東西二つの横堀川、北に土佐堀川そして南に長堀川と
あわせて四つの川で囲まれた四角の土地を船場と呼ぶ。
戦前の大阪商人にとって船場の中に店を持つことこそが、
ホンモノであり、四本の川の一歩でも外に出たら、そこは
船場のダンさんや御寮んはんから、見下げられる場所で
あった。ここらの機微は、山崎豊子さんの初期の作品に
詳しい。
船場は北から数えて、北浜、今橋、高麗橋、伏見町、道修町と続くのであるが、高麗橋と堺筋の交差する位置に三越があり、高麗橋通りには三井財閥系の会社が立ち並んでいた。
三井銀行や三井生命などと共に、東洋棉花の本社も、
この通りにあって、ボクは昭和三二年にその新入社員となった。
三井物産の再合同は未だ果たされていなかった。
目の前に当時は一軒だけの吉兆があり、夕方になると、
まだ数が少ない黒塗りの高級車がズラリと道を占拠した
ものであった。
先ほど述べた道の順番だが、今橋と高麗橋の間に、実は
もう一本の小路があって、正式名なのかどうか知らぬが、
浮世小路と呼ばれていた。人通りも少なく、車などが走る
ことなんか、まるでなかった。この一帯は幸いにも空襲の
被害を免れていた。
遠方から眺めても、三越と東洋棉花の両ビルが目立った。
与太呂はこの界隈でも、その大きさにも格式においても
おそらく最高のお店であった。ボクが初めて与太呂の暖簾
をくぐったのは、入社三年目のことだった。先輩のおごりで
あった。いつになったら行けるのかと思った吉兆は、ついに今にいたるも入店が叶わず、他の店とはいえ、あれだけ
評判を落としたから、もう行く値打ちがなさそうである。
当時からあった喫茶室の多くを記憶している。伏見町にある一軒に入ったが、たたずまいに昔の姿が残されていて、
この界隈の店を一軒ずつ訪れてまわりたい衝動にかられた。
ボクが入社した吉兆の真ん前のビルは、今はホテルになって三井ガーデンと名乗っている。
あわせて四つの川で囲まれた四角の土地を船場と呼ぶ。
戦前の大阪商人にとって船場の中に店を持つことこそが、
ホンモノであり、四本の川の一歩でも外に出たら、そこは
船場のダンさんや御寮んはんから、見下げられる場所で
あった。ここらの機微は、山崎豊子さんの初期の作品に
詳しい。
船場は北から数えて、北浜、今橋、高麗橋、伏見町、道修町と続くのであるが、高麗橋と堺筋の交差する位置に三越があり、高麗橋通りには三井財閥系の会社が立ち並んでいた。
三井銀行や三井生命などと共に、東洋棉花の本社も、
この通りにあって、ボクは昭和三二年にその新入社員となった。
三井物産の再合同は未だ果たされていなかった。
目の前に当時は一軒だけの吉兆があり、夕方になると、
まだ数が少ない黒塗りの高級車がズラリと道を占拠した
ものであった。
先ほど述べた道の順番だが、今橋と高麗橋の間に、実は
もう一本の小路があって、正式名なのかどうか知らぬが、
浮世小路と呼ばれていた。人通りも少なく、車などが走る
ことなんか、まるでなかった。この一帯は幸いにも空襲の
被害を免れていた。
遠方から眺めても、三越と東洋棉花の両ビルが目立った。
与太呂はこの界隈でも、その大きさにも格式においても
おそらく最高のお店であった。ボクが初めて与太呂の暖簾
をくぐったのは、入社三年目のことだった。先輩のおごりで
あった。いつになったら行けるのかと思った吉兆は、ついに今にいたるも入店が叶わず、他の店とはいえ、あれだけ
評判を落としたから、もう行く値打ちがなさそうである。
当時からあった喫茶室の多くを記憶している。伏見町にある一軒に入ったが、たたずまいに昔の姿が残されていて、
この界隈の店を一軒ずつ訪れてまわりたい衝動にかられた。
ボクが入社した吉兆の真ん前のビルは、今はホテルになって三井ガーデンと名乗っている。
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at 12:41
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上町台地のお生まれですか。
ボクは学生時代に三年間、北山町に間借りしていました。