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【手談への誘い・第61回】大久保利通と牧野伸顕 【2008年11月28日(金) 】

碁を打つ場面が多くあった「篤姫」が、NHK大河ドラマでは十年ぶりの高視聴率を得たことは囲碁界にとっても朗報です。囲碁普及の効果も期待されます。

史実と異なるところ所は多々ありましたが、視聴率を意識して作るドラマではやむをえないことでしょう。篤姫が碁を知っていたのは間違いないと思われます。しかし、小松帯刀は碁を打たなかったらしい。「篤姫」の最終回では、篤姫と慶喜の対局が見られるでしょうか。

徳川家康が囲碁を愛好したこともあって、歴代将軍の多くが碁を打ちました。しかし、江戸時代に将軍が打った碁の棋譜は一つも残っていません。最後の将軍、15代徳川慶喜は碁が生涯の趣味でした。晩年の慶喜が明治38年に高崎泰策六段(プロ)と打った指導碁の棋譜があり、唯一ある将軍の棋譜です。拙著『囲碁の知・入門編』(集英社新書2001)では、その五子局の一場面を紹介しています。結果はジゴ(引分け)です。

西郷隆盛と大久保利通は囲碁を大いに好みましたが、「篤姫」の脚本でそれが無視されていたのは残念でした。大久保が島津久光に近づくために、久光の碁敵であった住職、乗願から囲碁を学んだのは、よく知られた話です。ただし、碁の手ほどき(入門指導)を受けたのではありません。

大久保が数え17歳のときの日記に、牧野という人が碁を打ちに大久保宅を訪れ、三番打って負けたと記されています。伯父の娘の嫁ぎ先である牧野家の誰かでしょうか。後に、大久保は生まれたばかりの次男(伸顕)をその牧野家の養子にしています。

薩摩藩では下級武士の家にも碁盤があったでしょう。西郷も大久保も子どものころから碁を知っていたはずです。青年武士が碁を打ちながら、天下国家を碁に喩えて論ずることも珍しくなかったにちがいありません。先祖が渡来系である島津家は古くから代々囲碁を嗜んでいたと思われ、薩摩藩では碁が盛んでした。碁聖と呼ばれる4世本因坊道策(1645-1702)の時代には、江戸の本因坊家で修業した道策の弟子二人を囲碁指南役として召し抱えています。

「私から碁をとったら死にます」
そう言ったと伝わるほど好きで、碁が唯一の趣味だった大久保は晩年、暗殺される明治11年(1878 満47歳)までの数年間、17世本因坊秀栄(14世本因坊秀和の次男、当時は13世林秀栄)に碁を教わりました。私欲のない大久保は財を成さず、秀栄への謝金も僅かであったといいます。金銭に執着しない秀栄は、そういう大久保が好きでした。

大久保の次男、牧野伸顕(1861−1949)も碁を好み、大正13年(1924)に創立した財団法人日本棋院の初代総裁となりました。大正時代から昭和初期に大臣を歴任した牧野伸顕は、父親に似て清廉高潔な政治家でした。牧野の長女雪子を妻とした吉田茂元総理大臣は碁を打ちませんでしたが、岳父をたいへん尊敬していました。吉田茂・雪子の孫である麻生太郎さんは大久保利通の玄孫です。天国で碁を楽しんでいる大久保は、現総理が碁を打たないことを残念に思っているでしょう。

(続く)

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【手談への誘い・第60回】囲碁史を飾る七番勝負 【2008年11月13日(木) 】

第33期名人戦七番勝負。これほど注目され、盛り上がった囲碁のタイトル戦が過去にあったでしょうか。この四半世紀では記憶にありません。

史上最年少、十代の名人が誕生するか。挑戦者井山裕太八段が二連勝したとき、その期待が実現するかと思いました。しかし張栩(ちょう う)名人は日本最強の評価に違わず、気魄あふれる碁で三連勝。

名人の防衛なるかという第6局が10月30、31日に伊豆市の鬼の栖で打たれました。後のない井山は黒番で完璧に打ち回し、やや精彩を欠いた名人が短手数(99手)で投了しました。名人位の行方は翌週の第7局に。

11月5、6日(甲府市・常磐ホテル)の最終局はニギリ*1 直して井山挑戦者の先番となりました。井山の左手が右上に伸び、黒の初手は右上の星。右利きの井山が、碁は左手で打ちます。幼い頃に碁を覚え、なぜか最初から左手で石を持ったということです。左右の手を使うことは脳の発達に良いと言いますから、もし彼が右手で碁石を持っていたら、これほど早く強くならなかったかもしれませんね。

両者とも黒番を好みますが、それと碁の内容は別です。張栩名人は白番の新しい布石を試み、得意の実利戦法。バランスを重視して先を急がない井山八段は、意識的に名人の実利先行を許し、攻めを含む手厚い碁形に導きました。

いつの間にか黒が打ちにくい碁になっていたのは、名人の強さです。挑戦者が形勢挽回を図るたびに、名人は鋭く反発。一日目の夕刻、封じ手の局面では白の優勢が明らかになりました。しかし19歳の井山は、苦しいときに耐える力を備えています。二日目の再開後、挑戦者はねばり強く打って、黒が悪いながらもヨセ勝負になるかと思われました。そのとき……

名人が打った一手は、黒一団を厳しく追及するコスミ*2 。これは白にも危険を招く手で、険しい攻め合い*3 に突き進むのは必定です。それから16手も先に潜んでいる白の妙手を、この時点で読んでいなければ打てません。その妙手は一線のコスミ! その手を含め、合わせれば千手にもなろうかという諸々の変化を、名人はすべて読みきっていたに違いないのです。

その結果、必然的に出入りで80目近い大きなコウ*4 になりました。コウは黒の取り番。しかし白には大きなコウ立てが一つだけあり、黒にはコウ材がありません。挑戦者がコウを打ち抜き、白が中央の黒を取るフリカワリに。ここで名人の勝利がほぼ決まりました。

その後も井山は最善を尽くして逆転の可能性を求めましたが、名人の応手は正確を極め、236手で挑戦者が「負けました」と投了。感動的な局面が何度もあった、素晴らしい七番勝負に幕が下りました。

4勝3敗で名人が防衛し二連覇(通算4期)。若く強い挑戦者を迎えた名人にとって、他の重要な手合も重なる日程の中で、苦しい七番勝負でした。しかし、厳しくても自分が負けることを許容しない。それが張栩です。名人であり、第一人者でなければ自分に納得できない張栩がいるのでしょう。

一時代を制した小林光一九段の長女小林泉美六段は、「父より碁が強い人」が理想の結婚相手と言ったという。小林泉美女流本因坊(当時)は2003年に張栩本因坊(当時)と結婚。2006年、二人の間に生まれた娘は心澄(こすみ)と名付けられました。コスミは光一九段の好きな手です。

心澄ちゃんは「パパ、いい碁を打ってね」と、手合に出かける父・張栩を見送るそうです。コスミの妙手を読み切ったコスミの一手で名人防衛を決めた張栩を、こすみちゃんは何と言って迎えたでしょうか。

(続く)

*1 【ニギリ】
互先(たがいせん、ハンデなし)の手合で黒(先番)、白を決める方法。序列上位者(アマの場合は年長者)が白をいくつか握って盤上に手を置き、相手が半先(はんせん、奇数なら黒の意味)または長先(ちょうせん、偶数なら黒〃)と声に出して言うか、あるいは黒石を一個(半先のサイン)または二個(長先〃)盤上に置く。手を開いて白石を数え、当たれば下位者が黒番。外れたら上位者が黒番。

*2 【コスミ】
石が連絡する形の一つ。すでにある石から斜め一つ隣に打って連絡する、手堅い手。隣接点に相手の石がある場合は意味が異なり、ハネという。

*3 【攻め合い】
囲碁用語の攻め合いは一般的な戦いの意味ではない。部分戦でどちらも単独の生きがなく、互いにダメ(空点)を詰め合って、どちらが先に相手の石を取るかというパターンをいう。

*4 【コウ】
交互に一子を取り合うことができる特定の形(しばしば生じる)をいう。同形反復を避けるため、ルールにより、コウを取られた方は直後にコウを取り返すことができない。

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