【手談への誘い・第54回】羽根新本因坊のフルセット伝説(2) 【2008年08月16日(土) 】
羽根直樹新本因坊は8月14日に32歳の誕生日を迎えました。日本棋院中部総本部の悲願であった本因坊位に就いた羽根を、中部の囲碁ファンは諸手を挙げて祝ったことでしょう。
父・羽根泰正九段の師・島村俊廣九段(1912-1991)が高川秀格(1915-1986本因坊九連覇により22世本因坊)に2年連続挑戦。その30年後には、泰正九段の弟弟子・山城宏九段が武宮正樹(本因坊通算6期)に2年連続挑戦。さらに平成5年も山城は挑戦者になりましたが趙治勲(本因坊十連覇により25世本因坊、本因坊通算12期、獲得タイトル通算71は史上1位)に敗れました。島村一門にとって本因坊は、5回も挑戦しながら獲得できなかった因縁のタイトルだったのです。
第63期本因坊戦で羽根直樹九段は三連敗後の四連勝。初挑戦で、高尾秀紳十段(十段はタイトル)から本因坊を奪取しました。囲碁の七番勝負(三大棋戦)で三連敗四連勝の大逆転は6回目、週刊碁(日本棋院)には「普通の奇跡」?と。
羽根直樹は打ち盛りの頃の山城宏に鍛えられて強くなりました。平成3年に14歳で入段。その年の11月に、山城は第16期棋聖戦挑戦者決定戦に進出。三番勝負の相手は趙治勲本因坊でした。初戦に敗れ、第2局で逆転の半目勝ち。12月の第3局に勝利し、初の棋聖挑戦を決めました。
棋聖を六連覇していた小林光一(獲得タイトル通算59で史上3位、棋聖8期、名人8期ほか)と山城が戦った七番勝負は、中部の囲碁ファンならずとも忘れられないシリーズです。このとき39歳で脂がのりきっていた小林に対して、33歳の山城は五分に渡り合い、第5局に勝ってタイトル奪取に王手をかけました。第6局は小林が制し、タイトルの行方は第七局に。そして……、『囲碁年鑑1992』(日本棋院)から引用しましょう。
- その最終局は、小林が序盤からややリードしたものの、山城がジワジワと追い込み、終盤では一時、逆転して、控室では「ニューヒーロー誕生」と歓声が上がったほどだ。対局地の岐阜は山城のおひざ元である。
小林自身、局後に「負けを覚悟した」と述懐したほどだったが、山城が勝ったという思いからの油断(羽根泰正九段)から小林が再び逆転し、きわどい半目差で防衛を果たした。
1977年に島村九段が天元、90年に羽根泰正九段が王座を獲得していましたが、三大タイトル(棋聖、名人、本因坊)に輝いた棋士はまだ日本棋院中部総本部にいませんでした。中部に初のビッグタイトルを。1992年3月18日、第7局の二日目。対局場・下呂温泉「水明館」の関係者控室は棋士が溢れていました。
夕刻を前に、山城がはっきり優勢。控室で検討を続けていた中部の棋士たち、彼らの顔は喜びに輝いたでしょう。しかし歓喜は長続きせず、やがて落胆へ……半目負け。
私はその場にいませんが、『棋道』(休刊/日本棋院)で見たモノクロの写真が記憶に残っています。和室の中央には検討盤を囲む棋士たち。写真の右上に一人の若者が写っていました。少し離れた縁側に立ち、碁盤へ視線を注いでいたのは、若き日の羽根直樹です。前年4月に入段し、抜群の成績で7月には二段に昇段した15歳のサラブレッド。この日、彼は何を感じたのでしょうか。
フルセットの最終局で負けたことがない新本因坊、羽根直樹の動じない強さ。それが持って生まれたものだけによるとは思えません。
(続く)
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