シニア向けコミュニティ STAGE ステージ
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紅葉が雪見に [2007年11月20日(火) ]
備前焼の故郷伊部に行き、紅葉を見て最後に石見銀山を見て帰ってきた。伊部の備前焼の美術館は古い物から現代陶までの作があり見甲斐があってよかった。
奥備中の高梁川の上流にあるカルスト地形の井倉峡の紅葉を見に寄った。少し遅かったが、石灰岩の絶壁は見事であった。近くに井倉洞があり入った。
美作三湯の湯原温泉に泊まり翌日蒜山高原〜伯耆大山をドライブした。紅葉を見る予定が初寒波で蒜山高原は初雪。大山の周遊道は雪で寒かった。紅葉見物が雪見となった。
早々に引き上げ温泉につかる。
司令官殿はエステ、と韓国式垢すり、出臍はマッサージとあいなる。寒い時はだ。
翌日はまずまずのお天気。石見銀山に行ったが世界遺産になって、観光会社が争ってツアーを組んだ為に設備のない所に人が行ったので、簡易便所の増設。お土産ものの準備も殆んど無く、坑口は遥か離れた山中である。変な観光地だ。
入坑できる坑道は人が多く写真は撮れない。写真は入れない坑道口である。坑道内部の掘った縦抗の写真。
鉱山は大内氏が滅び、尼子と毛利の取り合いの歴史、豊臣、徳川を経て昭和18年まで銀を産出した。最盛期には人口20万人いたそうだ。昔は石積みの上に家があったのであろう。当時を想像した。

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大分旅行2 [2007年08月29日(水) ]
別府鉄輪温泉に泊まった朝、展望風呂から煙が見えるので下の景色をパチリ。
別府地獄巡りのうち海地獄、坊主地獄を見た。中学校以来の観光で物凄く綺麗で整備が行き届いてい感動した。
ロープウエイで鶴見岳に登り別府、大分、遠く九重の山々を眺めた。その後、豊後竹田市に行き、岡城址に登り広い城址散策。城址は「荒城の月」で有名だが、「豊薩戦争」で島津の大軍の攻めに耐え抜いただけあって要害の地形をしている。
竹田から日田街道を抜けて久住の「星生温泉」で泊まる。名前のとうり露天風呂から眺める星空がきれいであった。早朝の露天風呂からは中岳の噴煙が見える。
    
朝食後、近くの「九酔渓」にかかっている「九重夢大吊橋」にて久住連山を背景に2本の大滝を見た。
今回の旅は次男夫婦と司令官殿、との夏休みの旅で温泉と豊後山並みの風物に触れた。

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大分旅行 [2007年08月26日(日) ]
呑み助の次男坊夫婦と大分に行った。お嫁さんは大分は行った事が無いので企画した。勿論運転手は次男だ。
愛媛の三崎半島から別府にヘリーで2時間の距離である。三崎半島は風車での風力発電をやっており、半島の丘の上に風車が並んでいる。フェリーから撮影。
佐賀の関が1時間10分と近いが別府湾を海から、眺めるために行きは別府に上陸した。
宇佐八幡宮にお参り。暑いので参拝客が少なかったが、蝉時雨れの中風情があり、さすが八幡神社の総本社である。
以前から国東半島は各地に磨崖仏が沢山あり、見たいと思っていた。その中で重要文化財指定の熊野磨崖佛をお参りした。胎蔵寺から急な山道300m登ると鬼が一夜で築いたと言う乱積みの石段だあり山頂に熊野神社がある。途中に立体的な磨崖仏の不動明王、大日如来の巨大像が彫られていた。
右の大日如来が6.8m、左の不動明王が8mの高さである。平安末期の作。臼杵にも石仏があるが、また異なる感銘を受けた。大分県は信仰心の高い地方だ。
夜は別府の鉄輪温泉。風呂、料理は抜群であった。でマッサージで。ヨカ1日であった。

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恒例の一族旅行 [2007年06月11日(月) ]
先日2週間の予定で上京した。上京の度に子供3家族6人孫2人計10名で旅行が恒例になっている。昨年は箱根で今年は草津に行った。水沢観音〜榛名湖〜榛名神社〜草津温泉(泊まり)〜草津白根山〜東京のコースで遊んできた。

榛名神社は初めてで長い参道の山道の若葉が綺麗であった。神社は巨大な岩を背負っており、迫力があった。愛媛に四国88ヶ所のお寺で岩屋寺と言うのがあるが、よく似た感じであった。
草津の道の駅で
で燕の巣を見つけた。パトランプの上に巣を作って、可愛い4羽の子燕がいた。


草津温泉で美味しい料理で宴会。翌日、草津白根山のお釜(噴火口跡)を見に皆で駐車場から登った。
残雪が残っており流石に寒い登山?であった。恒例の一族の旅行で父親と爺様と夫とスポンサーの4役を果たした。

Posted at 19:32 | 旅の感想 | この記事のURL
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旅行中に見た茶室 [2007年06月10日(日) ]
今回の東京行き、帰りの彦根、長浜の旅行中にたくさんの茶室をみた。肉質浮世絵展をやっている、出光美術館では館内に「朝夕庵」という茶室があり、時期の道具組を飾ってあった。

高幡不動尊では「紫陽花祭り」の初日で同寺のお参り、山紫陽花を見た後同寺の「知足庵」で立派な庭を見ながらお茶をいただいた。ついでに、奥にある小間の茶室(名前は忘れた)も見せてもらった。

帰りに寄った彦根では井伊家の宝物と、屋敷の彦根城博物館で楽々園の「茶座敷」や「天光室」を見て能楽堂の側の茶席でお茶をいただいた。
茶室はそれぞれの個性があり面白かった。
彦根城と長浜城。
長浜の「大通寺」は古く立派で寺内は見応えがあった。

今日は天気がよく作男の作業がはかどる。皐月の花後の剪定。椿の剪定と草取り。弟が孫を連れて「青蛙」を取りに来る。蛙を取ったあとお茶して帰る。「ほうずき」の花が咲き出した。

Posted at 18:51 | 旅の感想 | この記事のURL
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超高層マンションにて [2007年06月09日(土) ]
東京の友人宅を訪ねた。50階建ての超高層マンションの41階である。見晴らしは誠に良い。近頃は60階建てのマンションもあるそうだ。外を眺めていて、不安になった。果たして大震災で安全であろうか?疑問が沸いた。高所恐怖症のせいであろう。

人間は猿から進化したらしい。猿は20mまでの高さに棲むという。6〜7階建てだ。人間が地上に降りて生活しだして30万年ほどらしいが通常は2階建てていどの生活をしていた。

昭和30年代に3〜5階の公団住宅が出来だした。オフイスとしては、S43年霞ヶ関ビル(36階)、S45年貿易センタービル(40階)が出来た。これから考えてもたった40年お間に超高層ビルが林立しだした。

高階から見ると巨大きな墓石が並んでいるように見える。墓石の間を車や人間が蟻の列のように蠢いている。地上から見るとコンクリートとガラスの迷路の中を地下の穴から、出たり入ったりして都心はスゴイなーと思う。

住居用として、高層マンション(20階以上をいう)はまだ新しい。50階建て以上のマンションは極く新しい。エレベーターが止まったら、火事になったら、電気が止まったら、大地震がきたら、など不安が付きまとう。自分の足での行動は出来ない。何か異常な感じだ。

人間は二本の足での行動が基本なのだ。自分の足で行動できる範囲に住みたい。毎日、草花を眺め、芝生に寝転がって、蛙やバッタと睨めっこの生活をしている出臍には誠に不安で居心地が悪かった。
   猿よりも高階に住み初夏の雲   出臍

本日は作男で庭の草取りだ。疲れたら庭でお茶や読書。庭の「ほたる袋」
が満開だ。袋の中から小人が出てきそうだ。

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落柿舎を見る [2007年03月18日(日) ]
嵯峨野の清涼寺から10分の所に去来の住んでいた落柿舎(去来居)がある。芭蕉が滞在して嵯峨日記を書いた所である。芭蕉が去来の事を「洛陽に去来ありて鎮西の俳諧奉行なり」書いている。強い絆で結ばれた師弟であった。写真は玄関二畳。
玄関の障子の間から土間の厨が見え懐かしい竈と火消し壷があった。玄関の上がり框に貧乏徳利とタバコ盆が置かれた懐かしい景色。                          庭に去来の句碑   柿主や梢はちかし嵐山    去来  がある。落柿舎の裏に小さな去来の墓があった。この墓は虚子が 「凡そ天下に去来ほどの小さな墓にもうでけり」と季語も無く、語数もむちゃくちゃな俳句?らしきものを詠んだ墓がある。
写真は去来の墓。

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嵯峨大念仏を見てきました [2007年03月17日(土) ]
嵯峨の清涼寺の涅槃会の行事を見てきました。3月15日の涅槃会の諸行事は次の3つである。お寺の涅槃図等の公開。嵯峨狂言、お松明式、これらを見る事が出来て、感激。

嵯峨狂言は壬生狂言と並び有名な狂言。嵯峨狂言はどちらかと言えば地元密着型?庶民的な感じだ。狂言保存会のボランテアである。「愛宕詣で」を見た。

「土蜘蛛」は夜の松明式と重なるのでお松明の方を見た。写真は設定してある大松明で約10mが3本あり、逆円錐形、大きな蔓で巻いておる。

ホテルで食事の後夜8時に再度清涼寺行きお松明式を見た。人人人での人の海だ。その中で点火する。猛烈な炎が猛り狂い風を呼び火の粉が頭上に降ってくる。すごい迫力である。人垣が炎に押されて崩れる。夜店を火の粉から守る水飛沫がかかる。

山口の秋吉台の山焼きを昔見た。迫力があったが、清涼寺の大松明は本堂の前が狭いだけに凄い迫力であった。いい京都の旅であった。

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年貢の半減の前原一誠 [2007年02月24日(土) ]
1週間家を空けると雑用が溜まっている。何もしないようでも日々色々としているのだと気付く。萩その2として前原一誠について考えた。写真は松下村塾。
  

松陰門下の逸材で明治維新に活躍した前原一誠の旧宅が残っている。
前原一誠評を松陰は、「才能は久坂玄瑞に及ばない。知識は高杉晋作に劣る。しかし人物の素晴らしさは2人より上である。私の親友の肥後の宮部鼎蔵に並ぶ。勇気があり、知恵があり、その誠実さは他の誰にも負けない。」と褒めている。

第2次長州征伐の時小倉口の戦いに参加。小倉落城の後病気の晋作に代わり参謀として指揮。戦後処理のため小倉に残り、戦で疲れ病んだ小倉の農民に「年貢半減令」という前代未聞の政策を実施した。

越後長岡藩との戦に参戦。戦闘が終結すると再び年貢半減策を実施した。越後の判事(今の知事)で残りここでも年貢半減策と洪水で氾濫を起こす信濃川の流れを分散さす分水計画を策定する。

参議として中央に戻った。同じ松陰門下の桂小五郎、の民衆無視の「国家主義」と松陰の「仁政の思想」を継ぐ一誠。その政治姿勢の違いから結局「天皇に直訴」の行動を起こそうという集団を反乱とみなされた。萩の乱が起こった。

桂小五郎が後輩の一誠の人物を恐れ大軍を出し戦争にしてしまった。松陰の親族が挙って一誠につき行動を共にした。松陰の師であり、叔父で私塾を開いていた玉木文之進の弟子達がついてきている。このことから色々と推測が出来る。住んでいた家がそのまま残っている。

少数のものが、政府高官になり贅を尽くし、共に維新を成し遂げた戦った武士達が失業をし経済的にも精神的にも苦境に追いやる政策は松陰の理想とした「仁政の思想」とかけ離れてしまった。

明治維新の後でも、佐賀の乱、萩の乱、西南戦争とあった。本当に戦いが必要であったのであろうか?。戦の理由は勝者の都合のいい理屈をつける。それが正統な歴史とされる。割り引いたり、疑う事も必要だし、面白い。


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