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JAZZが御飯より大好きと言われる方々お集まり下さい。JAZZを媒体に大いに語り合いましょう。

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JAZZ談義(19)  [2007年09月21日(金) ]
      ディキシーランドJAZZ
ニューオリンズ周辺で産声を上げることになる黒人達
 の演奏を総称してニューオリズ・ジャズと呼ぶ事になる
 のですがその演奏スタイルはブラス・バンドの影響を受
 けた即興的な力強い黒人音楽もあればクレオールのク
 ラシックの室内楽的な白人向けのものもあるといったよ
 うに様々でした。
 そもそもニューオリンズはNew Orleansと表記するこ 
 とからも分かるように、ニュー・オルレアンの意味なの
 です。オルレアンは、フランスはパリの南にある田舎
 町のことで、ニューオリンズがフランスに統治されて
 いた頃に名付けられた地名という分けです。又当時
 の中央銀行が発行する10ドル紙幣にはフランス語
 で”DIX”と印刷されていて、そこからニューオリンズ
 は”Dixieland”とも俗称されるようになり、やがて南
 部一帯を指してディキシーランドと呼ぶようになった
 為ニューオリンズ・ジャズはデイキシーランド・ジャズ
 と呼ばれる様になったのです。
 ただ白人達が黒人のジャズを真似てトラッペット・ト
 ロンボーン・クラリネットの3管編成を中心とするニ
 ューオリンズ・スタイルのジャズを始めるようになっ
 て、これをデイキシーランド・ジャズと呼んだという
 説もあります。

この頃になってデイキシーランド・ジャズはアメリ
 カ全土のみならず、ヨーロッパや日本にも広まって
 いきます。1920年頃になりますか、ワイルド・ビル
 ・デビソンとかエデイ・コンドンなど白人を中心にそ
 れまでとは違ったスィンギーなデイキシーランド・ジ
 ャズを演奏する様になりますた。
 一方、ウエストコースト派(カリフォルニアを中心と
 したグループ)では、ターク・マーフィを代表に、新
 しくはファイヤーハウスプラス2など白人独特のデ
 ィキシーランド・ジャズを展開し、地域ごとに独特な
 スタイルが生まれていくのです。
 さらにニューヨーク・スタイルはボビー・ハケット(tp
 ),ジャックティ・ガーデン(tb)などの知的で素晴ら
 しい演奏家が出現しています。
 ニューヨーク・スタイルのディキシーランド・ジャズ・
 バンドはディキシー・スタイルとしては末期で、(デ
 ィキシーランド・ジャズと呼べる最後の形)といって
 もいいでしょう。(1925年頃)
 

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JAZZ談義(18)  [2007年09月14日(金) ]
        JAZZ以前の音楽

それまでピアノという楽器に触れるチャンスが無かった
 黒人達が、次第にピアノを手にし、弾きこなす様に生ま
 れたのが、ラグタイムです。このラグタイムもジャズの
 基盤となる音楽と言っていいでしょう。
 1893年、フレッド・ストーンと云う人が書いた曲に初
 めてラグタイムと云う言葉が使われていますが、ラグ
 タイムの”Reg”とは(不揃い)とか(デコボコ)と云う意
 味で、音を小節の中に整然とはめ込まずに意識的に
 ずらして演奏することを意味します。これがジャズに大
 きな影響をあたえたとされているのです。ラグタイムの
 発祥を楽譜が出版された時点と考えると、1895年に
 ベン・ヘンリーが自曲を出した時と云うことになる。ヘン
 リーはその後ラグタイムをニューヨークにもたらし、流行
 らせました。最初の器楽演奏によるラグタイムはウイリ
 アム・クレルの”Mississppi Rag”で1897年のこと
 です。無伴奏で歌われていたワークソング(労働歌)や
 スピリチュアル・ソング(霊歌)などにも、ピアノの伴奏
 が次々と取り込まれていきました。

フランス人と黒人の混血をクレオールと呼ぶことは先回
 お話ししましたが、このクレオール達は当初は白人と同
 等の扱いを受け、音楽教育も含めてヨーロッパ的教育を
 受けていました。然し1865年に南北戦争後の(奴隷解
 放令)により、クレオールの人達は白人の扱いを受けな
 くなったばかりか、其れまで優越感を抱いていた黒人か
 らも迫害されてしまうのです。その結果、次第に没落し
 ていく過程で、クレオールの人達が黒人社会に入り込
 んでいくことになるのです。そして、アフリカ出身の黒人
 達が奏でる音楽や歌に、クレオール達が身に付けた西
 洋音楽の要素が自然に溶け込んでいくことになります。
 そしてアフリカ出身の黒人達が奏でる音楽や歌に、クレ
 オール達が身に付けた西洋音楽の要素が自然にに溶
 け込んでいくのです。こうしてジャズの誕生に繋がって
 いくわけです。

クレオールの人達は普通の黒人とは逆に、奴隷制度
 が廃止されたおかげで、有産階級の地位を失って、単
 なる黒人と見なされる様になり、人種差別を受けるの
 です。そのクレオールが奏でる旋律を”Creole Tune”
 と呼んで、クレオールがの演奏するジャズを”Creole 
 Jazz”と呼称しました。やがて、黒人のジャズと融合し
 てひとつのジャズに姿を変えるのですが、最初の頃の
 クレオールの音楽は西洋的な洗練されたもだったの
 です。
 アメリカに奴隷として連れてこられた黒人達は過激な労
 働を強いられました。過激な労働による苦しみを歌にし
 故郷のアフリカを思ってドラム缶を叩きそのリズムに合
 わせて踊り、歌いながら、耳に入って来る讃美歌、マー
 チ、労働歌,又はヨーロッパの民謡だったりと、なんでも
 ありーーーこうして、自然に黒人の体に刻まれたリズム
 感と西洋音楽のハーモニーが合体して、ジャズが誕生
 していくのです。

時代と共に徐々に黒人達の生活も向上してゆき、音楽
 の基礎を学んだプレーヤーも現れ始めます。ハーモニー
 も充実し始めて、なんとなく形つき始めたのが1800年
 の終わり頃です。
 ジャズはいきなり出来たわけではなく、この様に生活の
 中から生まれ、徐々に、根付いていったのです。

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jazz談義(17)  [2007年09月10日(月) ]
JAZZ誕生前の音楽

先回jazz発祥の地に付いて書きましたが、今回はもう少し
後の事を書いて見たいと思います。
1900年代初期jazzの素地となった音楽がいくつかありました。
その中のひとつにブルースがあります。ブルースは4分
の4拍子で哀愁を帯びた曲でアメリカ黒人達の間に歌
われた物でjazzの音楽的基盤になったと言われてい
ます。
当時の代表的アコースティク、ギタープレーヤーでロバ
ーット・ジョンソンと云う人がいますが、かれはギター一
本で国中ブルースを広めて歩いたのです。(この人のこ
とは、とても伝説的なので、別の機会に)
ブルースの起源が黒人音楽なのは間違い無いのです
が、正確には良くは判らないのです。
ブルースの形式は今も当時とは変わることなく、12小
節で、3音と7音が下がり気味に暗いメロディが特徴で
、これをブルー・ノートと言います。
ブルー・ノートと言えばjazzレコーデの最も有名なレー
ベル名として知られていますが、これが語源でしょうね。
そもそもアフリカ音楽の音階は5音階しか無いらしく、黒
人達にとっては西洋の7音階には馴染めない音が入っ
ていたのです。現在の楽譜にはフラット記号を用いて半
音下がる様に表記されその結果このブルー・ノートを使
って、独特のメロディが生まれたのです。

実は私大きな声では言えないのですが、ロバート・ジ
ョンスンのレコードないのです。恥ずかしいことなので
すが{すいません
}聞いた事はあるのですが、大分前なのであまり印象に
ないのです。名前だけはジャズの歴史上の一部として
覚えてはいましたが.音源は手に入りそうなで、近い
うちに聞きます。

1909年ブルースの父と呼ばれる「W・C・ハンディ」
が書いたメンフィス・ブルース(選挙に使ったとか)と云う曲
がブルースの譜面としては初めてだったようです。有名な
セントルイス・ブルースは5年後の1914年です。




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jazz談義(16)  [2007年09月07日(金) ]
1995年頃を中心に今お話しているのですが、今日は
それ以前の事を少し話して見たいと思います。

20世紀初期に産声をあげたと言うjazzが100週年を
超えた今、発展して来たのか進化して来たのか又、変革
して来たのかどう表現したものか、迷っています。
Dixieからアメリカ最悪法と言われる禁酒法時代を経てS
winng時代,そしてBe・BopからCool,Free Jazz etc
変革して来たのかな実際には各間に多々色々Ch
icago JazzとかNew York Jazz,Kansas City J
azz、hard Bop.Mode Jazz, Jazz RockそしてF
usionその他切がありません。時代のニーズにこたえてき
たのでしょう。


Jazzはアメリカ南部ルイジアナ州ニューオーリンズの
港町に生まれた言われています。2005年のハリケーン
の直撃で,町の9割が水没したあのニューオーリンズです。
16世紀初頭にスペインに支配され、後にフランス領にな
ってナポレオン時代にフランスはこの土地をアメリカに売
り渡したのです。タバコや綿花の栽培をすると言う土地で
あった為、その労働力としてアフリカから多くの黒人が奴
隷として連れて来られたのです。
中でもニューオーリンズでjazzが産声をあげる事ににな
る大きなカギを握っていたのがクレオールと呼ばれいた
フランス系白人と黒人の間に生まれた混血と言われて
います。西洋音楽と黒人音楽の融合こそがJazzだと
いわれることからも、このクレオールの存在そのものが
Jazzへと繋がってたと考えられます。
南北戦争が終わって南軍にいた音楽隊が次々に解散
してき、同時にそれまで使われていた楽器が市場等に
大量に放出され安価で流通し始めた楽器を手にし、見
よう見真似で覚えた黒人達、やがて独自の音楽を奏で
る事になるのです。

初めてのジャズレコードのレコーディングは1917年
(大正6年)とされていて、このレコードはミリオンセラー
ズになり世界中に知れ渡ることになるのですが、レコー
ドのクレジットを見てみるとOriginal Dixieland Jass
bandとなっています。Jassはスペルが違うっていえ
、まちがってないのです。ジャズが誕生し暫くの間はJa
zzではなくJassといわれていたのです。元来Jassの意味
はと言うと、これがどうやら猥褻な事を指すスラングらし
いのです。当時はJass Houseと言えば(売春宿)を意味
したといいます。後にジャズがニューオーリンズからシ
カゴに進出(1920年代)していった際にシカゴではニ
ューオーリンズと区別する意味も込めてJassをJazzに
変化していき、最終的にJazzに落ち付いたたとされて
います。この言葉の起源に付いては諸説が色々あっ
たのが現実で、有力な説の一つと考えておいて下さ
い。










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JAZZ談義(15)  [2007年08月26日(日) ]
1955年(昭和30年)私20才の春

ベニー・グッドマンやグレンミラー等のスイングジャズ、
 やルイ・アーム ストロング等のトラジショナルジャズを
 聞き慣れていた私の耳に入ってきたのはガレスビーの
 ビバップ調、49年にはクールジャズ(マイルスのクール
 の誕生
)にはカルチャーショックでした。

此の頃からかな、レコード集め(前から少しはやってま
 したが)に走り始めたのは。
 しかし当時は盤権問題で国内盤ではブルーノート、プレ
 スティッジ、バーブ、リバーサイド、アトランティック等の
 マイナー系のものは皆無で、手に入れる事は大変難し
 いく、愉入物しかありません。当時レートが300円以上
 だったので大変高価でした。













こんな時期に国内のロンドン盤としてアトランティック
 原盤MJQのフォンテッサが発売されました。
 此れが手に入ったのは57年6月とジャケットの裏に
 記録されていました。
 でもこのレコードは今はノイズが酷いので御隠居願
 っております。
 
此の下のレコードの写真は私が始めて銀座の十
 字屋に輸入をお願いした、レコードです。
 












此のレコードはあのコンサートプロモーターであるノ
 −マン・グランツがJATP(Jazz At The Philharm
 onic)のメンバーでのカネギー・ホールに於けるライブ
 録音されていると噂が広まっていたので、1952年度
 の物を注文したら此れが届きました。3枚組で結構な
 値段でした。JATPのこのシリーズは1944年に第1
 回に始まり私が手に入れたこのアルバムはもうVol
 15になっていました。又作りが面白く普通1枚目の
 A面が1、B面が2なのですが、A面が1に対してB
 面は4、2枚目のA面が2で、B面が5、3枚目のA
 面が3、B面が6になっているのです。つまりタンテ
 ーブルが2台あれば、連続2時間切れ目なしにな
 るのです。放送用に使えるのですね。
 この時のJATPのメンバーは先ずオスカー・ピター
 ソントリオ(ピータソン(p)レイ・ブラウン(b)バニ
 ー・ケッセル(g))、ジーン・クルーパートリオ(ジー
 ン・クルーパー(ds)ウイリー・スミス(as)ハンク・
 ジョーンズp))等々。他にロイ・エルドリッチ(tp)
 チャーリー・シェーバース(tp)ベニー・カーター
 (as)レスター・ヤング(ts)フロッピ・フロップ(ts)
 バディー・リッチ(ds)等々そうそうたるメンバー
 です。グランツの主幹したJATPも含めて彼の
 下で演奏しなかった重要プレイヤーは若くして
 この世を去ったチュー・ベリー(TS)チャーリー・
 クリスチャン(G)ぐらいじゃないかな。

こうして私は本格的なjazzへと流れていったの
 です

写真の撮影が下手糞で大変見辛いでしょうが御免
なさい。









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JAZZ談義(14)  [2007年08月06日(月) ]
        EPが出ました

1949年頃かな、進駐軍の払い下げのVディスク等
に混じってEPが少しずつ入っていました。秋葉原のジ
ャッンク屋にコネがあったので、やはり払い下げ(戦場用
)のプレイヤーを手に入れて聞いていました。その時、聞
いた音は今でも忘れません。
今までは、レコードに針を落とすとパリパリとかバリバリ
とか言っていたのが、いきなりガンと音楽です。
(専門用語ではS/N比が良いといわれます)
SP時代には考えられないの事なのです。

LP(払い下げ)も時々安く手に入りました。この中に
デュク・エリントンやカウント・ベイシィそしてベニイ・グッ
ドマン等のスイング曲に会ったのです。
本格的に日本でEPやLPが動きだしたのは、1956年
以降だと思います。

EPやLPに変わる時色々問題が有ったようです。
発案者は長い曲を1枚のレコードに録音するのには回
転を遅くする事を考えたのです。実用化に際し、最初C
BSに話を持って行ったところ、当時レコード界を牛耳っ
ていたRCAがこの方式を拒否したのです。そして今ま
でおこなってきた新方式(SP盤を数枚重ねる)のオート
チエンジャーで連続再生する事を提案したのです。
回転を遅くして録音する方式は採用されこれがEP(Ex
tended Plying)レコードの始まりです。
1949年頃から各社でEPやLPを発売すろようになり、
LPはCBSがオペラ「運命の力」と云うのを初録音した
そうです。

RCAは目黒の雅叙園で1949年で報道関係者に
EP盤とオートチェンジャーを公開したそうです。
日本初プレスはLPで1951年でブルーノ・ワルター指
揮、ベートーヴェンの交響曲「第9番」でこれはマスタ
ーをアメリカから取り寄せたものだそうです。
国内初録音初プレス第1号は、日本ヴィクターが出し
たコルトー来日記念の「ショパン ピアノ曲集」だったと
のこと。又EP国内初プレス盤は1951年に出したダイ
ナ・ショワーの「ブルー・カナリー」ですが、マスターは
やはりRCAのものだったとか。
EPの大きな穴はオートチエンジャー用で他社はアダプ
ターかレコードの真ん中に三叉をつけ、オートチエンジ
ャーではその三叉を折るというもの。当時はこのEPを
中心に発展して来ました。
小遣いを貯めて皆んなEPを買った経験があるのでは
ないでしょうか。

私実を言うとP盤アワーに付いては、あまり記憶に
無いのです。少しですが調べてみたので書いて見ま
す。
日本放送が1957年春頃スタートをさせました。レコ
ード界はドーナツ盤の発売が軌道に乗り始めていまし
た。ポリドールもこの時期DP1001として、リカルド・
サントス楽団の「ラ・コンパルシータ」をドーナツ盤で発
売しました。
番組で使用しやP盤は1953年戦後復建された日本
グラマフォン社がドイツグラマフォン社から原盤の提供
を受けて製造開始、ポピュラーのSP盤(10吋)をP盤
と名付けて発売したのです。当時グラマフォンの録音
技術は最高で多くのファンを魅了していました。
アルフレッド・ハウゼ楽団の『碧空」とリカルド・サントス
楽団の『真珠取り」は1957年大ヒットし、ベルト・ケン
プフェルトの『真夜中のブルース』『愛の誓い』星空の
ブルース」の大ヒット、又映画「最後の楽園」のテーマ
曲「ベバーテの夜明け」、トニー・ザイラーの『白銀は
招くよ」、フィルムシフォニイオーケストラの『太陽がい
っぱい」、ウーゴ・ブランコの「コーヒー・ルンバ」等がヒ
ットしました。
他の番組では何処の放送局か分からないのですが
「魅惑のリズム』と云う番組もあったと思います。たし
かマゥント・ヴァーニー楽団の『魅惑の宵」がテーマ
曲でしたね。

この時期にはヒットパレード的な番組がメジロ押し
に広がっていくのです。

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jazz談義(13)  [2007年07月29日(日) ]
    SP盤もう少し頑張って
1955年私は二十歳です。我が青春時代最高の時で
す。考えて見ると当時の「成人式」なんて地味で何の飾り気の無いもので、どんな風だったか、どんなことをしたか、全然覚えておりません。1946年11月22日、埼玉県北足立郡蕨町に於いて実施された「青年祭」がルーツだそうです。
「成人式発祥の地」の記念碑が蕨市の蕨城址公園に建立
されているとの事。
私は就職したのですが、電子関係(ラジオやAMPの組み
立て)の仕事の方が忙しく又報酬も多かったので会社をや
めて独立し、好きな時に仕事をやり、あとは映画三昧の生
活をする様になりました。
今で言うフリーターみたいなもんです。
映画三昧とはいえ、毎日と云うわけにはいきません。仕事
を優先したことは,ゆうまでもありません。その代わり映画
の封切りには、出きる限り出かけていました。
当時の封切り館は、朝1回だけ普通料金で指定席フリー
だったので、それが狙い目です。
封切館で思い出すのは、本邦初シネマスコープ作品
聖依の有楽座、初ヴィスタ・ヴィジョン作品ホワイト・
クリスマス
東京宝塚劇場でのジュディ・ガーランド、ジェムス・メィスン主演のスター誕生、その5階にあったスカラ座での5っの銅貨等々本当に我が生涯最良の年でした。

あれ肝心のJAZZ談義はどうなったんだ。今回は映画
の話ばっかりになってしまいました。
前回はS盤アワーとL盤アワーの話を話題でしたね。

今回はS盤とL盤に付いて知っている限り思い出し、思
い出しながら語ってみます。
S盤アワーは日本ヴィクターが洋楽ポピュラーを売り出す
為、1952年の春に文化放送が始めたのだそうです。
当時電力事情が大変悪く放送中にレコードの回転が狂っ
た等と云う話も有りました。
当時の売りはやはりペリー・コモ、エディ・フイッシヤー、ハ
リー・ベラホンテ、エーモス・ブラザース、ペレス・プラド、ア
ーサー・キッド、スリー・サウンズ、グレン・ミラーetc。
こういった40年代からのアメリカポピュラーの流れをはぐ
くむアーティスト達だったのです。
そして次々と新しい曲がS盤を通して発売され、ロックン
ロールの誕生と同時にS盤最高のスターとなったエレヴ
ィス・プレスリーを日本に最初に登場したのはS盤だった
のです。

L盤アワーは当時の洋楽界はコロムビアの独走とい
った感じだったがS盤の伸び上げが因で日本コロムビア
が、1949年にLimitedのLの頭文字をとって発売した
のだそうです。L盤のリストには(レコード番号L-1)レイ・
ノーブル楽団「夢路はるかに」をはじめダイナ・ショワー
の「ボタンとリボン」、フランク・シナトラの「ホワイト・クリ
スマス」ザヴィア・クガート楽団の「ベッサメ・ムーチョ」、
ドリス・デイの「アゲイン/イッツマッジック」そしてL盤
アワーのテーマ曲はパーシー・フエース楽団の「恋をし
て』等云L盤アワーのスタートは1955年頃東京放送(
現TBS)で始まりS盤アワーより2,3年遅れた様です。
両番組は1963年頃まで続々とヒット曲を出し、19
60年代に次々と登場した音楽番組の先鞭を付け、ヒ
ット・パレードは花盛りとなりました。











Posted at 18:06  | この記事のURL
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JAZZ談義(12)  [2007年07月22日(日) ]
        日本初の民間放送始まる

1951年暮れにラジオ東京(現TBS)が開局しました。
 私達もNHKの今まで聞かせてやるよの態度に慣れて
 い た耳にCMや番組を聞いてくださいと云う耳新しい内
 容に感心して聞き入りました。

やはり音楽番組が今までAM放送では聴かれなかっ
 た様なのが、ガンガン流れ始めたのですから、もう夢中
 になって聞きました。


 その頃になると私のところにどこで聞いたのか、ラジ
 オを作ってくれの注文が殺到しはじめました。
 夏休みに入るや否や神田に部品の調達に走りました。
 当時神田須田町〜駿河台下迄の歩道にパーツ屋が露
 天形式100軒以上あったのじゃないかな。その後秋葉
 原のラジオセンター等に集約されたのです。
 1953年頃にはキット部品がでていたので前に比べる
 と楽に集まりました。売値がすごく安くしていたので注文
 が殺到したのでしょう。一夏で結構稼ぎましたよ。

おっと音楽の話はどうなったんだっけ−−−−
 民間放送も落ち着いてきて、音楽番組も増えて大手コ
 ロムビアがL盤アワー、ビクターがS盤アワーと云うそれ
 ぞれのヒットチャート番組が出来たのもこの頃かな。後
 にDJで有名になられた志摩夕起夫や三国一朗などもこ
 の頃には出ていたかな。
 
ディーヂィ・ガレスビーの名前を知ったはこの頃だと思う。
 S盤(SP)で恋人よ我に帰れノのレコードが出たのです が、
 私の知ってる曲のイメーヂと は程遠い感じなのです。
 10吋の盤で針送りの溝が殆どなく真ん中のラベルギリ
 ギリ迄音溝が刻まれていて、普通1曲3分そこそこなの
 に4分以上演奏時間があったと思う。それに今までに聞
 いた事もないアレンジなのに吃驚したりしました。今思う
 とこれがビバップの奔りだったのでしょうね。



 
     SP盤はもう少し頑張りたいよ






















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色々な方々のブログ  [2007年06月25日(月) ]
私がプログを始めたのは、71歳を過ぎて自分の好きな事、趣味の事等で残り少な人生を楽しんでみたいと思っていたのですが、今回色々な人のプラグを見て、こんなに人生まじめに考えていらっしゃる方々が一杯なのには感心いたしまいた。

自分はそうゆう考えをしたことがあるのだろうか?
自分の事だけを考えているのでは。人生一度だけしか生きられないのだから?
いや!!そうじゃない、自分の楽しみだけが人生じゃない、人の為に尽くすのも生き方の一つではないか?

なんか近頃そう思う様になっています。そうかといって自分になにが出来るか分からないのですが?

Posted at 13:46  | この記事のURL
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JAZZ談義(10)  [2007年06月22日(金) ]
朝から散歩をしようと思っていたら10時頃から雨になってきました。

雨と言うと映画雨に歌えばのジーン・ケリーがどしゃ降の中タップダンスしながら歌う場面が思いだされます。

この映画の面白い所は単にミュウジカルだけでわなく、ストリーの設定がトーキー初期と言う発想が面白いと思います。

この唄はじつわ結構古い唄で、その前から例のジュディ・ガーランドと当時よく一緒に出ていたミッキー・ルニーとコンビで歌われていたのを他の映画で見たような覚えがあります。でも何時見ても懐かしくいい映画ですね。

Posted at 17:09  | この記事のURL
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