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【手談への誘(いざな)い・第26回】名人戦 (2) 【2007年06月15日(金) 】

私は割り切れない思いを残したまま、第1期名人戦に参加することになった。

呉清源回想録『以文会友』(白水社1997)で、呉九段はそう語っています。

その4年前に、読売新聞主催の日本最強決定戦(最強戦)が創設されました。名人戦の前身となった棋戦。今からちょうど半世紀前のことです。
その頃、囲碁界の最強者が呉清源九段であるのは、誰の目にも明らかだったでしょう。
とはいえ、日本棋院と袂を分かつ形で読売新聞の呉清源十番碁を打ってきた呉を、日本棋院が名人に推挙することはあり得ないのでした。

(同書より)続に六強戦とも呼ばれ、文字通り最強者を決めようという企画であったが、私としては大いに不満であった。なぜなら、六強戦の出場棋士は、私が打込み十番碁ですべて打込んだ相手である。その打込んだ相手と打込み返されることもなく再び互先に戻って実力を争うというのは、借金を何の理由もなく一方的に破棄することと同じであろう。四百年来の囲碁界のしきたりを無視したことになる。これでは、何のために十五年以上にわたって必死の思いで打込みを賭けた十番碁を打ち続けてきたかわからない。

異議を申し立てた呉に対して、読売新聞は「今後とも呉清源を中心として囲碁の企画を行う」との覚え書きを取り交わし、呉は最強戦に参加したのでした。
にもかかわらず、「私にひとことの相談もなしに」読売新聞は最強戦を名人戦に移行する企画を発表したと、呉は述べています(同書)。

「実力名人を決める」と謳った最強戦は、昭和32(1957)年に始まりました。当時の九段全員5名(呉清源、木谷實、橋本宇太郎、藤沢朋斎、坂田栄男)に、本因坊の高川秀格八段を加えた6人の総当たりリーグ戦です。コミなしで、同一相手と各2回(黒番と白番)対戦、。
第1期は予想に違わず、呉が8勝2敗で優勝し、2位は木谷九段、3位が坂田九段でした。

第2期最強戦は最も若い坂田が8勝1敗1ジゴで優勝しました。2位が木谷、呉は5勝5敗の3位でした。
「偶然にこの年は不調だったとしても、打ち分けにとどまったことは、神格化されていた呉清源もやはり人間だったという印象を他の棋士に与えたことになり、影響する所は甚大だった」と、中山典之が『昭和囲碁風雲録・下』(岩波書店2003)に書いています。

第3期は呉と坂田が同率優勝し、3期で終わった最強戦の通算成績も呉と坂田はまったく互角でした。最盛期をすぎつつあった呉清源に10歳若い坂田栄男の力が追いつこうとしていた時代といえるでしょう。
坂田が頂点に立つのはそれから数年後のこと。昭和36(1961)年、九連覇していた高川本因坊を破って本因坊位に就き、翌年には第2期名人位を獲得して、坂田は実力タイトル制になって初の名人本因坊になりました。

財団法人日本棋院の経営が苦しいのは最近はじまったことでなく、名人戦が昭和36年に誕生した背景には、日本棋院の財政難があったのです。
その当時、本因坊戦(毎日新聞)の契約金は960万円(年)。日本棋院が提示した契約金2500万円(同)を読売新聞は応諾し、名人戦が創設されました。
そうした経緯は中山(上記)が記しています。それを参考に、次回もう少し詳しく話しましょう。

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