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【手談への誘(いざな)い・第25回】名人戦 (1) 【2007年05月31日(木) 】

囲碁界で初めて名人戦が企画されたのは昭和27(1952)年、朝日新聞が正式提案した大手合順位戦(名人戦)案でした。すでに行われていた将棋界の名人戦と同様の順位戦方式で、その頂点に立つ棋士が名人位に就くという案。
読売新聞専属棋士だった呉清源九段も参加を承諾し、朝日は日本棋院に契約金1千万円(年)を提示しました(参考:中山典之『昭和囲碁風雲録(下)』岩波書店2003)

そのとき日本棋院の渉外担当理事は本因坊(毎日新聞)を獲得したばかりの高川秀格。当時から慢性的赤字体質の日本棋院にとって、当時としては破格の契約金は大きな魅力で、高川は順位戦案推進派のリーダー的存在でした。
その一方で、実力者の木谷實八段(当時)は推進派の説得に耳を貸さず、反対を貫きました。名人は作るものでなく、(皆に押されて)出来るものである。そうした昔気質の信念が木谷にあったといわれます。

朝日案に対して日本棋院の理事会は賛成派と反対派が真っ二つに分かれ、最高議決機関(当時)である評議員会(当時は全員棋士)にかけたところ、28対27で賛成多数。
1票差とはいえ可決は可決ですから、高川は順位戦を実現することができたのです。

しかし高川は順位戦案の実施を見送りました。高川秀格回想記『秀格烏鷺うろばなし』(日本棋院1982)にこうあります。

分裂。この二文字が私にはいちばん怖かった。大勢が気持ちよく賛成するのでなければ、始めても意味がない。それから私は懸案の白紙撤回に奔走している。

亡くなって久しい高川(1915−1986)の人となりを知る者にとって、和を好む高川らしい決断です。高川の碁は、その人柄と同じように部分にこだわらず、全体的なバランスを重視する棋風でした。
敬愛する高川先生の座右「流水不争先(さきをあらそわず)」は私の好きな言葉です。

『秀格烏鷺うろばなし』には、さらにつぎのように書かれています。

少なくとも分裂の危機は避けられたとして、あのときは自分のとった決断を正しいと信じたのであるが、はたしてどうであったか。強引に推進すれば棋院が潤ったことはたしかである。しかし名人戦のみが値打ちがあり、ほかの棋戦がともすれば等閑視されがちになるのはいい姿とはいえず、現在のように大タイトルが並列に並ぶ姿はこのましい。

朝日新聞が代案として作った最高位決定戦は6期で終了し、朝日は大手合のスポンサーも降りました。代わって昭和39(1964)年に朝日プロ十傑戦とアマ十傑戦を開始。
そのプロ十傑戦も12期をもって幕を閉じ、昭和51年から朝日新聞が読売新聞に代わって名人戦を主催するようになりました。

紛糾を重ねた棋戦は名人戦のほかにありません。それも三度にわたる大騒動。
次回は読売新聞が名人戦を創設するまでの経緯についてお話ししましょう。

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【手談への誘(いざな)い・第24回】呉・木谷・高川の時代(10) 【2007年05月15日(火) 】

この数十年間に囲碁界は大きく発展しました。それを支えて来たのは数々の棋戦、とりわけプロ棋戦です。日本囲碁界はもとより、韓国、中国の囲碁界も然り。近年は台湾の囲碁界も活況を呈しています。

日本で棋戦創設が相次いだ半世紀前。名人戦がその端緒となりました。
名人戦は他の棋戦と異なり、誕生から難産でした。

最初は昭和27(1952)年。戦前から最大のスポンサーで、日本棋院の大手合を新聞掲載してきた朝日新聞が、囲碁の名人戦を正式に企画しました。
すでに実施されていた将棋界の順位戦と同様の方式により、最高位の名人を決定するという案。この朝日の提案に対する日本棋院棋士の意見は真二つに別れ、最終的に流産となってしまいました。

その最終決断をしたのは高川秀格(当時本因坊、八段 1915−1986)。高川は日本棋院の渉外担当理事でした。詳しくは、高川の回想(『秀格烏鷺うろばなし』日本棋院1982)を次回に引用します。

今日の囲碁界で最高のタイトルは棋聖、次いで名人、本因坊の順です。しかし、当時は本因坊戦がただ一つの大棋戦でした。

本因坊は江戸時代初期に始まる碁家(ごか)の名で、最強の弟子に世襲されて21世本因坊秀哉(しゅうさい 1874−1940)まで続いた家元の名称です。名人のいない時代は少なからずあっても、本因坊の不在が続いたことはありません。

朝日の名人戦(順位戦)案に魅力はあっても、毎年変わるかもしれない棋戦優勝者が本因坊よりいっそう権威ある「名人」の称号を名乗ることに、少なからぬ棋士が反対を表明しました。

最も強硬な反対論者は木谷實九段(当時八段 1909−1975)でした。
「名人は作るものでなく、出来るものである。という信念によるらしい」と中山典之が書いています。(『昭和囲碁風雲録(下)』岩波書店2003)

朝日は名人戦を断念。かわりに、大手合のスポンサーを続けながら大手合の最上位にリーグ戦を設け、最高位戦という棋戦を作りました。昭和30(1955)年春に始まった第1期最高位戦は坂田栄男九段(リーグ戦途中で昇段 1920−)が優勝。前年、病に倒れた木谷八段は第1期最高位戦を欠場しています。

31年に再起した木谷は第2期最高位戦リーグで7勝1敗(リーグ途中で九段に昇段)。挑戦手合は3勝1敗で坂田最高位を破り、「大豪木谷の復活」とマスコミが報じました。

最高位のタイトルを獲得した木谷九段は、碁が終わって人が去ったあと、突然、調子外れな声で、「ここに幸あり、青い空ァ」 と流行歌の一節をうなった。挑戦手合の記録係を務めた中山典之がそう書いています(〃)。

翌年の第3期最高位戦で、木谷は挑戦者の島村利博八段を退けて防衛。

読売の十番碁で無敵の呉清源(1914−)。朝日の最高位を連覇の木谷實。毎日の本因坊を九連覇(昭和27〜35年)した高川秀格。半世紀前(1957)の覇者は呉・木谷・高川でした。

年初から続いたテーマ「呉・木谷・高川の時代」が思いのほか長くなってしまいました。今回で一区切りとし、次回からテーマを名人戦に絞って、もう少し話を続けます。

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【手談への誘(いざな)い・第23回】呉・木谷・高川の時代(9) 【2007年05月01日(火) 】

世が世なら名人の候補になったかもしれない藤沢庫之助ですが、同時代に呉清源がいました。中国に生まれ、日本で開花した不世出の天才棋士です。

「藤沢庫之助九段との打ち込み十番碁は、複雑な経緯を経て1951(昭和26)年10月から始まりました。しかもいざ始まるとなると、持ち時間をめぐって再びもめました。」(呉清源『中の精神』東京新聞出版局)

藤沢は持ち時間13時間を主張。それでは一局打つのに三日かかるので、呉は日本棋院の当時の規定に従う10時間を主張。結局は藤沢の主張が通って各13時間に。さらに、藤沢の要望で敗者はリターンマッチを打つことができるとなりました。

「最初からリターンマッチの約束をするというのは、それだけ私に絶対勝ちたかったということなのでしょう。」(同)

今日では、最も長い持ち時間が三大棋戦(棋聖戦、名人戦、本因坊戦)挑戦手合・七番勝負(二日制)の8時間。国際戦は3時間です。通常の国内棋戦の予選も、3時間になりました。
また、現在の棋戦はすべてコミ碁(黒が6目半のコミを出す)ですが、呉清源打ち込み十番碁はコミなしでした。コミなしの碁は黒番が有利ですから、対局者の力が拮抗していれば、白番はなかなか勝てないはずです。
しかし、人間の勝負は理屈どおりになりません。

呉・藤沢十番碁は第1局から第5局まですべて白番の勝ち。
必勝の形勢だった第5局を落とした藤沢は、そこから敗戦を重ねました。カド番となった第9局。黒番の藤沢は勝勢を築いた後に大きなミスを犯し、ついに四連敗。
碁の内容は好勝負ながら、結果は呉の7勝2敗1ジゴで終わりました。

北海道・登別温泉での第9局に敗れ、先相先(せんあいせん)に打ち込まれた藤沢は、帰京するや直ちに、主催の読売新聞にリターンマッチ(先相先の手合で開始)を申し入れました。

「問題のリターンマッチは、52年秋から行われ、翌年春の第6局で、私が5勝1敗と打ち込み、それで終了しました。その第6局に臨む際に、藤沢さんは私に打ち込まれたら、日本棋院の名誉を汚すというので、辞表を懐にしていたそうです。」(同)

定先(じょうせん、二段差の手合)に打ち込まれた藤沢は日本棋院を脱退し、名を「朋斎(ほうさい)」と改めました。
九段が二人しかいなかった時代。棋士生命を賭けて十番碁を戦った「庫之助」は、呉清源に打ち殺されたのです。

「毎日新聞が同情し、無所属のままで藤沢を本因坊戦に参加させるよう尽力し、昭和32年に高川本因坊への挑戦権を得たが、2対4で敗退。昭和34年に各方面の尽力があって棋院に復帰している。」(中山典之『昭和囲碁風雲録』岩波書店)

昭和28年(1953)に王座戦(日本経済新聞)、翌年に早碁名人戦(産経新聞、十段戦の前身)が誕生しました。
藤沢朋斎九段は33年に王座を獲得。35、36年には早碁名人戦を連覇し、39年に十段戦で優勝しています。
その後、藤沢は日本棋院の運営に携わり、現在の日本棋院会館(市ヶ谷本院、1971年開館)の建設に際しては募金活動で大いに貢献しました。 (続く)

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