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炭住無惨  [2008年04月27日(日) ]


今日2008年4月27日で、田川市松原の炭坑住宅から住人が居なくなる。住居としての期限日だからだ。
バラック又は廃屋寸前の長屋はひっそりしていた。近くで車の整備をしていたおじさんに訊くと、もう誰も居ないらしい。市と警察の名前で【立入禁止】の札があちこちに貼り付けられている。
地域を形づくってきた。様々な人生があった。なのにセレモニーひとつないとは寂しすぎる。崩れいくものには目もくれない。たかが数百戸の歴史など意味が無いというのか。何回も訪れたが、その度に建物と人が崩れていくのを実感してきた。
住人の多くは3階建ての新築団地に引っ越し、これからは住み心地の良い環境で新たな生活を送るだろうが、前のようなコミュニティが再生出来ればと願うばかりである。





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ハーモニー  [2008年04月25日(金) ]
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人の営みが終わると
モノは捨てられていく
共に生きたせっかくの時間も
ついでに捨てるのが人間だ
手に入れたときは
撫でまわして慈しみ
捨てる煩わしさは「このゴミが」と
置いてきぼり

こんな風に置いてあると
哲学の空間が生まれてしまう
慈しみをはぎ取られ
行儀良く座ったり横たわったり
しているが
結構悲しい
ほど良いバランスが悲しい

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立ちション考  [2008年04月24日(木) ]
先日、久しぶりに立ちションベンをした。
これでも常識男なので、結構後ろめたい気持だったが、まわりにそれらしい施設もなかったので、車を停めて田んぼの真ん中で失礼した。さすがに畦道に立ってという訳にもいかず、水が枯れている側溝に降りてみた。目線がかなり低くなり、もしどなたかが通りかかってもごまかせる姿勢になれる。子供の頃はもっと堂々とチン○コをコントロールして、角度を上げて射程距離を更新したものだが、今はこそこそと周囲をはばかる情けなさである。老い人はこんなところにもその現象が出る。
ところでイギリスにはこんな法律があると聞く。
『男性が公共の場で小便する場合、自分の車の後輪に向かい、右手を車についた姿勢なら合法である』
合法の訳をいろいろ考えてみた。先ず車が無くてはいけない。それに、あくまで自分の車と明記している。これはあくまでドライブ中にモヨオシしたときの処置に限っている。車でまわりの視線をさえぎるということしか思いつかない。
“右手をつく”。何故右手なのか。左手でモノを引っぱり出さなければならないが、いやいや、引っぱり出してから右手をつくのだから、ただ方向を決めるなら左でいいわけだ。
いつ頃立法化されたのか分からないが、イギリス人らしい分かったようなそうでないような決まりだ。きっと、こねくり回した理屈があるのだろう。是非知りたいものだ。
ついでにこんなのもあった。
『エレベーター内で放尿してはいけない。(シンガプール)』
それまではやっていたのかよ、といった感じだ。シンガポールといえば、チューインガムの持ち込みが厳しい国だ。違反すれば最高刑は懲役2年というのに、国民性とはいえ面白い。
インドの『牛を見ながら小便してはいけない』は理解できる。ヒンドゥ教にとって牛は神聖な存在だからだ。牛にひっかけるならともかく、見ての所業も駄目というのはどうかと思うが・・・。

江戸時代、上方では尿も肥料になるということで、公衆トイレがあって、立ち小便は少なかった。江戸では尿は畑の肥やしにならないとして、そんじょそこらの裏通りで男女共々シィシィしていた。つまり、外での排泄行為は日常目に入る風景の一つということで、少なくとも小用に限っては“のぞき”行為は意識されておらず、町内のたわいない出来事として片付けられていたに違いない。話題性がないから瓦版のネタにもならなかっただろう。
良い悪いは別にして、人は大らかさを無くしていく。公序良俗や公衆衛生が根付くにつれて改善されていくのだが、わたしの子供時代、戦後の貧しさもあって、トイレの板壁は節穴だらけだった。だから江戸時代のかけらくらいは想像できる。

初夏、田をわたる風を受けながら、放出生理の快感を味わいつつ・・・。

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母子殺害判決  [2008年04月23日(水) ]

                   (イラストはサンケイから)

安田弁護士を長とした[殺人、強姦(ごうかん)致死などの罪に問われた元会社員(27)(犯行時18歳1か月)]被告の弁護団は、常々主張してきた死刑廃止に自ら冷や水をかける結果になった。少年であろうと、残虐性、計画性を持って二人殺害という罪は死刑に価する判例をつくってしまったからだ。
1,2審と容疑を認めて反省の念を持ったかのようだった被告が、新弁護団の指示に従って、「殺意の否定」を軸としたとき、これでもかという荒唐無稽な弁論展開のため、反省云々は別として、それまでふてくされながらもうなだれていた顔を上げ、「ぼくをなめないで下さい」姿勢に変わったとき、わたしは22日の判決を確信した。
もし弁護人の理屈が認められたなら、これからの凶悪犯罪はすべてこの手で歪められるからだ。舌先三寸の空論で正義が弄ばれることになるからだ。

朝日新聞は、思った通りの扱いだった。
【母子殺害に死刑 「不当判決で厳罰化加速」弁護団が批判 - 社会
DATE:2008/04/23 07:23
URL:http://www.asahi.com/national/update/0422/OSK200804220087.html

産経新聞も同様。
【光市母子殺害 被告に死刑宣告 新供述は「不自然、不整合、到底信用できない」 (1/2ページ) - MSN産経ニュース
DATE:2008/04/23 07:26
URL:http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/080422/trl0804221202010-n1.htm
それぞれの主張は社説を読めばはっきりするが、報道姿勢からも充分伺える。

裁判員制度をどうとらえるか、今回の裁判は一つの指針の気がする。
おかしな判決は多々ある。推定無罪より推定有罪の傾向が欧米よりかなり濃い結果の数字もある。イギリスの推定無罪は50%前後と聞く。日本は90%以上だ。原因の一つに、日本では検察官と裁判官の交流が日常的にあり、裁判官から検察官になる人やその逆もあることから、当然検察寄りになるのがその原因とも言われる。自白だけの検察庁書内容は認めるが、物証も含めた弁護側の証拠はなかなか認めない事案がみられるからだ。
事実を争う公正な裁判過程があるとは限らないと言うことだ。ここに裁判員の存在意義があると思っている。
一般人の常識だけでも法律家の判例だけでも公正は保たれない。両者で証拠や自白内容をとことん検証する場になるはずだ。
よく「裁判官の心証を害する」と判決に影響が出るといわれるが、これを極力避け、論議に徹する方向に持っていくためにも、裁判員の責任は大きい。

被告、原告、検察、弁護人、裁判官すべてが人間である。感情を持つ生き物でロボットではない。この難しさは理性に基づいた正義に頼るしかないのが現実であり、これからも“裁き”への試行錯誤は延々と続くだろう。

Posted at 08:17  | 日記  | この記事のURL
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聖火とチベットと中国と  [2008年04月22日(火) ]
夏の北京オリンピックの前哨戦になっている“聖火の世界巡り”は、残念なのか当然の帰結なのか、行く先々の国で、トレベルがトラブルと同義語になりつつある。
IOCと中国政府は、なにがなんでも五大陸制覇とばかりに、イメージダウンを自らばらまいている。
チベット国(文明的にまさしく国)及び亡命政府の作戦は見事に的中した。アメリカを始め、日本を含む各国政府は見て見ぬ振りを決め込んできたが、今頃になって「人権、人権」と、取って付けたようにコメントしだした。政府関係者はともかく、市民や一部メディアはチベットでなにが起きているのか、かなり正確な感覚で、抑圧の実態を想像している。
中国政府は「内政問題だ」として受け付けず、先日の報道番組では、在日中国大使が様々に正当性を主張していた。途中から見たのだが、「農奴制から解放した、寿命が2倍になった、警官は1人の死亡者と200人以上の負傷者を出しているので弾圧ではない、信教の自由は保障されているetc etc」。だからダライ・ラマ側が言う不当な行為は一切無いと結論づけている。
わたしの偏向的な観念として、共産主義の「解放」ほど怪しいものはない。ソ連でも東欧でも同じで、解放つまり侵略に他ならない。日本もかつては、東南及び東アジアを欧米の植民地から「解放した」と言っていた。それを非難し続ける中国は、少数民族といわれる人たちに同じことをおこなっている。また多数の漢民族にも同様の行為で格差を広げ、都合のいい市場経済を一党独裁のもとに展開している。本当の農奴はまだまだ居り、かつ増えているのが現状ではなかろうか。
中国政府の主張が本当なら、先ずは一切の制約なしにチベットを世界の報道関係者に公開するべきだ。それなくしていくら主張しても、誰も信用しない。面子にこだわり我を張りつづけるなら、世界の冷たい目は変わらないだろう。その象徴が聖火護衛隊などという出現である。平和を信じるならこんな集団青服で守られた聖火がいかに無意味で虚しいかを悟るべきである。
中国の経済成長になんの羨望も持たない。やっかみなどゼロである。ただ、騒々しいのだ。自由とは言い切れない13億の民のざわめきが煩わしいのだ。良いことと言えば、多少裕福になったため密入国が減ったくらいで、環境破壊ではまさにメガトン級である。以前にも言ったが、黄砂だけでも迷惑なのに、それに産廃物がくっつくようになり、韓国、日本は防ぎようがない。食の安全では既報のように改善しようとする気がほとんど見えない。官が対外的なアピールをしても、生産者の意識が「売れるならなにをしてもいい」にとどまっている以上、コピー商品の氾濫と同様、無くなりはしない。政府が自国中心主義(中華思想)であるなら、その国民が自己中心なのは当然でもある。
民度を上げる本当の教育は、共産主義下では
無理だ。飢える者富む者のひずみがあり、それを強権で押さえつけている現状は、13億人を束ねるには不可欠という理屈の上に立っている。川や湖の水汚染で住民に飲み水が無くても役人がその企業を守り、オリンピックがあるからと強制立ち退きさせる不動産業者と役人がくっつく。万民平等のための共産主義は、単に国体維持のみのために存在しているようなものだ。
正直、オリンピックなど大した催しではなくなった。商業主義がどんどん流入し、その国の経済効果は確かに大きいだろうが、魅力は回を重ねる毎に減少している。ましてや、聖火の通り道にある町が罵声と暴力から必死に守る意味がどこにあるというのだ。
なんといおうが、オリンピックに関係なく、終わった後さらにチベットに目を注ぐことを忘れてはならない。
どちらにしろ、迷惑千万な話である。

Posted at 05:36  | 日記  | この記事のURL
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き色  [2008年04月21日(月) ]


くろは いろでしょうか
しろは いろでしょうか

き色を みると
きいて みたくなりました

あかは すてきでしょうか
あおは ふかいでしょうか

き色を みると
きいて みたくなるのです




Posted at 05:19  | 写真  | この記事のURL
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 モーツァルトな朝  [2008年04月20日(日) ]



ほうとに こだわらない ひとですね
しばられない おとを
じゆうに あやつって
あかるく かろやかに
わたしの あさに あらわれて
‘おはよう’と あいさつして
ゆめみごごちを そのままにして
ずるいひとです あなたは
ここちいい ひなんを
あさの コーヒーにして
のむんですね
わたしは まだ あさのコーヒーを
つくっても いないのに
あなたは 
こゆびを たてて のむのですか
カップの おとを
わざとらしく 
じぶんの おと にして
オンプを いっぱい
ばらまくんですね
だから
あなたの あさなんです

Posted at 06:14  |   | この記事のURL
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ゆっこちゃん  [2008年04月19日(土) ]




へいを またいだら
となりの ゆっこちゃんが
てを ふった
ぼくも てを ふったら
おっこちちゃった
いたかったけど
ゆっこちゃんが わらった

Posted at 08:04  |   | この記事のURL
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サボテン 仙人掌 覇王樹 Cactus  [2008年04月16日(水) ]


サボテンという植物はなんとなく面白い。
そう興味をそそるわけではないが、存在そのものが良い。
先ずは砂漠で月の光を浴びながら屹立している姿である。淡いベールが鋭い棘を覆い、アリゾナやメキシコ、アフリカに佇んでいる。多肉種などといわれ、風物をつくりだしている。
その出自や由来、歴史、植物学的特性などには興味がないが、たまたま「サボテンハウス」を見つけた。
宮崎のサボテン公園ではサラダ向きの料理を食べた。たしかテキーラの原料とも聞いた。
そう、この程度の興味しかないのだ。よほど暇でなければここにも来ていない。わたしの中ではその程度のサボテンだが、よく観ると結構凝ったコスチュームで、丸っこいのやペラペラや、棘のない種類もある。
数枚撮ったが、初夏が羽ばたくガラス張りの建物はやたらと暑く、早々に引き上げた。その結果だ。





Posted at 19:08  | この記事のURL
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桜が散って  [2008年04月15日(火) ]


公園の桜木が、葉桜から若葉に移りつつある。以前のように、チチッとかわいい声のメジロやギャギャッとうるさいヒヨドリは蜜を吸いに来なくなった。四月も半ばというのに、花冷えのせいでセーターを着たり脱いだりと
結構せわしく、カミさんもブツブツ言いながら衣類を出したり仕舞ったりとうるさい。
また訳もなく浮き浮きしてしまうのもこの時期だ。落ち着かない。集中力が更に低下し、思考の広がりも狭まっていく。喜怒哀楽のアンテナが電波を拾いきらず、たまに受信しても‘喜’だけだったり、弱い‘哀’だったりする。一つの出来事を出来るだけ多くの角度から見る『視線』が欠けてくるのだ。よく考えれば季節になんの関係もない。かこつけて老い人の立場をごまかそうとしている。春よ、広い心で許してくれたまえ。

こんなことをつらつら思っても書いても仕方がないので、オモロイものを見つけに出かけた。
菜の花畑はまだ真っ黄色である。更に田舎道を走ると、きれいに計算して植えられたチューリップ集団を見つけた。チューリップ畑で四駆を走らせて滅茶苦茶にしたり、沢山の鉢に植えたものを傘か棒で花をちぎり飛ばしたりと、ニュースになっている。本当にぶっ飛ばしてやりたいクソ野郎(失礼!)だ。
真っ赤っか、まっ黄黄、真っ白と色毎に分けられ、真っ盛りである。
チューリップは英語だとたぶん“Tulip”だと思うが、lipは唇の意味がある。つまり、唇でチュッである。kissである。口づけである。接吻である。そういえば、チューリップの花は真っ直ぐ上に向いて、春だか空だかにチュッチュチュッチュしているみたいだ。





Posted at 19:31  | 写真  | この記事のURL
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