天正十年(1582)5月29日、織田信長が本能寺
に入るとき、廻りを固めていたのは、森蘭丸など小姓
をはじめ数十名に過ぎない。
が、同じ京に、すでに信長から家督を譲られた岐阜城主
織田信忠も、500名以上の軍勢を率いて、妙覚寺を
宿舎として居た。
もちろん、1万2千と伝えられる明智光秀の大軍の前
には、数十名も500名以上も似たようなものでは
あるが、明智に率いられた軍勢の中で、敵は本能寺と
承知していた者は少ない。
現に光秀が本能寺を囲んだ6月2日払暁、信忠が居る
妙覚寺には軍の一部を派していないのである。
妙覚寺を出た信忠は、二条御所に手勢を移す愚を冒す。
二条御所に居た親王方を他に移すための時間が、光秀
方に有利に働き、いかに桶狭間の勇士、服部小平太や
毛利新介といった織田家の近衛兵が居ようと、多勢に
無勢では戦いにもならず、あたら若い嫡子の生命を失う。
あそこは月の無い闇夜にまぎれ、ひたすら淀川伝いに
西に逃げるべきであった。大阪には信長三男の神戸信孝
と丹羽長秀の軍勢が、四国の長曽我部を撃つべく集結
していた。
信長の嫡子信忠がこれに合流したら、辺りの織田家中は
挙げて信忠の元にはせ参じ、中国高松城からの秀吉大帰し
もなく、秀吉の晩年の愚考の数々、中でも朝鮮征伐も
無かったことになる。
武田勝頼を滅ぼした実績を見ても、信忠は弟の信雄・信孝
よりは、遥かに優れた人物であったと見る。
織田家の政権は続き、秀吉のやりたい放題も、家康の幕府
も日の目を見なかった。
目次へ≫
に入るとき、廻りを固めていたのは、森蘭丸など小姓
をはじめ数十名に過ぎない。
が、同じ京に、すでに信長から家督を譲られた岐阜城主
織田信忠も、500名以上の軍勢を率いて、妙覚寺を
宿舎として居た。
もちろん、1万2千と伝えられる明智光秀の大軍の前
には、数十名も500名以上も似たようなものでは
あるが、明智に率いられた軍勢の中で、敵は本能寺と
承知していた者は少ない。
現に光秀が本能寺を囲んだ6月2日払暁、信忠が居る
妙覚寺には軍の一部を派していないのである。
妙覚寺を出た信忠は、二条御所に手勢を移す愚を冒す。
二条御所に居た親王方を他に移すための時間が、光秀
方に有利に働き、いかに桶狭間の勇士、服部小平太や
毛利新介といった織田家の近衛兵が居ようと、多勢に
無勢では戦いにもならず、あたら若い嫡子の生命を失う。
あそこは月の無い闇夜にまぎれ、ひたすら淀川伝いに
西に逃げるべきであった。大阪には信長三男の神戸信孝
と丹羽長秀の軍勢が、四国の長曽我部を撃つべく集結
していた。
信長の嫡子信忠がこれに合流したら、辺りの織田家中は
挙げて信忠の元にはせ参じ、中国高松城からの秀吉大帰し
もなく、秀吉の晩年の愚考の数々、中でも朝鮮征伐も
無かったことになる。
武田勝頼を滅ぼした実績を見ても、信忠は弟の信雄・信孝
よりは、遥かに優れた人物であったと見る。
織田家の政権は続き、秀吉のやりたい放題も、家康の幕府
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at 10:21
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