【手談への誘(いざな)い・第39回】名人戦 (15) 【2007年12月29日(土) 】
呉清源九段は1983年に引退し、93歳の今も健在です。映画『呉清源・極みの棋譜』のエピローグは引退式の記念連碁でした。白の呉九段に対して一手ずつ打つために居並ぶ数多くの棋士、名士。最初の一手を打ったのは呉九段の兄弟子、橋本宇太郎九段です。その第一手、黒石が天元!に打たれたところで映画は終わりました。
『橋本宇太郎 囲碁専業五十年』(1972年/至誠堂)という回顧録があり、「呉」と題された章の最後にこうあります。
- 呉さんをなぜ新名人制による最初の名人にしなかったのか。後世の人は、呉さんが中国人だったから、昭和の棋士たちは名人にしなかったのだろう、などと言うかも知れない。あるいは、呉清源が打ち盛りを過ぎた時期を見計って、名人戦をはじめたのだ、などという誤解も抱きかねない。
呉さんを第一期名人にしなかったことは、昭和囲碁史の一汚点になりかねない。同じ時代に生きた一人の棋士として、わたしはそれを残念に思う。
第1期旧名人戦リーグ、全78局の中で唯一のジゴが最後の一局に生じ、ジゴをめぐる異例の規定が名人の行方を左右しました。
最終局で呉清源九段が坂田栄男九段に白番ジゴ勝ち。呉は藤沢秀行八段とともに9勝3敗の成績を上げましたが、ジゴ勝ちは劣るという規定により2位。プレーオフなしで、藤沢が第1期名人のタイトルを獲得することに決まりました。
それが確定したのは深夜、昭和37(1962)年8月7日に日付が変わった直後でした。その頃、早々と橋本昌二九段に敗れた藤沢秀行は紅灯の巷に。どこで飲んでいたのか、本人も覚えていないという。
- そんな事情を知る由もなく、私は飲んでいた。読売の記者は、新名人の所在がつかめずあわてたらしい。私は夜中の1時頃に帰宅した。当然、家内は新聞社から連絡を受けている。そのむね私にも伝えたというのだが、私はしたたかに酔っていたので、まともに耳に入るはずもない。
そのまま寝てしまったら、ひと眠りもしないうちに、報道陣が押しかけてきた。まさに寝耳に水。私はもうろうとした頭で、初めて自分が名人になったことを知った。(1999年/角川文庫『私の履歴書 碁打秀行』)
囲碁では、ときに誰も予期しないことが起きます。第1期名人戦の最終局も、碁の神様のいたずらだったのでしょうか。呉清源でも坂田栄男(当時本因坊)でもなく、実績も評価も両者に及ばなかった藤沢秀行が初代の名人位を獲得しました。
秀行夫人、藤沢モト著『勝負師の妻』(2003年/角川oneテーマ21)に「転がり込んだ名人位」という一節があります。『碁打秀行』と読み比べると面白いですよ。
- リーグ最終局、藤沢は橋本昌二さんに負けたのです。結果は9勝3敗でした。その後、いつものように飲みに行き、べろべろに酔っ払って朝方に帰ってきました。(中略)
わたしは夜中に連絡を受けて聞いており、帰ってきた藤沢にそのことを伝えたのですが、正体のないほどに酔っ払っており、まったく聞こえていなかったようです。 翌朝の10時ころ、新聞社の方がインタビューにみえました。まさか優勝インダビューとは思わぬまま、まだ酔いが醒めやらぬ頭で、ステテコ姿で記者の方のところへ出てきた藤沢は、とんちんかんなことばかり言っていました。よほどびっくりしたのでしょう。自分では、そのとき何を話したかまったく覚えていないと思います。
こののち、新しいタイトルができると真っ先にそれに勝つところから、「初物食いの秀行」などと言われるようになりました。
呉九段は第2期も第3期も名人戦リーグで健闘しますが、いずれも最終戦で挑戦権を逸して しまいました。第2期は坂田九段が挑戦者となって、藤沢名人(八段)から名人位を奪取。第3期は九段に昇段した藤沢が挑戦するも奪還ならず。名人を連覇し、本因坊と合わせて二冠の坂田が一時代を築いたのでした。
交通事故の後遺症で体調が悪化した呉は、第4期の名人戦リーグでなんと全敗。しかし、呉の弟子、台湾出身の林海峰(りんかいほう)が同リーグで優勝しました。
23歳の林八段は名人戦七番勝負で坂田名人に4勝2敗。全盛期の坂田を降して名人位を獲得し、以後三連覇を果たしました(旧、新通算名人位8期)。
呉清源の時代は去り、若き林海峰そして木谷一門の隆盛へ……。
昭和50年、名人戦は朝日新聞に移り、読売新聞は最高棋戦として棋聖戦を創設。その経緯など、新春から「棋聖戦」にテーマを替えてご紹介しましょう。
年が明けると、第32期棋聖戦七番勝負が始まります。三連覇(通算4期)を目指す山下敬吾棋聖に挑戦するのは、「七番勝負の鬼」と呼ばれるベテランの趙治勲十段(25世本因坊)。第1局はブラジル・サンパウロで1月12、13日に。
(続く)
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【手談への誘(いざな)い・第38回】名人戦 (14) 【2007年12月15日(土) 】
囲碁の日本ルールは最終的に地の多い方が勝ち。韓国も同じです。中国ルールは一方の石と地の合計が、盤上361の半分より多いか少ないか数えます。計算法が違うだけで、競技法は変わらず、同じ碁です。
日本ルールでは双方の地が同数になることがあり、それをジゴ(持碁)といいます。その場合は引き分けとするのが古来からの慣習です。
碁では先着する黒の方が有利なので、それを調整するためのルールがコミです。昭和14(1939)年に本因坊戦が誕生してから40年代まで、棋戦のコミは4目半(黒が出す)がほとんどでした。
しかし、昭和36(1961)年に生まれた旧名人戦(読売新聞)は異例のコミ5目を採用。ジゴは白勝ちと規定されたので、それならコミ5目半と勝敗結果は同じです。しかし違いがひとつあり、リーグ戦におけるジゴ勝ちは通常の勝ちに劣るという規定が加えられていました。
『昭和囲碁風雲録・下』(岩波書店)で中山典之六段はこう書いています。「ジゴ勝ち下位という規定がケチの付き始めで、昭和の碁聖呉清源はついに名人になれなかったのである」と。
その年(37年)の春に入段した(棋士初段になること)ばかりの中山は記録の名手で、名人戦リーグの最終局、呉清源・坂田栄男戦の記録係を務めました。
ここまで、両者とも8勝3敗。9勝2敗でトップの藤沢秀行九段が敗れたときは、呉・坂田の勝者と藤沢でプレーオフになります。ただし、ジゴになった場合を除いて。
- 何しろ天下の呉清源怒濤の追い込みである。さすがの坂田も大事を取り、ゆるみ、ついにジゴ一(注、ジゴか1目差かというきわどい局面)の碁になったのである。 夜半11時55分。半コウツギツギとなって碁が終わった。坂田本因坊は負けと思っていたとみる。坂田、 「負けですか?」 と盤側の立会人藤沢朋斎を顧みる。 「サア……」 朋斎九段は煮えきらない。 坂田本因坊は盛んにこぼし出した。あきれた、バカな手を打った、どれくらい損をしたんだ、大分良かったのに……、などと際限もなく。 その間、5分ほど、呉清源九段は黙然と盤上を見つめていたが、 「作ってみましょう」 と落ちついた声で坂田をうながした。 白地30目。黒地35目。5目のコミがあり、果然ジゴである。ジゴ白勝ちである。 「何だ、半目か。半目負けだったのか」 うめく様な坂田の声。規定ではジゴだが、坂田は事実上の負けであるジゴをジゴと思っていない。彼がハッキリと「半目負けだったのか」と叫んだ声を私は聞いている。
その3時間前、秀行九段は橋本昌二九段に敗れていました。しかし、結果がジゴなら第1期名人が決まるわけで、念のため記録係の中山初段が別室の碁盤で棋譜を手に、初手から並べ返して確認。
- 間違いがあるはずもなく、ジゴである。 対局室にとってかえした私は、 「ジゴに相違ありません」 と報告した。とたんに坂田本因坊、 「オイ。間違いないだろうな」 と血走った目玉で睨んだが、恐る恐る「ハイ」と返事をした記録係から目をそらし、 「しょうがねぇなァ」 と呟いて天井を仰いだ。藤沢秀行名人が確定した瞬間であり、呉九段の姿はなかった。
(続く)
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