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JAZZが御飯より大好きと言われる方々お集まり下さい。JAZZを媒体に大いに語り合いましょう。

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JAZZ談義(27)  [2008年08月09日(土) ]
スイング。ジャズはハーレムから始まった?

1920年に制定された禁酒法はジャズをおおいに発展
させた事は前に語りましたが、所謂スピーク・イージー
とよばれるモグリ酒場が繁盛し、そこではジャズが必要
不可欠なものとなっていたのです。
しかし不法な営業行為であるこれらのモグリ酒場が
次々と摘発されていくにしたがい、店の多くはダンス・ホ
ールに衣替えをしたのです。それは職を失いたくない
ミュージ・シャン達からの要望でもあったのでしょう。
またダンス・ホールの演奏に飽き足らなくて、コンサー
ト形式の演奏会を開くミュージシャンヤバンドもありまし
たが、これらはあまり成功したとはいえません。
この時代はジャズが鑑賞用音楽として認知されておら
ず、ダンスの伴奏や酒場のBGMといったものでしか
存在価値ガ見い出されなかったのでしょう。そこで、
コンサートで演奏したいミュージシャンの気持ちを満
足させ、なおかつダンスの伴奏や酒場でのBGMの
役割も両立させようと考えられたのがレビューだっ
たのです。

レビューで一番の評判を呼んだのが
デューク・エリントン楽団であるのはご存知のとう
りですね。
彼のオーケストラはハーレムにあったコットン・クラブを
拠点に、ジャングル・ムードと呼ばれる独特のスタイル
で人気を集めていき、それが評判に評判を呼んで、ハ
ーレムではジャズが一番人気のエンタテインメントにな
るのです。そしてこのオーケストラやさまざまなジャズ・
バンドがコットン・クラブに続けとばかりにハーレムで
次々にオープンしたクラブで演奏を開始するようになっ
たのです。
大不況でアメリカ中が暗く沈んでいた時代にハーレム
だけは明け方まで賑わっていたとか。
ちなみに当時のハーレムは、現在のイメージとはまっ
たく違う高級社交街なのです。黒人が住み着いてスラ
ム化するのはしばらくのちのことです。1930年前後
は金持ちの白人が集まってくるアメリカ有数の高級
クラブが林立した一角だったのです。そしてここからス
イング・スタイルのジャズが評判を呼ぶようになるので
す。
デューク・エリントン




 

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JAZZ談義(26)  [2008年07月05日(土) ]
ようやくスイング時代に入りました。

スイング・ジャズは、1930年代から1940年代初め
 にかけて大流 行した白人が主体となって作られた大
 編成によるジャズの形態のひとつ で す。黒人ブラス
 バンドやマーチングバンドとは音楽的には直接関係
 な いとされていますが、その形態はブラスバンドから
 発展したともいわれる大人数のジャズで、ビックバンド
 が演奏の主流を占めました。
 スイング・ジャズは軽快なダンスミュージックで、ジャズの特
 徴であるアドリブやソロよりも、綿密なる打ち合わせによる
 ビックバンド全体での所謂アンサンブル演奏に重点が置か
 れました。
 1920年代の世界大恐慌で一般の人たちの間に安ら
 ぐ軽快な音楽を好む傾向が強まり、さらにラジオや蓄
 音機等の登場によってレコードが普及し、決められた
 時間内に曲が終わる必要性が出てきたのです。
 又生演奏を観に来た客も、レコードと同じ演奏を要求
 するようになった為、演奏する曲の緻密な編曲(アレ
 ンジ)が要求され、編曲者(アレンジャー)も重要視さ
 れるようなりました。
 前時代のディキシーランド・ジャズよりも大編成であり、
 即興演奏に重点が置かれことなく約束事にコントロー
 ルされたアレンジが必要となったのです。
 その結果ライブでもレコードと同じ演奏、甘く軽快でダ
 ンサブルな楽曲、大人数でのアンサンブルなどにその
 特色が見出されたのです。
 スイング・ジャズ時代の初頭は和声の本質においては
 ニューオリンズ・ジャズやディキシランド・ジャズと大差
 はないのですが、セブンス・コードが基本となり、4声を
 主体としたセクショナル・ハーモニー(メロディ、リズム
 とともに音楽の三要素の一つとされる)
が開拓された
 のです。
 又、大編成で多種類の楽器が用いられたことから編
 曲者と演奏者との分業化が進み、オーケストレーシ
 ョンの面で進歩していく事になるのです。
 こうしてスイング・ジャズのスタイルが発展していくと
 転調とか和音とかが複雑になり、より曲にメリハリ(シ
 ンコペーション)が出来ていくのです。
 少し古いのですがスイング時代のはしりです

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jazz談義(25)  [2008年06月08日(日) ]
アメリカでは1920年にラジオ放送が始まりました。
1920年代末には全米の約3分の2の家庭にラジオ受
信機が行き渡りこの普及は、ジャズに大きな影響と変
化をもたらしたのです。(日本での放送開始は、NHKの
愛宕山山頂から電波が出されたのは1925年です。
)ラジオから流れる音楽としてピッタリだったジャズは、
ラジオの普及と比例して全国に広がり、レコード生産
の一般化とも相まって、さらに活況を呈することにな
ります。

ニューオリンズからシカゴへと拠点を」移しつつ、さら
 にニューヨークやカンザスシティ、そして西海岸へと広
 まっていったジャズはラジオ放送だけでなく、劇場やレ
 コード吹き込みのために演奏される様になり、いつ演
 奏しても同じ演奏が同じ時間で出来る様に、編曲され
 たジャズが必要になっていくのです。これが次第にスウ
 イング・ミュージックと呼ばれる様になったといわれて
 います。又、1920年代のアメリカは第一次世界大戦
 に勝利し、好景気に沸いている時代でもありました。

ところが、1929年10時24日の木曜日、俗にいう
 暗黒の木曜日にニューヨークの株式相場の株価が突
 如大暴落し、大恐慌時代へと突入することになるの
 です。
 アメリカの経済は一気に破綻し、銀行も企業も相次い
 で倒産、多くの失業者が街にあふれかえり、自殺者も
 かなり出たと言われます。そして、アメリカの不況は
 国内だけにとどまらず、全世界へと広まっていくので
 す。失業者となったのはジャズ・ミュ^−ジシャンも例
 外ではありませんでした。
 ジャズで生計を立てることが出来なくなったミュージ
 シャンの多くが、転職を余儀なくされ、スターミュージ
 シャンさえも仕事を求めてヨーロッパにまで足を延ば
 す有様でした。そんな状況はニューディール政策
 どで経済が安定する1930年代前半まで続きまし
 た。
 




 

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jazzって進化する?  [2008年06月03日(火) ]
JAZZって進化するのかな?進化じゃなくて、変わって
行くのじゃあないかな?
それは、やはりニーズに応えてると云えるのではない
でしょうか。この世界では20年周期でまわってるんじ
ゃないかなー。1940年〜50年代を例にとると、バッ
プ、そしてクールと成り60年に入るとフリージャズ時代
に入る。

1970年代のジャズは1969年に録音されたマイル
ス・ディビスの(ピッチェズ・プリュー)からスタートした
と考えられています。1970年に発売されたこのア
ルバムは、今までない強化されたリズムとロック・ビ
ートの斬新な融合が話題を呼び、多くのミュージ・
シャン達に強い影響を及ぼしたと思われます、
70年後半になり、アメリカではベトナム戦争が一
段落して又JATPの興業などが復活したりしていま
したが、そんな時にリターン・トウ・フォーエヴァー(
チック・コリア)の出番です。そしてハビー・ハンコッ
クヤ、マイルス・バンドの卒業生であるキース・ジャ
レット等の時代になるのではないでしょうか? 所謂
フュージョン時代です。
フュージョンの嵐が吹き荒れた1970年代ですが、ビ
バップ ・リバイバルやハービー・ハンコックのV・S・O
・Pクインテットが大成功を収めたことにより70年代
後半からは再びアコースティッ・ジャズにも大きな関
心が寄せられるようになって来ました。

80年代はどうなんだ。この時代のジャズマンは反
抗的と云うか反省的と云うか・・・・・・
幕開けを飾ったのはベテラン勢の復活や伝統に立
脚した上でモダンな感覚を持った新人や若手によ
る4ビート・ジャズの台頭で、ウイントン・マルサリス
がデビュ−したのは印象的な出来事だったと思う。

1990年〜2000年にかけてのジャズに関しては
、私はあまり興味が沸かなくなったのは事実です。
1940〜1965年に活躍したジャズ・メン達も今
存命している人はもう数少なく昨今のジャズは耳
にどうも馴染めないでいます。聴くとすぐ1950〜
1965年頃のものになってしまうのです。こりゃ
私の頭の中は、前世紀の遺物みたいなものです。
やはりジャズは進化するのではなく、ジャズの演
奏法と同じで、テーマで始まりテーマで終わる、
つまり周期で変わるのだと思うのですが?

東京ブルー・ノート・ライブ    チック・コリア

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jazz談義(24)  [2008年05月25日(日) ]
前回お話したデューク・エリントン・バンドは1927
 年から1931年までコットン・クラブの専属バンドに
 なりました。おかげで彼は一ヶ所にじっくり腰を据え
 てダンス・ミュージックや自分自身の納得する色々
 な音楽を作曲してレパートリーを広げましたが、当時
 の他のバンドの多くはツアーで各地を演奏いて回る
 のが常でした。又、クラブの演奏がラジオ放送され
 たおかげでエリントンの名は全米に知れ渡りました。
 エリントンはこの期間に100曲以上もの自作曲を
 レコード化し、その後50年近く続く事になるグルー
 プを築き上たのです。

さて、1920年代の終わり頃からミズーリ州のカン
 ザス・シティでジャズが大流行します。カンザス・シ
 ティもシカゴ同様に、トム・ペンダーガストという顔
 役が数百軒のスピーク・イージーを仕切っていた
 というよりも、街全体を牛耳っていた様です。 
 おかげでカンザス・シティのナイトクラブやキャバ
 レーでは酒も大っぴらに飲めたばかりではなく、
 ジャズも隠れてコソコソ演奏する必要がなく、大音
 量で演奏できたといいますから、その勢いはシカ
 ゴ以上だったと云われています。

この頃の様子は映画カンサス・シティ(1995年
 度製作 ロバート・アルトマン監督)に詳しく描かれ
 ています。この映画は1934年頃のカンサス・シテ
 ィに実在したヘイ・ヘイ・クラブと云う所を舞
 台にした一組の男女とギャング達との間に起き
 た犯罪で沸き立つ混沌とする街で暮らす人々の
 熱くスリリングな生き様を、ジャズのビートにのせ
 て展開していきます。
 ジャズの好きな人にとっては、面白い映画です。
 なにしろこのクラブは朝、昼、晩を問わず色々な 
 ジャズメンが集まって来てはジャム・セションが
 始まるのです。
 ヘイ・ヘイ・クラブには、まだ少年だったチャーリ
 ー・パーカーが出入りしたり、当時のスター達(レ
 スターヤング、コールマン・ホーキンス、ベン・ウ
 ェブスター、ジョー・ジョーンズやモダン・ジャズ・
 ピアノの祖冶者と言われるメリー・ルー・ウィリア
 ムズ)の演奏が、現代最高のジャズ・メン達が
 その役になって熱演されています。機会があり
 ましたらご覧になってみてください。

カンザス・シティのスターは何と云ってもカウ
 ント・ベシーでしょう。勿論この映画でも扱われ
 ています。
 1904年8月21日ニュージャージー州レッドバ
 ンクに生まれ、母親から教わったピアノの腕を
 生かして、20歳の頃からブルース歌手の伴奏
 とソロ演奏を主にプロ活動をします。 
 その後、1929年に加わったベニー・モートン 
 バンドで、リーダーのモートンが1935年に亡
 くなると、自らがバンドリーダーとなってjジャズ
 ・オーケストラを結成、この頃から本名のウィリ
 ム・ベイシーから愛称のカウント・ベイシーを使
 うようになったのです。
 
この様にしてスィング・ジャズの基礎が出来
 上がりました。
 カウント・ベーシー

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JAZZ談義(23)  [2008年05月16日(金) ]
     1920年代後半からのJAZZ

JAZZの歴史に於いて1920年代後半から1930
 に年代に至る頃が、一番私の好きなところです。
 1920年に制定された禁酒法はJAZZをおおいに発
 展させることになるのです。この頃の事については話
 は付きません。
 スピーク・イージーと呼ばれるモグリ酒場が繁盛し、そ
 こではJAZZが必要不可欠なエンタティンメントとなっ
 ていたからです。

モグリ酒場と言えばやはり、ギャング、土地の顔役
 の登場となるわけです。映画ベニー・グッドマン
 欲情の悪魔(1955年度策 Love Me Or Leave Me
 ドリス・ディ ジェームス・キャグニー)、それに無人
 の砂漠のど真ん中に最初のカジノホテル”フラミンゴ
 ”を建設しその後の一大歓楽街ラスベガスの発祥
 となしたベンジャミン・シーゲル通称バグジーの伝
 記映画BUGSY(1991年度作品)そしてギャング
 とJAZZ MANの付き合いの極めつけはビリー・ワ
 ィルダー監督、ジャック・レモン、トニーカーチス、マ
 リリン・モンローのお熱いのがお好き(1959年度
 作品 Some Like It Hot)ではないだろうか。
  この映画の内容は皆さん御存知でしょうが、当時
 の大親分のアル・カポネが関係したと云われる19
 29年2月14日に起こった聖バレンタィンデー大虐
 殺
を目撃してしまったJAZZ MAN2人がギャン
 グ団に追いかけられ、しかも当時流行していた女
 ジャズ・バンドに女装して潜り込んで逃げ回ると
 いう喜劇の傑作でした。

この様にこの時代は、ギャングとJAZZとは切っ
 ても切れない関係でした。
 1922年ニューヨークハーレム地区にコットン・ク
 ラブという名前の高級クラブが出来、そこで演奏
 する黒人のジャズを聴くために、白人たちが連
 夜集まるようになりました。経営者はギャング
 として名の知れたオウニー・マドゥン(1891−
 1964)である。クラブのスタッフと演奏者は全
 て黒人(アフリカ系アメリカ人)であり、客は全
 て白人でありました。最盛期に客となった名
 士の中には、喜劇俳優のジミー・デュランテ女
 優のメイ・ウェスト、ジョージ・ガーシュウイン
 アル・ジョルソン、アーヴィグ・バーリン,ジミー・
 ウォカー(ニューヨーク市長)等が居たそうな
 当時の様子は1985年に公開されたフランシ
 ス・コッポラ監督の映画コットン・クラブに詳し
 く描かれています。音楽はジョン・バリーが担
 当し、リチャード・ギアやダイアン・レインが出
 演しています。(実は私まだ良く観ていないの
 です)
 1927年、デューク・エリントンのバンドがここ
 の専属バンドとなりますが、実はクラブ側は最
 初キング・オリバーに声を掛けたのですが、ギ
 ャラの折り合いがつかずエリントンがハウス・バ
 ンドに収まったと云う話です。しかしその後エリン
 トン・バンドはご存知のように大成功をおさめる
 ことになるのです。

ここでモグリ酒場の気分でJAZZ等を楽しんで
 みますか     JAZZ

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JAZZ談義(22)  [2008年04月18日(金) ]
    久し振りのJAZZ談義です。

先回まで何処まで話をしたか、メモをみながらボチボ
 チとやっていきたいとおもいます。

JAZZの歴史としてはまだ1920年代ぐらいまで
 しか話は進んでいなかったと思います。
 アメリカ最大の都市ニューヨークでもJAZZが流行
 りだし1920年代に入ってラグタイム奏法で有名に
 なったファッツ・ウォーラーが、出てきました。この
 人はピアノの弾き語りの元祖といわれ、彼は当時
 最大のハーレム・ピアニストだったのです。
 又この頃(1920年代半ば)にはフレチャー・ヘン
 ダーソンの楽団がいわゆるビックバンドのスタイ
 ルを確立しました。ルイ・アームストロングとコー
 ルマン・ホーキンスはフレチャー楽団のメンバー
 の一人だったのです。
 又、1924年にジョージ・ガーシュウインが初め
 てジャズ・コンサートをニューヨークで行い「ラプ
 ソディ・イン・ブルー」を演奏しました。これはジ
 ャズが演奏会の形式で行われた最初の試みで
 、クラッシック音楽にジャズが影響を与える様に
 なった歴史的な出来事だと思われます。

久し振りなので今日はこのへんで。
 ここで息抜きにルイに会って見ようかな。初めて
 なので、もし失敗したら御免なさい。
 ルイ・アームストロング

 

Posted at 20:10  | この記事のURL
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お久し振り  [2008年04月06日(日) ]
      半年振りに帰って参りました。

長い間ご無沙汰しておりました。PCから離れていた間に
 は時々皆様のブログを覗かせて頂いてはいたのですがようやくはれて正式にカンバックいたしました。今後共宜しくお願い致します。

この半年の間に私の2人の友人が鬼籍に入ってしま
 いました。私より若い人達でしたが、ちょっと寂しい思
 いを禁じえません。明日の事は分からない事なので
 すが、くよくよしてもしょうがないですよね。人生は一
 度だけです、頑張って明るく生きていきましょう。
 私の大好きなJAZZの世界でも、2007年12月23
 日ジャズピアノの巨匠オスカー・ピータースンが腎不
 全の為カナダ・トロント郊外の自宅で死去しました。
 享年82才です。私も80過ぎたらいいかなと思って
 おります。合掌  又一つの時代が過ぎましたね。

今後宜しくお願い致します。




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JAZZ談義(21)  [2007年10月18日(木) ]
      レコード初録音に付いて

}以前1917年にJAZZの初レコーディングが行わ
 れた事を書きましたが、でももうこの頃にはかなり盛ん
 にJAZZ演奏されていたにも関わらず、まったくレコー
 ド化されていないのは白人社会から黒人やクリオール
 たちの演奏する音楽として認められていなかったのだ
 と思います。それは白人達の黒人に対する差別、偏見
 蔑視に根ざすものであって初期のJAZZは低俗、卑劣
 な音楽とした受け取り方、見方、無視となっていたと思
 われます。

当時のニューオリンズはアメリカではニューヨークか
 ら見ると一地方都市にすぎず、レコード会社やレコー
 ディング・スタジオが無かった事が、JAZZのレコーデ
 ィングが行われなかった理由の一つに挙げられると
 考えられます。
 またもう一つニューヨークやボストン、フィラデルフィ
 アなど東海岸の文化都市には、ジャズの生の演奏
 がまったく紹介されていなかったらしく、それもJAZ
 Z吹き込みが行われなかった理由とも考えられます
 。

ニューオリンズからシカゴに出た白人ジャズ・グル
 ープがいました。そのグループ、5人組みの”オリジ
 ナル・ディキシーランド・ジャズバンド”こそ、ジャズを
 世界で初めてレコードに吹き込んだジャズ・バンドと
 して歴史に名を残すことになるのですがそのジャズ・
 レコード第1号が黒人ではなく白人によって演奏さ
 れたものだったのです。

音楽としての中身は黒人と白人との混血音楽では
 ありますが、実際には黒人ミュージシアンが創り出し
 たジャズの最初のレコードが白人ミュージシアンのグ
 ループ”オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド” 
 (ODJB)によって作られたのはそう云った時代背
 景があったのだとおもいます。
 この連中は初吹き込み当時はコルネット奏者ニック・
 ラロッカをリーダーとする5人編成で、ラリー・シール
 ズ(クラリネット)、エディ・エドワーズ(トロン・ボーン)
 、ヘンリー・ラガス(ピアノ)、トニー・スパーバロ(ドラ
 ム)といった面々で1916年に編成して17年にニ
 ューヨークに出ました。ニューヨークではレストラン
 などでいわばアトラクションとしての出演でしたが、
 ニューヨーク人にとって初めて聴く噂のジャズの楽
 しさ、迫力がたちまち評判になったのでした。
 ODJBの演奏はただ演奏を聴かせるだけでなく、ヴ
 ォードヴィリアンの芸のような動き、トロンボーン奏
 者は足を使ってプレーするなど、ショウー・バンド的
 な演出がされていました。しかもその演奏には音楽
 としてのジャズの高度なテクニックが巧みに生かさ
 れていてニューヨーク人はこのバンドの演奏を聴い
 てジャズ・ファンになった人が増えたと云われてい
 ます。


その評判に目を付け、長年ジャズを無視してきたレ
 コード会社もその人気を利用することを考えました。
 米コロムビアが名乗りをあげ、レコーディングするこ
 とになったのですが、1月28日レコーディング当日
 になっコロムビアはODJBのオリジナル・レパートよ
 りその時流行していたポピュラーなヒット・ソングを
 演奏するように注文を出したのです。ODJBの連中
 は内心面白くなく感じたと思いますが、渋々その希
 望を入れてインディアナともう1曲日頃演奏してい
 ない2曲を吹き込まされたのです。
 所がコロムビアのジャズが良く分かっていない担当
 者はそのテスト盤を聴いてこれはとても売り物にな
 らないと判断して、これをオクラにしてしまったので
 す。
 月が変わって2月に入りライヴァルのRCAがODJ
 Bに声を掛け、2月26日にバンド側の希望通り日
 頃演奏しているレパートからリヴァリー・ステイブル
 ・ブルース
ディキシーランド・ジャズバンド・ワン=
 ステップ
を吹き込み、そのレコードは3月に発売,
 大ヒットとなりました。
 これらの2曲は2002年頃に発売されたRCA10
 0周年記念集(CD)の中に収められています。
 RCAはODJBを専属として1921年迄に22曲を
 吹き込み1918年3月に吹き込んだタイガー・ラグ
 を筆頭に好セールスを記録したのです。

 尚今回は野口久光氏のジャズレコーディング事
 始め
を参考にさせて頂きました。

 私儀JAZZ談義を2,3ヶ月休ませて頂きます。皆
 々様には 大変お世話になりました。またお会い
 いたしましょう。


 

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jazz談義(20)  [2007年09月28日(金) ]
          シカゴジャズ
アメリカは第1次世界大戦への参戦(1917年)
 (大正6年)
を受けて網紀粛正の気運が高まり公娼制度
 廃止に伴って寂れていきました。此処を活動拠点として
 多くのミュージシャン達は活動の場を失って、ミシシッピ
 ー川を北上してシカゴへと移っていくのです。ジャズの拠
 点は次第にシカゴへと替わりながら,ますます栄えていく
 のです。1920年代に入るとシカゴには多くのジャズクラ
 ブが開かれキング・オリバー、ジェり−・ロール・モートン
 それにジャズ史上初の白人バンドを結成したトム・ブラ
 ウンらがシカゴ・ジャズの基盤をつくるのです。
 そして1920年7月にルイ・アームストロングがシカゴに
 やって来てキング・オリバーと共に演奏活動を始め白人
 プレーヤーであるジミー・マクポート、バッド・フリーマン,
 そしてベニー・グッドマンと言った面々が活躍するにいた
 ってシカゴ・ジャズが確固たるスタイルを確立して行くの
 です

1920年例の禁酒法が施行され 酒の製造及び販売
 と運輸が出来なくなりました。なおこの禁酒法では飲料
 用アルコールの製造と販売及び運搬などが禁止された
 ものの自宅内における飲酒は禁止されてはいません
 結局アルコールを隠れて飲ます場所が出来てくるわけ
 です。
 スピーク・イージーと言う言葉があります。禁酒法時代
 にもぐり営業をしていた闇酒場のことで、こっそりと酒
 を注文する
というのがこの語源だと云われています。
 映画「ベニー・グッドマン」のなかでアリスが初めてグ
 ッドマンと会う場面でアリスの兄が地下の階段を降り
 て小さな覗き穴から中の男に声をかけて入れてもら
 いますが、あれがスピーク・イージーです。こうしてお
 酒は地下組織のギャング達による莫大な資産となっ
 ていくのです。禁酒法時代の末期の1929年のニュ
 ーユークには均3万2000軒のスピーク・イージーが
 あったと言われています。ニューヨークの高級レスト
 ラン・バーとして今も健在の21クラブの地下酒蔵
 ラー
は、当時のスピーク・イージーの超高級店であ
 った為現在もこの店はもぐり酒場時代の隠し扉を名
 残りとして見ることができるそうです。
 このスピーク・イージーのオーナーは大抵はギャン
 グが経営しており客にサービスするアトラクションと
 してジャズが発達し踊りはチャールストンが流行し、
 ラジオが普及し流行歌は勢いずき、映画はサイレン
 トからトーキーになり、この時代をロアリング・トウェン
 ティ騒々しい20年代と呼ばれました。
 1929年(大正4年)10月24日世界大恐慌が起こ
 りシカゴでもほとんどのクラブが閉鎖されジャズのメ
 インステージも徐々にニューヨークへと移動して行く
 ことになります。

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