することになりました。
五連覇または通算10期獲得で60歳から(あるいは引退後)、九連覇すれば失冠後ただちに、○世本因坊と称することができるという規定です。

名誉本因坊が22世本因坊に変わったのは、高川が昭和61年に71歳で没してから12年後のことでした。
泉下の高川先生はそれを知って驚きながらも、微笑んでいたことでしょう。いつものように。(続く)

---------------------------------------
[ 平本弥星ブログ『手談への誘(いざな)い』は毎月15日・30日ごろ更新します。お楽しみに! ]
●STAGE連載エッセイ『碁で人と文化を知る』を読むにはこちら
●平本弥星の主著『囲碁の知・入門編』の詳細はこちら

Posted at 18:20 | 囲碁 | この記事のURL
コメント(0) | トラックバック(0)

【手談への誘(いざな)い・第16回】呉・木谷・高川の時代(2) 【2007年01月15日(月) 】

日本主催の囲碁世界戦は現在二つあり、1988年に始まった富士通杯世界選手権戦と、第3期の決勝が先日(1/6、8、9)打たれたトヨタ&デンソー杯囲碁世界王座戦。
その世界王座戦の決勝三番勝負は、韓国代表の李世ドル九段(い せどる、23歳)が2期連続の優勝に輝きました。日本代表初の決勝進出を果たした張栩九段(ちょう う、前名人、1/20に27歳、台湾出身)は第1局で白番半目勝ちしたものの、第2局、第3局と李九段が白番中押し(ちゅうおし)勝ち。
昨年は韓国主催の第9回LG杯で世界戦に初優勝した張九段ですが、残念ながら日本主催世界戦の制覇は成りませんでした。

半世紀前、囲碁の水準は日本が断然高く、第一人者は中国出身の呉清源(ご せいげん)九段でした。
誰もがそれを決定的に認めたのは、最後となった「呉清源打ち込み十番碁」。当時の最高タイトル・本因坊を保持していた高川秀格を打ち込んだシリーズです。

打ち込むとは、4勝勝ち越しで、相手を元より一段下の手合割(ハンデ)にすること。

昭和14年に始まった「鎌倉十番碁」で木谷實七段(当時)を先相先(せんあいせん)に打ち込んだ呉清源は、続いて戦中戦後、読売新聞の主催で当時の一流棋士と十番碁を次々に戦い、すべての相手を先相先以下に打ち込みました。
初の実力制九段となった藤沢庫之助(朋斎)は、互先(たがいせん、互角の手合割、コミなしで交互に黒番)から始まった三回の呉清源十番碁すべてに敗れ、定先(じょうせん、二段差の手合割)にまで打ち込まれてしまったほどです。

戦後の新進棋士では実力随一を誇り、後に第一人者となる坂田栄男八段(当時)も打ち込まれ、最後に残った十番碁の相手が本因坊を連覇していた高川秀格八段(当時)でした。
読売新聞が擁していた呉清源九段は戦後、毎日新聞の主催する本因坊戦に参加していません。
一段差でしたが、高川は本因坊であるため互先。呉・高川十番碁は昭和30年(1955)7月に始まりました。
翌年9月28、29日の第8局に呉九段が白番1目勝ち。呉は通算6勝2敗として、高川を先相先に打ち込んだのです。その後の2局(第10局は31年11月26、27日)は高川が意地を見せ、先番(黒)で連勝したものの、呉清源が日本一の棋士(すなわち世界一)であることに疑問の余地がなくなりました。つぎは『中の精神』(呉清源 東京新聞出版局2002)より。

“この十番碁は開催中に、本因坊の防衛戦があり、五カ月間、中断しました。その防衛戦で高川さんは、前人未踏の五連覇を成し遂げています。私が十番碁で打ち込んだ第八局は、まさに高川さんの五連覇直後のことでした。”

第一人者、呉清源。長く続くと思われたその時代は、この十番碁から数年で終わってしまいました。36年8月の不運な交通事故によって。(続く)

---------------------------------------
[ 平本弥星ブログ『手談への誘(いざな)い』は毎月15日・30日ごろ更新します。お楽しみに! ]
●STAGE連載エッセイ『碁で人と文化を知る』を読むにはこちら
●平本弥星の主著『囲碁の知・入門編』の詳細はこちら

Posted at 15:10 | 囲碁 | この記事のURL
コメント(0) | トラックバック(0)

<< 2007年01月 >>
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
カテゴリアーカイブ
最新トラックバック
Copyright(C) 2006-2008 Senior Communication Co., Ltd. All Rights Reserved.