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【手談への誘(いざな)い・第37回】名人戦 (13) 【2007年11月30日(金) 】

『呉清源・極みの棋譜』(中国/田壮壮監督)を観ました。祝日(11/23)でしたが観客は僅か……、落ち着いて鑑賞できたのは幸いでした。

前評判のとおり、静謐で美しい映像。台湾の人気俳優チャン・チェンは、呉清源の希有な純粋さをよく醸し出していました。しかし、碁を打つ場面が少なく短かったのは残念です。

呉清源自伝『中の精神』(東京新聞出版局)の映像化という面が強いのですが、2時間の映画で波乱の数十年を伝えるのは無理としたものでしょう。事前の知識が豊富でなければ、様々な場面を具体的に理解するのは難しいにちがいありません。

宗教活動に関する話はストーリーを感じます。しかし(私たちにとって)肝腎!な棋士・呉清源の実績とその背景について、心に残るシーンがなかったのは私だけでしょうか。

囲碁の世界の高い精神性、それを体現した呉清源の強さを、碁を知らない人にまで具体的に伝えるのはたしかに困難なことです。それらをもイメージとして、映像の緊張した美しさをもって伝えようと、田監督は考えたのかもしれません。そう思えば完成度は高く、魅力ある映画です。

この映画を観て、囲碁の世界に魅せられ、碁を知りたくなる人がたくさんいてほしい……でも、それは望まないことにしましょう。

話を本題に戻します。

昭和37(1962)年8月6日。呉清源九段は芝明舟町にあった「福田屋」で、旧名人戦(読売新聞)第1期リーグ最終局の二日目を打っていました。ここまで8勝3敗。対する坂田栄男九段も8勝3敗でした。

もう一つの最終局は紀尾井町の「福田屋」で同時に打たれており、藤沢秀行八段が橋本昌二九段に勝てば10勝2敗となって、単独1位。第1期名人が決まります。秀行八段が敗れた場合は9勝3敗になり、呉・坂田戦の勝者と同率。日を改めてプレーオフの一番を打ち、名人を決める規定でした。

中山典之著『昭和囲碁風雲録・下』(岩波書店)にこうあります。

    対局二日目の午後9時少し前、秀行は天井を仰いでから盤上に目を落とし、「おかしかったですねェ」と声を出した。投了にも色々とあるが、これが投了の合図だった。続いて秀行は盤側を顧みて、向うの碁(呉・坂田戦)はどうなっていますか、と聞いた。坂田勝勢と聞いた秀行、「坂田名人がついに出来るか」と呟き、ヨロヨロと立ち上がると部屋を出て行ったという。その後、彼がどこにいたかは誰も知らない。本人さえ泥酔して覚えていなかったのだから……。

    一方の明舟町の福田屋。大ヨセの段階では坂田が10目ほども優勢だったという。しかし坂田にはもう持時間がなかった。

(続く)

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【手談への誘(いざな)い・第36回】名人戦 (12) 【2007年11月15日(木) 】

フルセットの好勝負となった第32期名人戦、9月初めから2か月に及んだ熱戦がようやく決着しました。

10月11、12日の挑戦手合第4局で張栩(ちょう う 27歳)挑戦者が勝ち、3勝1敗。カド番に立たされた高尾紳路(たかお しんじ 31歳)名人でしたが、二日制の七番勝負はとくに強いという評判どおり踏ん張りました。第5局を制した名人は、さらに11月1、2日の第6局(山梨県甲府市)で白番半目勝ち。勝負の決着は最終局に持ち越されたのです。

第7局は11月8日午前9時から静岡県熱海市で打たれ、9日午後5時42分に292手で終局。黒番の挑戦者が2目半勝ち。シリーズ4勝3敗で張栩碁聖が高尾名人を破り、昨年失った名人のタイトルを奪還しました(名人位通算3期)。

「去年より少しは成長した気がする。本当に強い相手で、たくさん教わりました」と張栩碁聖。「(第4局に敗れて)このまま負けるのかなと思ったが、そのあと二つ勝てたので、大きな自信になった」という高尾名人の言葉、そして爽やかな笑顔(談話と写真:asahi.com)。

碁の内容、品格ある両者の態度、どこにも曇り一つない素晴らしい七番勝負でした。

なお日本棋院の規定で、正式に張栩碁聖が名人・碁聖、高尾名人本因坊が高尾本因坊(前名人)と呼ばれるのは対局終了の翌日となっています。

今日の囲碁最高棋戦は棋聖戦(読売新聞)です。次いで序列順に名人戦(朝日新聞)、本因坊戦(毎日新聞)。また、棋聖と碁聖は同じ意味の言葉ですが、碁聖戦(共同通信、地方新聞掲載)は国内棋戦の序列7位です。

昭和36(1961)年から50(1975)年まで、最高棋戦は(旧)名人戦でした。読売から朝日に名人戦が移り、棋聖戦の創設が決まったのは昭和50年12月。新聞紙上を賑わわせた「名人戦騒動」が和解し、碁界に再び春が訪れました。

戦後の囲碁界最初の春は、今からおよそ半世紀の昔。囲碁ファン待望の名人戦が昭和36年1月に始まりました。第1期は13名によるリーグ戦の優勝者が名人に就き、翌期は10名のリーグ戦で、優勝者が名人に挑戦、七番勝負で名人位を争うという規定でした。

第1期名人戦リーグ13名の参加者は、11名の全九段と、最高位のタイトルを持っていた藤沢秀行八段、加えて最強戦(名人戦の前身)の最終第3期に三位(4勝4敗2ジゴ)の好成績を収めていた岩田正男七段(現達明九段)。

「昭和37年8月5日、6日。リーグ戦は最終局を迎えてクライマックスに達していた」と『昭和囲碁風雲録・下』(岩波書店)にあります。

リーグ戦開始から1年8か月、総当り全78局のうち76局を終えて優勝はまだ決まらず、初代名人位の行方がかかる最後の2局が同日に別の場所で打たれました。劇的な結末を迎える呉清源・坂田栄男戦の記録係を務めたのが若き日の中山典之六段(上記著者)でした。

(続く)

【ご案内】
戦前戦後、激動の歴史の中を懸命に生きた呉清源。昭和の棋聖と呼ばれる同九段の人生を描いた秀作(中国映画)『呉清源 極みの棋譜』が11月17日から全国で公開されます。

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