【 肥前の人 】 [2008年05月22日(木) ]

先だって但馬の国に赴いて、その地の人々の
優しさに感動したばかりだが、今回は肥前の人、
それもご夫妻にお会いした。
この週の火曜日のことである。当然もっと早く
お目にかかるべき方たちだったのが、ボクの
怠慢で今頃となった。

さすがに長崎までの日帰りは、身体に自信が無く、
恐縮ながら博多駅まで来ていただいた。
都ホテルの和食の店にムリを言って、3時間
ねばらせて貰ったのだ。

ボクのブログに久しく書入れがない「歴史エッセイ」が
お好きだと言われ、それじゃと肥前のお話を少々。

温厚な方と感じる司馬遼太郎さんだが、時として激しい。
『街道を行く』17巻は、「島原・天草の諸道」であるが、
その冒頭に激烈極まる言葉が飛び奔る。

「日本史のなかで、松倉重政という人物ほど忌むべき
存在はすくない」かの、島原の乱を起した張本人である。
あの乱は決してキリシタンの反乱ではなかった。

松倉という、およそ大名にしちゃいけないヤツを、
人物を得ない徳川家が抜擢して、島原半島一円の
領主となり、その愚かな息子・勝家と共に「治める」
とは「年貢を搾り取れるだけ搾り取ること」と錯覚し、
およそ領民をして、生存権を無視される窮状にまで
追いやった。

その苛斂誅求ぶりは、子供が生まれたら人頭税、
死者が葬られたら穴税、畑になった茄子の実まで
いちいち数え、その大半を取上げるといったこと。
住民をして「早くこの世を去って、次は鳥にでも
なりたい」と嘆かせた。

火山灰で覆われたこの土地は、実質一万石の
実入りしか期待できない。
俄かに取り立てられて四万三千石の大名に
任じられ、有頂天になった松倉は、徳川の老中
どもに媚びをうるべく、皆が避けたがる徳川の
土木工事の「お手伝い」を十万石の大名並みに
言いつけて欲しいとまで言い出す。
そのことのツケはすべて領民である百姓が
背負わされる。まったくとんでもないホワイトも
いたもので、こんなヤツの支配下に置かれた
ブラックほど哀れなものはない。

日本史上、他に類例を見ない松倉の悪政によって、
島原の人々は蜂起せざるを得なくなった。
あの乱は決してキリシタンによる決起では
なかったと、ボクが断じる所以である。
キリシタンの反乱は、二次的なことで、隣り合わせの
天草の人々が同情のあまり民衆蜂起に合流した。

天草諸島は、松倉の所領を免れ、唐津藩の
飛び地である。天草では島原のような酷い治世は
行われていなかった。が、ここにはキリシタンが
多く住んでいた。
島原衆への同情がいつしかキリシタンの蜂起へと
変貌した。

この段階になって、漸く徳川幕府が動く。
名前が同じでややこしいが、板倉重政という
一万石強の小大名を総司令官に任じるのである。
ホワイト官僚の、いい加減なその場しのぎの典型を
ここに見る。一万石の名も無き総司令官に従う
九州大名はいない。可哀想に板倉が従えた兵は
僅かの三百人に過ぎない。
板倉は当然のように、死んで任務を果たす。
この辺り、大戦中の各戦場に増派された兵たちに、
前身を見る思いがある。

徳川幕府官僚が慌てるのはこの段階に至って
から漸くである。切り札ともいうべき松平信綱を
担ぎ出して、九州大名のおのおのがその陣下に
馳せ参じ、島原と天草の人々を地獄の底に
突き落とす残酷極まる戦に参加して、幕府は
辛うじて面子を保つのである。

どこか今の社会保険庁と厚生労働省の姿に
似てはいないか。

幕府は右往左往させられた腹いせもあって、
松倉勝家を斬首の刑に処す。
徳川期二百六十年を通じて、
ただ一人の大名斬首であった。



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【 富士噴火(続) (歴史エッセイ 70) 】 [2007年08月26日(日) ]

1560年の富士山噴火が事実であれば、その
影響は何も駿河、甲斐の両国にはとどまらず、
徳川の遠江も北条の相模も上杉の越後もみな
大被害を受ける。農産物の収穫は激減し、戦の
度に百姓を動員して足軽とする諸大名の活動は
停止せざるを得なくなる。

富士山の噴火に伴う火山灰の実体は、灰なんて
もんじゃなく、ガラスの粉だそうだ。だから大雨が
降っても溶けはしない。

歴史上の武田・上杉・北条・今川・徳川が絡む物語
の一切が消滅してしまう。ますます1560年の富士
噴火説があやしくなる。

火山灰は偏西風に乗って東方に飛び散るから、
織田信長の版図には影響があったとしても軽微な
ものとなる。

武田は信玄の死がなくても、自然崩壊するだろう。
いかに24将とか豪語しようとも。それらの武将の
殆どは、農民を束ねる国人衆であるに過ぎない。
田畑が火山灰に覆われて、その修復に何年も
かかるときに、それら農民を動員して信玄につくす
国人衆が居ると思えない。

兵農分離を実行し、職業兵士を作った織田信長の
一人勝ちとなる。


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Posted at 10:44 | 歴史エッセイ | この記事のURL
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【 桶狭間合戦と富士山噴火 (歴史エッセイ 69) 】 [2007年08月25日(土) ]

火山列島・日本で、いま最も噴火の可能性が高い
のが富士山だといわれている。

江戸期の1700年噴火の前に1560年にも噴火
があったと記録されているようだが、この年には
史上有名な桶狭間の合戦が行われており、駿河の
太守・今川義元が首を討ち取られ、織田信長の奇襲
が成功している。

噴火があったのが何月か知らぬが、もし6月以前で
あるなら、富士山の山麓に展開する駿河の国は大混乱
に陥って、到底尾張に侵攻する準備も出来なかった
であろうし、桶狭間後の噴火であったのなら、今川
は暗愚の息子氏真の統治下、それこそ収拾がつかぬ
惨状を呈したことであろう。

甲斐の国にも、火山灰などの被害が甚大であったはず
だが、どの歴史書を読んでも、富士山噴火で武田信玄
が大慌てしたとの記述がないのは、どうしたことだろ
うか。

本当はこの年に富士の噴火はなかったのじゃないか。
なんでも日本息異史という書物に記載が有るらしいが。





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Posted at 22:09 | 歴史エッセイ | この記事のURL
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【 織田信忠(再び) (歴史エッセイ 68) 】 [2007年08月24日(金) ]

妙覚寺にいた信忠は、本能寺の変を知り、父を救援に
向かわんとしたが、炎上を見て間に合わずと悟り、そこで
自らも死を覚悟したのだが、いやしくも織田家の総領と
しては軽挙であったと言わざるを得ない。大阪に逃れ
信孝・丹羽長秀と合流するのがベストと思えるが、安土城
に逃れる手もあったと思う。当時ここには戦さ上手で
知られた蒲生賢秀・氏郷父子が居り、天下の名城に
篭もれば、織田の家臣たちが次々と駆けつけたはず。
信長次男ではあるが、阿呆で知られた北畠信雄が、
こともあろうに火をつけて燃やしてしまったのだが、
そんな出来事も防ぐことが出来たわけ。

なんとしても、生き延びねばならぬ立場を放棄した
信忠の振る舞いが悔やまれる。信忠に信長の発想力
が引き継がれていたとの前提ではあるが、織田政権が
長期にわたっていたら、産業革命も電力の利用も、
世界のどこにも先駆けて日本がそれを為したとして
不思議ではない。

日本史における最大の痛恨事であった。





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Posted at 10:07 | 歴史エッセイ | この記事のURL
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【 二条城 (歴史エッセイ 67) 】 [2007年08月23日(木) ]
現役のサラリーマン当時に、二条城を建立したのは
誰かで賭けをしたことがある。

織田信長が流浪の足利義昭のために、二条の地に城
を建て住まわせてやった。だから建立者は信長だと
信じて疑わなかったのだが、敵は写真を持っていて、
その写真には徳川家康建立の石碑があり、ボクは賭
け金の100ドルを獲られたのだが、未だに納得が
得られずにいる。

京都の街は何度も大火に遭っており、その度に多く
の建物が焼け落ちている。徳川家康が建てたものだ
って、少なくとも天保8年の大火では焼け落ちている。

日本には260年にわたる、徳川氏の治世があり、
歴史の多くが徳川家に都合よく修正されている。

二条城もまた然りだと、ボクはあくまで織田信長が
建立したことに拘りたい。

ところで、このシリーズの前作で、名前を出した
毛利新介と服部小平太だが、桶狭間で敵将今川義元
を見つけて、一番槍をつけたのが服部小平太、そして
首を獲ったのが毛利新介であったことを付け加えて
おく。この時今川義元は、毛利新介の小指を喰いちぎ
る抵抗を見せた。

その毛利新介が、明智光秀の大軍を相手に、織田信忠
に殉じたのに対し、服部小平太の方は豊臣政権の中で
生き延びる。

最後は関白秀次の失脚に連座する形で改易の上、切腹
の仕置きを受ける。

両名とも今川義元を討ち取るという大手柄を立てた割
には、厚遇されていない。信長の眼には将器として映
らなかったであろうか。



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Posted at 09:16 | 歴史エッセイ | この記事のURL
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【 織田信忠 (歴史エッセイ 66) 】 [2007年08月22日(水) ]
天正十年(1582)5月29日、織田信長が本能寺
に入るとき、廻りを固めていたのは、森蘭丸など小姓
をはじめ数十名に過ぎない。

が、同じ京に、すでに信長から家督を譲られた岐阜城主
織田信忠も、500名以上の軍勢を率いて、妙覚寺を
宿舎として居た。

もちろん、1万2千と伝えられる明智光秀の大軍の前
には、数十名も500名以上も似たようなものでは
あるが、明智に率いられた軍勢の中で、敵は本能寺と
承知していた者は少ない。

現に光秀が本能寺を囲んだ6月2日払暁、信忠が居る
妙覚寺には軍の一部を派していないのである。

妙覚寺を出た信忠は、二条御所に手勢を移す愚を冒す。

二条御所に居た親王方を他に移すための時間が、光秀
方に有利に働き、いかに桶狭間の勇士、服部小平太や
毛利新介といった織田家の近衛兵が居ようと、多勢に
無勢では戦いにもならず、あたら若い嫡子の生命を失う。

あそこは月の無い闇夜にまぎれ、ひたすら淀川伝いに
西に逃げるべきであった。大阪には信長三男の神戸信孝
と丹羽長秀の軍勢が、四国の長曽我部を撃つべく集結
していた。

信長の嫡子信忠がこれに合流したら、辺りの織田家中は
挙げて信忠の元にはせ参じ、中国高松城からの秀吉大帰し
もなく、秀吉の晩年の愚考の数々、中でも朝鮮征伐も
無かったことになる。

武田勝頼を滅ぼした実績を見ても、信忠は弟の信雄・信孝
よりは、遥かに優れた人物であったと見る。

織田家の政権は続き、秀吉のやりたい放題も、家康の幕府
も日の目を見なかった。


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Posted at 10:21 | 歴史エッセイ | この記事のURL
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【 菊池一族 (歴史エッセイ 65) 】 [2007年08月21日(火) ]
利尊氏が九州に落ち延び、奇跡的な勝利に恵ま
れ勢力を再生して東上し、結果は室町幕府の開府に
至るのだが、その運命を賭けた多々良浜の決戦の、
南朝方の大将が菊池武敏。

長兄の武重は京に上っており、新田義貞の軍に
参加。箱根竹の下の戦いで「菊池千本槍」の名を
轟かす。

弟の一人、菊池武吉は湊川の戦いに楠木正成の
傘下に加わり、戦場離脱の機会があったにも関わ
らず、楠木の生き残りが刺し違えて死ぬのに加わ
っている。

一族を挙げて後醍醐に忠誠を尽くした義の一族と
ボクは思い続け、今もなお菊池の名に感動を覚え
ている。




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Posted at 14:08 | 歴史エッセイ | この記事のURL
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【 懐良親王 (歴史エッセイ 64) 】 [2007年08月19日(日) ]
ハードボイルド作家、北方謙三氏の、もう一つの
顔は歴史作家である。

題材は南北朝時代、それも南朝が吉野から
賀名生に追い込まれ、足利が内部分裂を
始める頃が多い。

後醍醐の第十皇子、懐良親王は征西将軍として
九州に派遣され、苦労の末に肥後の南朝方、
菊池武光の協力の下に、いったんは全九州を
統一することに成功する物語。

「武王の門」上下2冊は、ちょうど10年前に
読んだのだが、あらためて読みなおしたところ。

このシリーズは、ボクは小4前後に「少年倶楽部」
の記事に影響され、楠木正成と一族の活躍に
魅入られたことから始まったが、当時楠木に次いで
ボクが心を惹かれた一族が菊池氏だった。

いったん九州に落ちた足利尊氏が、多々良浜の
戦で、菊池・阿蘇の連合軍を打ち破るのだが、
あの南朝方の敗北が、ボクは惜しくてたまらない。

長じてから、後醍醐ほどイヤな天皇は居らんと
思うようになったのだが、少年期に刷り込まれた
南朝方の武将たちへの想いは消えないのである。






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Posted at 13:46 | 歴史エッセイ | この記事のURL
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【 松平信康 (歴史エッセイ 63) 】 [2007年08月18日(土) ]
長篠の合戦で武田軍が破れた時
織田・徳川の連合軍の一隊を指揮しているのが
松平信康。時は1575年。

これから4年後に、信康は武田勝頼に通じたこと
を理由に切腹させられている。長篠で共に戦った
大久保忠世に無実を訴えながら。

史書は織田信長が、我が長子・信忠よりも力量の
優れた信康を警戒して、無理難題を押し付けたこと
になっているが、 徳川の時代は260年にも及ぶ。

果たして史書に書かれたことが真実か。

家康の事だ。親子の間に何かのトラブルがあった
のかも知れない。

武田はこの合戦の後、急速に衰えていく。

まさか信康が勝頼に通じたとは思えない。




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Posted at 12:42 | 歴史エッセイ | この記事のURL
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【 村上水軍(更に) (歴史エッセイ 62) 】 [2007年08月17日(金) ]
NHKが放送した「その時歴史が・・」で、
村上元吉が毛利の指示の元に、伊予松前城を攻め
敗退した、その敵とは東軍に従軍していた加藤嘉明
の留守部隊。それに河野氏の旧遺臣たちが加わって
いたのだと判明した。

河野一族は、秀吉が天下人となり、瀬戸内の通行料
を徴収する行為がケシカランと成敗され、追い詰め
られて一族が寺にこもって自決をし、そこで途絶えた。
1585年のことで、関ヶ原の15年も前のこと。

放送では村上水軍の大将とされた村上武吉も、遠く
長門の玄界灘に面した寒村に流されて、海の大将の
面影もない。

したがって、「海の関ヶ原」なんてものはなかった。




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