【手談への誘(いざな)い・第21回】呉・木谷・高川の時代(7) 【2007年03月30日(金) 】
第二十一世本因坊秀哉名人は、昭和十五年一月十八日朝、熱海のうろこや旅館で死んだ。数え年六十七であった。
川端康成の小説『名人』、その書き出しです。
川端は囲碁を愛し、秀哉名人引退碁の観戦記(毎日新聞の前身、東京日日新聞掲載)を執筆。その縁で川端は、引退碁の相手を務めた木谷實九段(当時七段)、観戦記の解説を務めた呉清源九段(同)と親交を結ぶようになりました。
『名人』は「自分の最も気に入っている作品」と、川端自身が語ったそうです。
私はその初版本(文藝春秋新社 昭和29年7月10日発行)を持っており、「あとがき」に、「本因坊秀哉名人引退碁の観戦記にもとづいて、小説風に改めたものである」と川端が記しています。
囲碁と将棋の世界では、幕府の保護を受けて江戸時代初期に家元制が確立しました。
家督は世襲され、囲碁の家元四家(しけ)の筆頭格であった本因坊家は家訓によって、実力随一の弟子に継がせるのが常でした。
徳川家康の碁師であった初代本因坊算砂(さんさ)に始まり、21世本因坊秀哉(しゅうさい)が引退するまで、本因坊の世襲は330年にわたって続きました。
昭和14年(1939)に引退した秀哉名人は、本因坊の名跡を日本棋院に譲渡。
本因坊は実力選手権戦のタイトルとなり、同年に本因坊戦(東京日日新聞)の予選が始まりました。第1期本因坊が決定したのは昭和16年。実力と人気を兼ね備えた呉や木谷でなく、誰も予想しなかった関山利一六段(後に関西棋院九段)が優勝し、本因坊となりました。
当初、本因坊戦は2年1期でした。戦中の昭和18年、第2期本因坊は橋本宇太郎七段が獲得(関山本因坊は病気悪化のため挑戦手合第1局で棄権)。
今年の5月には第62期本因坊戦(毎日新聞)七番勝負が始まります。
高尾紳路本因坊(名人)に対する挑戦者は、4月の本因坊戦リーグ最終ラウンドを残して4勝2敗の3人、依田紀基九段(元名人)、張栩碁聖(前名人、前本因坊)、蘇燿国八段のいずれでしょうか。(3人とも敗れた場合は順位一位の山田規三生九段も可能性あり。)
秀哉名人が引退の翌年に没したのち、名人はずっと空位でした。
曲折を経て名人戦が誕生し、第1期名人のタイトルを藤沢秀行八段(現名誉棋聖)が獲得した昭和36年まで。 (続く)
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川端康成の小説『名人』、その書き出しです。
川端は囲碁を愛し、秀哉名人引退碁の観戦記(毎日新聞の前身、東京日日新聞掲載)を執筆。その縁で川端は、引退碁の相手を務めた木谷實九段(当時七段)、観戦記の解説を務めた呉清源九段(同)と親交を結ぶようになりました。
『名人』は「自分の最も気に入っている作品」と、川端自身が語ったそうです。
私はその初版本(文藝春秋新社 昭和29年7月10日発行)を持っており、「あとがき」に、「本因坊秀哉名人引退碁の観戦記にもとづいて、小説風に改めたものである」と川端が記しています。
囲碁と将棋の世界では、幕府の保護を受けて江戸時代初期に家元制が確立しました。
家督は世襲され、囲碁の家元四家(しけ)の筆頭格であった本因坊家は家訓によって、実力随一の弟子に継がせるのが常でした。
徳川家康の碁師であった初代本因坊算砂(さんさ)に始まり、21世本因坊秀哉(しゅうさい)が引退するまで、本因坊の世襲は330年にわたって続きました。
昭和14年(1939)に引退した秀哉名人は、本因坊の名跡を日本棋院に譲渡。
本因坊は実力選手権戦のタイトルとなり、同年に本因坊戦(東京日日新聞)の予選が始まりました。第1期本因坊が決定したのは昭和16年。実力と人気を兼ね備えた呉や木谷でなく、誰も予想しなかった関山利一六段(後に関西棋院九段)が優勝し、本因坊となりました。
当初、本因坊戦は2年1期でした。戦中の昭和18年、第2期本因坊は橋本宇太郎七段が獲得(関山本因坊は病気悪化のため挑戦手合第1局で棄権)。
今年の5月には第62期本因坊戦(毎日新聞)七番勝負が始まります。
高尾紳路本因坊(名人)に対する挑戦者は、4月の本因坊戦リーグ最終ラウンドを残して4勝2敗の3人、依田紀基九段(元名人)、張栩碁聖(前名人、前本因坊)、蘇燿国八段のいずれでしょうか。(3人とも敗れた場合は順位一位の山田規三生九段も可能性あり。)
秀哉名人が引退の翌年に没したのち、名人はずっと空位でした。
曲折を経て名人戦が誕生し、第1期名人のタイトルを藤沢秀行八段(現名誉棋聖)が獲得した昭和36年まで。 (続く)
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【手談への誘(いざな)い・第20回】呉・木谷・高川の時代(6) 【2007年03月15日(木) 】
芸能やプロ競技の発達を、スポンサー抜きで語ることはできない。
時の経つのを忘れ、碁盤の上で純粋な知性の戦いを繰り広げる棋士も、仙人ではありません。碁で生活しているプロである以上、お金のことは重要です。
日本棋院所属棋士は、日本棋院から対局料や賞金(囲碁棋戦では優勝・準優勝のみ獲得)および若干の固定給が支給されます。棋戦スポンサーとの年間契約金の半分以上が当該棋戦の賞金・対局料として棋士に支払われ、残りは日本棋院の運営費に充てられています。
戦後日本の囲碁を支えた第一のスポンサーは新聞社でした。日刊各紙が主催する新聞棋戦が次々誕生し、掲載された棋譜・観戦記がファンの関心を集め、囲碁界は発展。名人戦の創設はその端緒となりました。
戦後の二大紙は朝日と毎日でした。朝日新聞は大手合(おおてあい)、毎日新聞は本因坊戦を掲載。
大手合は1924年(大正13年)の日本棋院創設とともに始まった昇段対局の制度です。2004年に大手合が廃止されるまで80年にわたって続き、棋士の昇段は大手合の成績のみによって決まりました。1927年から朝日がスポンサーになり、読売が名人戦を創設した1661年に朝日がスポンサーを降りた後は、日本棋院が自主財源で大手合を続けてきました。
毎日新聞は昭和14年に第一期の予選が始まった本因坊戦を今日まで一貫して主催。この5月には第62期本因坊戦の挑戦手合七番勝負(本因坊は高尾紳路名人)が始まります。
二大紙を追いかける読売新聞が掲載した「呉清源・打ち込み十番碁」は大いに注目を集め、同紙の発行部数増加に寄与したといわれます。読売が朝日を抜いて発行部数一位となったのは1977年でした。
名人戦は曲折を経て、1961年(昭和36年)読売新聞主催の最高棋戦として誕生しました。
さらに1974-75年の名人戦騒動を経て、名人戦は朝日新聞に移り、今日に至っています。
現在の最高棋戦は、名人戦の朝日移行に伴って読売が創設した棋聖戦です。
その話は後にするとして……
1952年(昭和27年)に朝日新聞が、大手合に順位戦を導入して名人戦をつくろうとしたことがありました。 (続く)
【参考文献: 『昭和囲碁風雲録(下)』中山典之/著 2003 岩波書店】
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