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【手談への誘(いざな)い・第48回】囲碁による「まちづくり」 (3) 【2008年05月15日(木) 】

2006年に因島市ほかと合併した広島県の新・尾道市は、因島の市技・囲碁を継承し、尾道市のまちづくりに役立てようとしています。この春には因島(外浦町)に本因坊秀策記念館が完成しました。開館は本年秋で、特別展が予定されています。

因の島に生まれた本因坊秀策(しゅうさく 1829-1862)は、歴史上で最もよく知られた棋士です。碁を愛する人で、棋聖(碁聖)と呼ばれる秀策の名を知らない人はいないでしょう。「秀策流」「秀策のコスミ」「耳赤の一手」など、その手がどのようなものか知らなくても、一度ならず耳にしたことがあるはずです。

しかし碁を打たず、碁に関心のない人の多くは、秀策を知らなかったでしょう。2006年7月5日にNHK「そのとき歴史が動いた」で囲碁が取り上げられるまでは。人気番組の第256回は「勝負師は志高く〜碁聖・本因坊秀策の無敗伝説〜」と題し、秀策の御城碁19連勝がテーマでした。

幕末の文久元(1861)年11月17日。芸兄(事実上の師)である14世本因坊秀和(八段)と江戸城に上った本因坊秀策(跡目・七段)は、将軍(14代家茂)の御前で林門入(林家12世・七段)と御城碁・正式手合の一局を並べて見せました(慣例により下打ち済み)。続いて、将軍が早碁を所望し、秀和と門入が2局続けて打ち、打ち分け(1勝1敗)。秀策は林門入の跡目である林有美五段と「常の御好み」(秀策書簡)の碁を打ちました。『日本囲碁大系15・秀策』(執筆・林裕)によるとこれは早碁でなく、「打ち掛けにして下城し、寺社奉行役宅などで打ち継がれた」ようです。

2局はいずれも秀策の白番で、門入に11目勝ち、有美に中押し勝ちと連勝。御好みを含め、御城碁の通算成績を19戦全勝(うち御好み7局)としました。

江戸時代の棋士にとって御城碁は最高の晴舞台。秀策がその成績に執着したのは当然ですが、段位差・実力差のある格下の相手との対戦では、負ける可能性がある二子の手合割(ハンデ)で打つことを避けたという話が伝えられています。碁家を仕切っていた第一人者の本因坊秀和に、そのように頼んでいたというのです。

二百年余も続いた御城碁は、その年が最後となりました。翌文久2年は直前に江戸城火災のため御城碁は中止。文久3年も碁家は御城碁の準備をしていましたが、下打ちのみ(棋譜は残っていない)で行われませんでした。前年の生麦事件に端を発する薩英戦争、文久の政変、攘夷派の浪士がフランス士官を襲った井土ヶ谷事件と続き、政情不安の中で御城碁は自然消滅となりました。

しかし、もし御城碁が続いたとしても、秀策が20局目を打つことはなかったのです。秀策は棋聖道策(1645-1702 4世本因坊)も為し得なかった御城碁不敗という不滅の偉業を残し、15世本因坊を襲名することなく、文久2年8月に伝染病(コレラ)で没しました(34歳、明治維新の6年前)。秀策が跡目のまま没したことを、NHK番組で初めて知った愛棋家もいたことでしょう。

テレビの影響は大きく、この番組のおかげで囲碁・囲碁史と秀策に関心をもつ人が増えたことは、囲碁界にとっても尾道市にとっても喜ばしいことでした。本因坊秀策記念館の建設推進にも寄与したことでしょう。

ただ、この番組を見た私は、解説者が述べた明らかな誤りに驚きました。誤りは二つあり、一つは重要なことです。ケチをつけるつもりはありませんが、放送から2年が過ぎていますから、それを指摘して悪いことはないでしょう。次回、棋聖戦創設の話に戻る前に、そのことを書きます。

(続く)

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【手談への誘(いざな)い・第47回】囲碁による「まちづくり」 (2) 【2008年05月01日(木) 】

    趙南哲さんが、昭和12(1937)年12月に、はるばる京城からやってまいりました。私は次男がお腹にいたので、大きなお腹で駅に迎えに行きました。14歳の少年が、現在のソウルから一人でやってきたのです。

『木谷道場と七十人の子どもたち』(NHK出版 1992)にこうあります。趙南哲は戦後に韓国囲碁界を育てた大棋士(1923-2006 九段 韓国棋戦優勝多数)で、趙治勲25世本因坊の叔父です。「やってきた」ところは平塚にあった木谷道場。その数ヶ月前に、木谷夫妻は幼い長女、長男を連れて(次女は前年病死)平塚へ引越したばかりでした。趙南哲「楽しかった修業時代」という一文が載っています。

    入門してから昭和18年2月までの内弟子生活中、一番つらかったのは食べ物不足だった。立派な庭園をつぶして畑にした。(中略)マキで風呂をわかしたり、子供のお守をしたり、投網のお供をしたり、丸三年間は私一人だったので、結構忙しい毎日だった。しかし、“若い時の苦労は買ってでもやれ”という諺をわかっていたので、それらが苦労でなく、かえって楽しい思い出として、今でも懐かしいばかりである。

私は1970年、日中韓三国(日中国交回復以前で、当時の中国は台湾)高校対抗戦の代表一員として韓国へ行ったとき、趙南哲先生に会い、声をかけていただきました。心優しい立派な人と感じたことを覚えています。

著者の木谷美春は木谷實(1909-1975 九段)の夫人で碁は打たず、多数の弟子たちから「お母さま」と慕われた立派な女性でした。「実は、神様にお願いしていたことがあります」と書かれています。「もし罰をお与えになるときは、ぜひ私ども家族でお受けさせてくださいますようにと、これは真剣にお祈りしました」と。

美春夫人は「出版にかなり執念を燃やしていた」が、出版予定の半年前、81歳を迎えた平成3(1991)年6月に「蜘蛛膜下出血で不意にこの世を去ってしまった」と、長男の木谷健一さん(医師、元国立長寿医療研究センター長)が同書「あとがきにかえて」で述べておられます。

私は、その「あとがきにかえて」を読んで、忘れられないところがあります。

    けがや病気が起きるなら、どうか自分の子どもの方に当たってくれと神に祈っていたと書いてあるが、これは母の本当に正直なところであると思う。おかげで、私は小学校2年生、13年後には正道(三男)が3年生の時に瀕死の重傷を負ったが、何十人もの弟子たちは、一人も大けが、大病をせずに育った。弟子がすべて家を去ったあとも、これだけは神様が助けてくれたと何回も私に語っていた。

昭和8(1933)年に初めての弟子が入門してから49(1974)年に道場を閉めるまで、40年余の長きにわたって木谷夫妻は多数の弟子を育てました。これまでに棋士になった者は、孫弟子、ひ孫弟子を合わせると百名を超えます。

内弟子たちと一緒に育った木谷の三女・禮子(1939-1996 七段)は棋士となり、小林光一(1952- 九段)との間に生まれた長女・小林泉美(1977- 六段)も棋士となり、張栩(1980- 九段、現名人)と結婚。二人の長女、まだ幼い心澄(こすみ)さんも木谷夫妻の血を受け継いだ立派な棋士になるでしょう。

街おこしに役立てようと囲碁の活用を進めている平塚市は、昭和36(1961)年に四谷へ移るまで同市にあった木谷道場を記念して、「木谷実・星のプラザ」を市民センターに設置しています。また、木谷一門を中心とする多数の棋士が数千人の囲碁ファンと交流する一大イベント「湘南ひらつか囲碁まつり」を毎年開催(今年は10月12日)。呼びものの「囲碁1000面打ち大会」はテレビニュースなどでも報じられます。

(続く)

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