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【手談への誘(いざな)い・第41回】棋聖戦 (2) 【2008年01月30日(水) 】

年が明け、棋聖戦(読売新聞)が始まりました。国内最高棋戦。優勝賞金4200万円(公称)は、4年に1回(オリンピック年、今年は第6回開催予定)台湾主催の応昌期杯(同40万ドル)と並んで、囲碁賞金額の世界最高です。

三連覇を目指す山下敬吾棋聖(29歳)に挑戦している趙治勲十段(51歳)はタイトル戦優勝70回(史上1位)、三大タイトル戦(七番勝負)を37回戦って29勝8敗の驚異的な戦績を誇る「七番勝負の鬼」です。趙十段(九段、25世本因坊、十段は現タイトル)が七番勝負に登場するのは6年ぶり。

第1局は1月12、13日にブラジルのサンパウロで打たれました。日系移民百周年を記念するイベントとして招致され、日本棋院南米本部の関係者をはじめ熱烈な歓迎でした(週刊碁)。

日本棋院の通称岩本基金による南米本部の開設(1989)がなければ、今日の南米囲碁界はなかったでしょう。後半生を国際普及に捧げた岩本薫九段(1902-1999)の回想録「囲碁を世界に」(講談社1979)は貴重な資料です。その第1章「修行時代」の書き出しから。

    私は明治35年2月5日、島根県美濃郡高津町で生まれた。石見の高津は現在は益田市になっている。(中略)4歳のとき両親と朝鮮の釜山へ移住したので、故郷のことはほとんどおぼえていない。釜山へ向かう船の中で大砲の音を聞いたように思う。明治38年だから、日露戦争のときであったが、それが戦争の大砲の音だったのかどうか。

岩本が釜山(プサン)へ渡ったのは1905年。それから51年後の釜山に、囲碁の天才が誕生します。朝鮮戦争の災禍を逃れてソウルから疎開していた趙一家に生まれた治勲です。趙治勲は6歳で来日して木谷實九段の内弟子になり、11歳でプロ初段になりました。

日露戦争に勝った日本が韓国を併合したのは明治43(1910)年です。その翌年、数え年10歳の岩本は碁をおぼえ、釜山の日本人碁会所に通って急速に上達。勧められて広瀬平次郎八段に入門するため、12歳で釜山を離れました。上京する途中で郷里・高津の土を踏み、「送別碁会など催してくれた」と書かれています。

世界遺産に登録された石見銀山。その石見の国(島根県の西半分)と囲碁は縁が深く、四世本因坊道策(1645-1702)の生地でもあります。

「道策の前に道策なし、道策の後に道策なし」と言われ、囲碁史に燦然と輝く棋聖。他に棋聖と呼ばれた棋士は江戸後期の本因坊丈和(1787-1847)と、明治中期になって名声が一段と高まり、棋聖と呼ばれるようになった本因坊跡目秀策(1829-1862)だけです。棋聖戦が誕生するまでは。

南米の囲碁ファンが注目した第32期棋聖戦第1局は、白番の山下棋聖が沈着に打ち進めて中押し勝ち。棋聖戦挑戦手合における連勝記録を9に伸ばしました。

第2局は1月30、31日に岩本九段の郷里、島根県益田市で打たれます。

前回に続く話、「名人戦問題」が決着し、棋聖戦が誕生するまでの経緯は次回以降に。

(続く)

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【手談への誘(いざな)い・第40回】棋聖戦 (1) 【2008年01月15日(火) 】

数ある棋戦の中でどうして、名人戦だけ何度も紛糾するのか。名人という特別な名称が問題を招いてきたのでしょうか。

名人戦の主催をめぐり、新聞二紙共載という話がありました。将棋の名人戦(順位戦)は曲折の末に昨年から、朝日新聞と毎日新聞の共載となっています。

囲碁の名人戦でも読売新聞と朝日新聞が一時的に共載する案がありました。33年前のこと。紛糾が続く名人戦問題の解決策として、田実渉日本棋院総裁(当時)が進めようとした調停案です。昭和50(1975)年7月16日の読売新聞「名人戦問題の経過」より。

    田実総裁は、読売、朝日両者への打診の結果、囲碁という文化財産の発展、普及との大乗的見地から3月1日、(1)15期1年間は両者共同掲載とする。 (2)16期以降については委員会もしくは審議会など特別な機関を設け、その答申をもとめて棋院が決定する――との田実調停案を作成、両社とも「共載」について、大筋として内諾、棋院理事も承認した。

碁界を支援する政財界の有力者は、事の成り行きを心配していました。2月、岩本薫九段は福田赳夫副総理(当時)に会った際に、「君も大変だろうが、田実総裁一任ということになっているのだから、総裁に任せておいたほうがいいよ」というアドバイスがあったと、回想録に記しています。福田元首相は愛棋家で免状はアマ八段。日本棋院の理事、顧問を長く務められました。子息の現総理が碁を嗜むと聞かれないのは残念です。

しかし、田実案は棋士大多数の賛同を得られませんでした。

    理事会はこの結果に基づき、田実案の「一年共載」を骨子とした態度を5月12日正式に決定、両社に通告した。名人戦問題はこれで一応の解決とみられたが、「調停案」に反対する棋士理事数人がこの理事会から退席する事態もあり、6月3日の評議員会は理事会案を否決、有光理事長以下、棋士理事全員が総辞職という事態となり、問題は再び振り出しに戻っていた。

田実渉氏は三菱銀行の頭取から会長を、有光次郎氏は文部省の事務次官を務めた方です。棋院内外の信望を集めた両氏でしたが、名人戦問題の収拾に失敗し、有光氏は20年に及ぶ日本棋院の理事長職を去りました。

名人戦問題が円満解決を見るまで、それから半年(発端から1年)かかりました。有光理事長のもと、棋士のトップは岩本薫副理事長(第3・4期本因坊、当時74歳)でした。田実総裁の意を体し、読売と対立を回避しようとした岩本は、朝日派の理事、棋士から激しい突き上げを喰いました。本因坊薫和回想録『囲碁を世界に』(講談社1979)にこうあります。

    いま考えるに、もし当時、田実総裁や岡田儀一さんの意向を無視して、棋士だけで短兵急に事を決めてしまったら、読売は現在の棋聖戦をやったかどうかわからない。また、国会でも問題になったくらいだから、世間の日本棋院に対する心証を害し、国庫補助をはじめ、政財界の援助も受けにくくなったであろうと思う。大きな問題が解決するには、時の経過が必要だった。

昭和4(1929)年、新進気鋭の岩本薫六段は新妻を連れてブラジルへ旅立ちました。碁を捨てて移民船に乗り、農場経営を夢見た場所がサンパウロでした。2年で帰国した岩本ですが、若き日の思いは囲碁の世界普及への情熱に変わり、60年後(1989)のサンパウロに日本棋院南米本部が開設しました。岩本が私財を日本棋院に寄附して誕生した海外センターの第一号です。

今ごろ(1月10日)山下敬吾棋聖と趙治勲十段(25世本因坊)はブラジルに到着し、身体を休めているはず。第32期棋聖戦七番勝負の第1局(1月12、13日)はサンパウロで打たれます。

そのとききっと、岩本先生(99年に97歳で没)は碁を見ながら、好きなお酒をチビリチビリやっているでしょう。サンパウロの天上で眼を細めて。

(続く)

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