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【手談への誘(いざな)い・第19回】呉・木谷・高川の時代(5) 【2007年02月28日(水) 】

囲碁界で名人が不在の時期は珍しくありませんでした。
1961年(昭和36年)に名人戦が創設されるまでは。

21世本因坊秀哉名人が昭和14年に引退。翌年に没してから20年余、囲碁界に名人はいませんでした。
タイトル戦の名人戦が誕生するまで、囲碁界における名人とは、誰もが認める第一人者を意味しました。最高レベルの棋力を備えていること。さらに、同時代に肩を並べる者がいない強い棋士であることが名人の条件で、江戸時代も明治時代も、名人がいない時期の続いたことが少なからずありました。

1954年(昭和29年)呉清源九段は十番碁で、互先(たがいせん)で戦った高川秀格八段(本因坊を五連覇中)を、一段下の手合割(てあいわり=ハンデ)に打ち込みました。高川を最後に、呉と対抗し得る棋士がいなくなり、「打ち込み十番碁」シリーズは終了。呉はまさに第一人者でした。

主催していた読売新聞は新たに「日本最強決定戦」を企画。5名の九段(呉清源、藤沢朋斎、橋本宇太郎、坂田栄男、木谷実)に本因坊(高川秀格八段)を加えた6名による、総当たりのリーグ戦でした。全員と各2回(黒番と白番)対戦、コミなし。
呉は『中の精神』(東京新聞出版局 2002)でつぎのように語っています。

この企画には不満がありました。出場棋士がすべて十番碁で私が打ち込んだ相手だったからです。江戸時代から一度相手を打ち込めば、打ち込み返されない限り、互角の勝負「互先」はできないという定めがありました。なのに、私が彼らと再び互先で戦うのは、長い伝統を無視することのように思えました。私は読売新聞側に異議を申し立てました。
 話し合いの結果、「読売新聞は今後とも呉清源を中心として囲碁の企画を行う。呉清源もそれに全面協力する」という趣旨の約束をすることになりました。そのような経緯から、第一期日本最強決定戦が1957年(昭和32年)から始まりました。

第1期最強戦は呉清源が8勝2敗で優勝し、木谷実が2位でした。木谷は1954年に倒れ、2年ほど闘病していましたが、復帰してすぐに第2期最高位戦(朝日新聞主催)で優勝。東京新聞主催の囲碁選手権戦でも優勝し、完全復活していました。
第1期最強戦で「木谷実九段と実に14年ぶりに対局することができた」と呉は述べています。

この最強戦は第3期で終了し、「名人戦」に移行します。
名人戦の創設に木谷実は最後まで反対し、呉清源も不満を持っていたのですが、当時も財政難であった日本棋院と読売新聞の思惑が一致して、名人戦が誕生したのでした。 (続く)

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【手談への誘(いざな)い・第18回】呉・木谷・高川の時代(4) 【2007年02月15日(木) 】

「不滅」と言われた記録を残しながら、第一人者と呼ばれることがなかった棋士がいました。
昭和27年から本因坊を九連覇した22世本因坊秀格(故高川秀格九段)です。

昭和36年に名人戦が創設されるまで、本因坊が唯一の大タイトルでした。その本因坊の地位に長くあった高川秀格(たかがわ しゅうかく)は、囲碁界の第一人者と呼ばれるべきところ。しかし、それを許さない存在がありました。
中国に生まれ、日本で大成した孤高の棋士、呉清源(ご せいげん)九段です。

その棋譜が読売新聞紙上を飾った「呉清源十番碁」は本因坊戦を上まわる人気で、碁を知らない人々も呉の強さを知っていました。呉清源を「碁の名人」と、囲碁界に詳しくない人が呼ぶのも珍しくなかったでしょう。

呉九段は12回にわたって十番碁を戦い、その相手を全て打ち負かしました。
最初の十番碁の相手は、若き呉の好敵手であり、兄のように親しかった木谷實。昭和14年から16年に打たれた「鎌倉十番碁」です。
最後の十番碁の相手が高川秀格でした。半世紀前の昭和31年(1956)9月、本因坊を五連覇した直後の本因坊秀格は、十番碁第8局で黒番1目負け。2勝6敗となり、善戦及ばず呉に打ち込まれてしまいました。

戦後、「呉清源十番碁」を主催する読売新聞が抱えていた呉は、毎日新聞主催の本因坊戦に参加していません。その代わり、本因坊戦七番勝負の終了後に毎年、「本因坊対呉清源三番碁」を毎日が主催していました。その三番碁で連敗を続けていた高川は、さらに十番碁で打ち込まれてしまったのです。第一人者は呉清源、異論の余地はありませんでした。

本因坊の連覇中に「名人」と呼ばれることがなかった高川。しかし、昭和43年の秋から1年間は正真正銘の名人でした。
53歳になっていた高川は名人戦リーグで優勝し、挑戦権を獲得。七番勝負で若き名人、26歳の林海峰(りん かいほう)を破り、名人位に就いたのです。

私は学生時代から高川先生を尊敬していました。棋士として遅い24歳で私はプロに転じ、数年後に棋士会役員(幹事)の一人に選ばれたとき、棋士会長が高川先生でした。
雑誌や書物で知っていたのと変わらない高川先生は微笑みを絶やさず、穏やかで理知的。

高川棋士会長に仕えたのは2期4年。その後半は先生が前立腺ガンで闘病されていたため、目黒のご自宅に何度も伺いました。ときには私一人が呼ばれ、お話を聞いたことも。
師匠のいない私は、先生がお元気であれば弟子になりたいと、密かに思ったものです。

まだ早い76歳で、高川先生は惜しまれながら逝去。
高川先生が長生きしておられたら、その後の囲碁界はずいぶん違ったように思います。 (続く)

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