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小郡をたずねて 2 [2007年10月30日(火) ]



夜明駅までが69分。乗り換えて、久留米までが49分となっている。
久留米着が8時近くながら時間が余っているので、時間つぶしに途中下車した。それにしても、おのれの体力のなさには愕然とする。階段を上がるたびにハアハア息切れ、50歩歩いてヒィヒィひと休み。なんとまあ情けない体たらくだ。循環器の衰えがいよいよ誤魔化せなくなった。しかしこんなになっても、早々簡単に認めたがらないのが質の悪いジジィたる所以で、歯を食いしばっても「まだまだ」はなかろうとは思うのだが・・・。
駅前は元気がない。ちょっとした広場にデカイ時計があり、8時になって鳩時計形式で人形がゾロゾロ出てきて地酒の宣伝を始めた。曇り空にカラ元気だ。心情として合っている。
駅を出て左側に「うどん そば」の看板があったので喰うことにした。わたしには家の外に出ると食欲が倍増する体質がある。博多ー東京間の新幹線で、駅弁3食をたいらげた実績からすれば3時間前のドンブリ飯はとっくに消化されており、食欲も正当なものだ。誰も訊いていないのにどこか後ろめたい。誰に言い訳しているんだろう。
カウンターが6席の小さな店で、中年夫婦が迎えてくれたが、清潔感があった。そしてここは旨くないとピンときたが、今更出るわけにもいかずゴボ天そばを頼んだ。東京からこちらに来たとき、蕎麦と言っていてもほとんどウドンに近いと感じた。細いウドンに蕎麦色を付けたようで、この時点で蕎麦への期待を捨て去った。出てきたモノはやはりモサモサとねちっこい口当たりで、これだったらよほどカップ蕎麦の方が喰えると思ったが、390円も取られるので我慢して流し込んだ。
駅に戻って、鹿児島本線の基山(きやま)まで15分ほどで着いた。ここから松崎までは私鉄の甘木鉄道になる。これも15分くらいだ。
着いてなお早すぎる時間が気になって、喫茶店で過ごそうと探したが、全くない。駅前には飲食店は一つもなく、タクシーもない。久留米駅前でさへ喫茶店はなかった。ラーメン屋とミスタードーナッツである。松崎駅の写真を見ればどんなところか予想がつくだろう。
会場は国道を渡って一直線の先だった。「近くて遠いは田舎の道」と昔は言ったものだが、久しぶりにそれを実感した。両脇は住宅と畑が混在しており、これといった被写体もない。道に沿って「小郡市 松崎」と看板を付けた街灯が点々とある。その下には企業名や学校名があり、多分道案内の役を果たしているのだろう。これは三井(みい)高校のそれで、確かに近くにその学校が見え、今日文化祭が開かれると案内書にあった。
あとは唯一、花畑らしいもので、葉が落ちた桜木がアクセントになってまあまあの姿になっている。





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小郡をたずねて 1 [2007年10月29日(月) ]


この日は朝5時に起きた。
面倒なので卵かけご飯にしたが、一工夫してみた。ドンブリ飯の上に割った卵を乗せ、小間切れにしたトマトを置き、醤油ではなくウスターソースをかける。あとはガーッとかき回して「ガッガッ」と得意の3分喰いである。メタボ体に良いわけないが、時々無性にしたくなる。
駅から少し離れた駐車場に着いて、まだ暗いなか、日田彦山線下りの始発5時49分を待った。
こんな時間に駅ホームで電車(気動車)を待つなんて久しぶりだ。小郡市松崎の催し物は11時からだが、これに乗らないと間に合わない不便さである。なにしろ3回は乗り換えなくてはならない。それだけでもうんざりするが、これも最近ない乗り方である。
見方によっては奈落の底のような階段を上って降りて、朝露にけぶる中、10分ほど待った。半袖のTシャツにジャケットはちょっと寒い。所在なくカメラをいじくるうち、大分行きの2両編成が着いた。わたしと、登山に行く格好のおばさんの二人だ。
ディーゼルエンジンのタンタンタン・・・とうるさい音は、結構淋しさを紛らわせてくれる。なんとはない寒々しさが懐かしい。
汽車ポッポの時代、車内は薄暗かった。人々の多くの顔も思いつめたように暗く、独特の哀愁がふと蘇って来る。加えて石炭の匂い、汽笛、夜汽車の車窓からポツンと見える農家の灯り・・・。そんな想いに耽っている間に、東の空が白々と明けてきた。窓外が明るくなると気持も楽しくなってくる。
そんなとき、途中の大行事(だいぎょうじ)駅で面白いものを見つけた。黄色ならぬ橙色のハンカチである。黄色のつもりだろうが手許になかったのだろう。単に話題づくりなのかもしれない。どうせなら「ピンクの猿股で世界平和」や「地球を愛してグリーン・バンダナ」と、この地域の独自性を打ち出せば本当の話題になったんじゃないかなと思った。
1回目の乗り換えは「夜明(よあけ)」駅である。左は日田方面で、右が久留米に向かう。久大(きゅうだい)線(久留米の久と大分の大)を走るのが今回の楽しみでもあった。
7,8年ほど前の記憶では、かなり旧い客車が使われ、背もたれは布のクッションがあるとはいえほぼ直角で、路線そのものがのんびりしていた。今はごく普通の気動車(キハ)で、車内も小ぎれいにまとめられ、快適ではあるが味気ないものだった。





Posted at 17:03 | エッセイ | この記事のURL
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Da Capoの休刊など [2007年10月13日(土) ]


雑誌出版の栄枯盛衰は当たり前である。
ジャンルが同じながら種類が多すぎる。読む方は選択肢が増えて、見出しや目次で自分に合ったものが買えるのだが、綺羅星のようにずらりと並んだ同種類を見ると迷うばかりで、つい面倒になって買わず終いも多い。時代からずれたコンセプトを持つもので、意識してそうである場合は面白さがあるが、そうでないものは簡単に消えてしまう。

そんな中、迷わず買っていた「ダ・カーポ」が12月で休刊するという。紙質は良くないが、構成やまとめ方がコンパクトで、コラムの内容も充実していた。値段も大きさも手頃で親しみやすい。インターネットの普及で、情報収集の仕方が変わり、20万部から約8万部まで部数が落ち込んだのが原因と言われる。新聞も同様の競合状態に置かれて、ニュースの伝達そのものを変えざるを得ないらしい。ダ・カーポとは音楽用語で“最初に戻る”という意味らしいが、“初心にかえれ”ということで、いつも新鮮でいたかった想いを含んでいた気がする。

「話の特集」は、いまではもう伝説的な雑誌といってよく、65年から95年の30年間発刊されていた。読者ではあるが、特にオタクでもないし、休刊のニュースを知ったとき、それほど名残惜しいとは思わなかった。
いま思い返せば、青春から壮年期に入る時期、その都度面白い感覚を味わったのは確かだ。ちょうど小劇場が盛んになり、いつもは脇っちょに居たカルチャー達がざわめき始めた頃である。ぴったりの、生まれてしかるべき時に、望んでいた形で目の前に出現した。
編集長の矢崎泰久氏そのものがこの雑誌だが、和田誠氏も当時の新しいスタイルに欠かせない参加者だった。
いつもはポンポン捨てていくわたしだが、これに限って十数冊段ボール箱で保管している。

最近読み出して面白い雑誌に、講談社の「クーリエ・ジャポン」がある。最初は月2回だったが、今は月刊誌になり、落ち着いてきた感じだ。海外メディアと特約を結んで、その時の話題性も含めて各国・地域を動きをうまくまとめている。
以前上京の折、編集長の古賀義章氏と少々立ち話をしたこともあり、その顔がダブって浮かぶこともあることから、愛読している。

時々「文藝春秋」を読むが、これほどスタンスの変わらない月刊誌も珍しい。そこが長寿の秘訣といえようが、あまり面白くないので、買うのは年に数回だ。出だしのコラム欄の筆頭がいつも阿川弘之氏なのも影響している。10月号は、佐藤優氏(起訴休職外務事務官・作家)の「インテリジェンス交渉術4」のサブ『酒は人間の本性を暴く』に惹かれて読んだ。ソ連からロシアに移る際のエリツィンとハズブラートフの確執など、なかなか中身の濃い一種の暴露内容だ。こんなものを見つけて、図書カードがあるときはいろいろ取り混ぜて買っている。

読み物は読む人間があって存在価値がある。価値も時代によって、どんどん変わっていく。「古い」と言われて、捨てられ忘れられていく。洗濯機も同じ。人間も同じ。それが歴史なのだろう、か?

Posted at 05:41 | エッセイ | この記事のURL
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gonjiro日々 [2007年09月22日(土) ]
最近本を読むといっても集中できない。2,3ページ読んではホケーとし、キーを叩いたりテレビを見て、思い出しては読む。寝る前に読むのは永年の癖だが、これも寝付きが良すぎて、開いているのはせいぜい5分。5,6時間はぐっすり寝てしまう。眠いから布団にはいるのに、本を読もうとは踏ん切りの悪い限りだ。後はトイレだが、排泄と平行しているので5分とかからない。それにカミさんが「また持って入って!」と、持ち込んだ雑誌などをその辺に置いておくと、すぐ読み終わった新聞と一緒にされてしまう。トイレの棚には読みかけがいつも3冊はあるが、本棚に戻ることはない運命を思うと、そうそう持ち込みは出来ない。加齢と集中力は反比例らしい。

そんな中で「ふるさとは貧民窟(スラム)なりき」を読み終えた。ルポライター小板橋二郎著(ちくま文庫)による戦中戦後を通して少年時代を過ごした東京板橋区の‘岩の坂’近辺の長屋住人の生活記録である。単なる懐古ともいえるが、残念ながら今では多くが放送禁止語句になっている人たちの、赤裸々で凄まじい貧しさと人間性を感じ取ることが出来る。
なかでも昭和6年に警察が調べた「どん底の人達」として記した一住人のことが、次のように引用されている。
【井戸掘り業 斉藤仙吉 三十九才
   家族数及生活状況概要
右者、家族八名を擁し一ヶ月二十円内外の収入に過ぎず此を以て生活し居れるものにして長女及二女は目下奉公中なるも一銭の収入なし、職業に対しては極めて勤励なるも不景気の影響を受け昨今殆ど仕事なく四畳半の一間に家族を全部起居し居り、残飯食又は豆腐殻、甘藷などを常食とし時々欠食す為に小児の如き甚だしく栄養不良に陥り居りて実に悲惨なる生活をなし居るものとす】
(昭和6年の物価がよく分からないが、10年の統計では、白米10キロ 2.5円。焼酎 1.8g 1.02円となっている)
4.5畳に8人である。今の感覚で判断は出来ないが、空間が貧しいとだけは言える。生活保護などあるわけがなく、貧しいが故の飢えからは様々な生活苦が渦巻き、無学、心身共の病いから貧の連鎖と、よほどの幸運と努力がなければ抜け出せない社会構造になっていたと思う。格差が当たり前で、動かしようのない厳然たる壁が立ちはだかっていた。社会・共産主義にかぶれていなくても、心ある人は嘆いていただろう。
警察官が書いた文面の終わりあたりに、当時の官としては暖かさが感じられる。しかし如何ともし難い現実には手も足も出なかったに違いない。
ふと思い出したことがある。
静岡にいた頃、近くに5人家族が居た。父親は雇われ馬喰(馬を使っての運搬業)で、母娘と男子2人だ。12才だったわたしより3才年上の子とよく遊んだ。家は掘っ建て小屋よりはマシだが、窓ガラスはなく、戸板をつっかえ棒で開けていた。6畳ほどの板の間に1畳の台所と風呂場の土間があり、家に入ると独特のすえた匂いがした。近所から少し離れたところに建っていたせいもあったが、周囲からは敬遠気味に「遊ぶんじゃないよ」と言われていた。その頃から反発ばかりしていたこともあって、ケンケンやらメンコで遊んだものだ。昭和27年であっても、そんなところは結構あった。

【馬車挽業 三村三吉 五十三才
    家族数及生活状況概要
右者、妻以外に五人の家族を擁し先月中の収入二十七円位にして真面目に業務に従事し居れるも不景気の影響を受け昨今仕事なく四円八十銭の家賃を支払ひたる残余の金を以て生計を維持し居れるものなれば時々欠食することあり、残飯或ひは甘藷などを常食となす悲惨なる生活状態にして
小児等は皆栄養不良に陥り居れり】
以上も同じような状況で、多くの世帯が彼らのような生活ぶりだったようだ。

無頼の時代を克明に描いている本だった。

Posted at 14:15 | エッセイ | この記事のURL
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メダカへの想い [2007年09月21日(金) ]


またメダカを飼いだした。
先日実りの田んぼを撮りに行ったとき、巾30センチほどの側溝でメダカどもを見つけた。なかには鮒らしき大きな魚も見えた。群をなしている。これはひょっとしたら網で捕れるんではないかと、少年の心がよみがえり、そのまま100円ショップで昆虫採集用の網と小さなポリバケツを買った。
それを持って帰って、カミさんに「あした、メダカいっぱいつかまえてくるかんな」と意気込むと、冷たく「んなわけ、ない」のひとこと。
そんでもって、昨日「みてろ、往年のタモさばきを」と水路に立った。水がいくぶん減っている。側溝の深さもけっこうあり、日の照り具合で水面が見にくい。温度が下がったせいか獲物も少ない。
「こりゃ、やばいな」と思ったが、ここで引き下がるわけにはいかない。
上流に向けて網を入れ、静かにのぼっていった。3回ほど繰り返したが、網が白いせいか、まったく引っかからない。
どこかの物好きなジジィが昆虫採取用の網でかき回し、よっぽど捕るつもりなのか、不釣り合いに大きいポリバケツをしっかりぶら下げて、子供顔負けに夢中になっている。こんな風景は最近滅多に見られないのだろう。農道を行き来する車は速度を落として、物珍しげに顔を覗いていく。
約30分ほど炎天下でがんばったが、季節外れのメダカ取りは不調に終わった。ゼローそれ以外のなにものでもない。
しかし大口を叩いて出てきた手前、こんなことで帰れるものではない。いろいろ言い訳を考えたが良い策を思いつかない。あれしかない。
釣り人が釣果ゼロのときの家人対策である、古典的な「魚屋さんで仕入れる」方法だ。そこまでしなくても正直にありのままを言えばいいと言う人もいるだろうが、中途半端な人間性といおうか、へんてこな意地が捨てきれない。
この魚屋さん方式は、例えば出来た奥さんだったら分かっていても「アラ、すごいじゃん」とすべてを受け入れてくれるが、うちのカミさんのように鋭い嗅覚と攻撃性で生きているタイプは、完膚無きまでに暴き、「だから無理だっていったじゃないの」と、ひたすら自分の正当性のみをぶっつける。確かに姑息な手段だったに違いないが、亭主の意地ってものを尊重してもいいではないか。
こんなふうに想いを巡らし、近くのペット屋で黒メダカを10尾ほど仕入れて、しらを切るか誤魔化すか、運転しながら判断を決めかねていた。
まだ刈り入れ前の稲穂が重く垂れ下がる農道は、影が濃くなり、盛夏が過ぎたことを告げていたが、温暖化のせいか名残はあちこちに見えた。
メダカ取りには失敗したが、この辺で農薬が使われていない証しとしてメダカ発見はとてもうれしかった。
だからか、「おい、買っちゃった」と正直に先手を打って告げると、カミさんは最初の予測が当たって機嫌がよく、「そう、買っちゃったの」で終わり、七面倒なやりとりをせずに済んだ。
買うときに驚いたのは、黒メダカ以外にもいろいろな種類が居ることだ。ヒメダカは赤っぽく結構一般的だが、他に、青メダカ、白メダカ、茶メダカが居る。ちょっと調べてみた。

【メダカには4つの色素があるそうで、その中の黒色素胞、黄色素胞、白色素胞の3つの色素を持っているかいないかで色が決められるという。
“ホタルメダカ”は、背が光るメダカで、目の縁や腹にある虹色素胞が背中にあるため。背びれのと尾びれの形が普通種と異なり背びれはしりびれと同じ形をし、尾びれはひし形をしている。
”縮みメダカ”は、普通種と比べると脊椎の数が少ない為に縮んでみえる。普通種が水温の高い環境下で突然変異で体が縮んでしまったといわれている。
ヒカリダルマメダカは、上記の特徴を同時に持ち合わせているとても珍しい個体で、風船の様にふくれた体で背の部分がピカピカと光る。
アルビノは、生まれつきメラニン色素のない個体で、目にも色素が含まれていないので、血管が透き通り赤い目にみえる。】

今でもどんどん新しい品種がつくられつつある。金魚は鮒の改良種と言われ、多種多様な形が見られるが、まさかメダカもその類かとびっくりした。わたしゃやっぱり、小川の黒メダカが良い。どこかのバカが改良種を小川に放流しないよう願うばかりだ。個体の純粋を守るのは人間の責任である。
少しは偉そうにしないと、単なるメダカおやじでは格好がつかない。いや、それでいいんだ。
こうやってじっと見ていると、不思議に一尾ずつの違いが分かってくる。雌雄は背びれ腹びれで判断がつく。体ばかりでかくて鈍いやつ、水草の下で哲学者みたいに考え込んで動かないチビ、餌ばかり食い続けている過食症のデブと、群れていても性格の違いがある。こっちの見方に問題があるかも知れないが、それはそれでいい。飽きない。
「お利口さんだね」「バッカだなー」と勝手に楽しんでいる。と言っている間に、メダカたちは檻を抜けて青空へ散っていったようだ。

Posted at 14:05 | エッセイ | この記事のURL
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山田千里で津軽を想う [2007年09月15日(土) ]

「人間は最も激しい孤独感に襲われたとき、最も好色になる」と、坂口安吾は言った。
好色とは生きるために追いつめられて、それを表現するための究極の方法だと思う。
この伝でいけば、津軽三味線の叩き、弾きは生命力の強さを高らかに謳いあげていることになる。

吹雪が道連れながら、そうそう悲愴なものではなく、カンジキを無くして深い雪に足を取られても、行き倒れることなく家の灯りを見つける能力があったのではないだろうか。
搾り出して芸能にまで生きる術として創り上げた太棹の世界は、何と表現していいのか分からないが、評論は抜きにして聴くと、津軽だけに限らない日本人の業の魅力に取り憑かれてしまう。それが、山田千里にある。

久しぶりにレコードのLP盤をいじくっていると、M・デイヴィスや岸洋子などの中に“津軽三味線・津軽恋情曲」というタイトルで、山田千里の演奏を見つけた。タイトル曲の他に、津軽三下り、津軽よされ節、おはら節、あいや節、津軽響奏曲、旧節・中節・新節ー津軽じょんから、津軽たんと節が収録されている。

ジャケットは、瞽女(ごぜ)の絵で著名な斉藤真一氏によるもので、そのシリーズの一枚と思われる。
【1961年(昭和36年)津軽を旅し、初めて瞽女の存在を知り、1965年(昭和40年)より10年を費やし越後に通い瞽女宿をめぐる。その結果が瞽女シリーズとして登場する。1971年(昭和46年)“みさを瞽女の哀しみ・越後瞽女日記より”が第14回安井賞展佳作賞を受賞。また、1973年(昭和48年)随筆、瞽女をテーマに独特の精神世界を描いて、日本エッセイストクラブ賞受賞する。雪深い津軽地方での三味線を弾き語る瞽女さんたちを世に知らしめた斉藤真一。文学と絵画に孤独と情愛の世界を描画名作瞽女シリーズを生む、かれらは美術史上に残る異色の傑作となった。】

人によって冬の津軽のイメージは当然違い、斉藤氏の吹雪に揺れて涙する緋色の瞽女は、曲を聴く限りあまり連想出来ない。
特に「津軽三下り」は、灰色に垂れ下がった雪雲、潮も凍る海沿いの波打つ薄穂、野づらを吹き抜ける中、一組の男女が襟元を押さえ、互いにすがって見えない明日に向かって歩きつづける。視界はモノクロで、イメージが貧弱な私には、心の奥深くが緋色に燃え立っていることがわからない。
ながい冬、凶作、飢え、巡り舞い上がる愛憎ーそんなところで欲しいのは‘人の肌’に違いない。単調にバチを叩きつけ、こまやかに囁く爪弾きが繰り返され、久しぶりに目をつむって音に聴き入った。
本州北端の、いつも圧迫されてきた人々の袋小路に喘いできた心情が、じょっぱり(依怙地)となって、津軽人の誇りとして、個性豊かな狂おしい音色を生み出したと思う。
ただ、そのような風土や現象が希薄になった現代では、音曲としての魅力は残って、若い人たちが次々に新しく取り組みだした。テクニックも素晴らしいものがあるが、どうしても津軽三味線をまとめ上げてきた高橋竹山や木田林松栄、それより前の白川軍八郎ら先達
と比べてしまう。やはり「哀愁」は即席で出来るものではない。新しい解釈が当然生まれ出るが、底を流れる瞽女の怨みや愛をくみ取れるか期待してみていきたい。

Posted at 12:06 | エッセイ | この記事のURL
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#808080 [2007年08月15日(水) ]


13日は例によって納骨堂に迎えに行き、義姉のところに数人集まって食事をした。「迎え」るとは、お参りして自分の身に霊を乗せて連れ帰ることらしい。15日には逆に、仏壇から墓へ連れ帰る「送り」になるという。
その間の14日が、祖先共々楽しむ盆踊りというわけだ。

この辺の盆踊りは気楽で適当だ。
町内の多目的広場に、主催する町内会のおじさんたちがヤグラを建て、周りを紅白の幕で包み、前面と思われるところに盆提灯をぶら下げ、供え物を置く。今までほとんどこういう集まりに参加してこなかったが、昨夜は調子のいい太鼓の音がやけに響いてきたので、のこのこ出かけた。
薄暮の7時半頃から河内音頭や炭坑節、聞いたこともない「360度の唄」、「ドラエモン音頭?」などが次々に大音量で町内に流された。
会場でお会いした元町内会長に、今までの経過を聞くと、昔はひとつの町でそれぞれ盆踊り大会があったそうな。祭りもそうだが、じわじわと少子高齢化の影響や興味が薄れていくこともあって、この地区では一カ所になってしまったらしい。
三々五々、浴衣やジーパン姿で集まり始めた。蚊が結構いて、隣の女の子に「かゆいね」というと、「今かゆみ止めを塗ってきた」と、団扇をパタパタさせながら答えた。
「さあ、始めまーす」のアナウンスを皮切りに、20人ほどが輪をつくって踊り出した。何人かは師匠らしく、率先して見本を見せ、周りはそれに倣って手足を動かし出した。次第に人数が増え、それこそ老若男女が加わり、子供たちも嬉しそうに間違えていた。
わたしはもっぱらパチパチとシャッターを押し、片手で蚊を追い、1時間ほど楽しんで帰った。

‘盆’について、あれこれ言うことはない。何故か不思議な現象で、夏真っ盛りの八月、人は13日,14日,15日と家族縁者が集い、先祖の供養をするという他に、倭の人間として生まれながらに備わっている理屈なしの‘あわれみ’の心が、フワフワと遠くから漂う感じがする。ヤグラを取り巻いて賑々しいなかに、なにがしかの霊の流れがあるのかも知れない。それが人を和ませ、日本の夏を醸し出しているようだ。





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ウナギがニョロッと逃げていく [2007年07月28日(土) ]
夏は食欲が無くなると人はよく言うが、見ていると最近はそれほどでもない。なんやかや言いながらパクツイている。ダイエットを試みている人には残念だが、「夏痩せ」は死語になっているのではないか。

昔はエアコンも冷蔵庫もなかった。すだれや打ち水、風鈴などで少しでも冷気を得ようとしてきたが、所詮は気休めで、酷暑の中での生活はかなりきびしかっただろう。
こんなことを言うと、さもわたしが若いように見られてしまうが、昭和15年生まれの暑さで食欲をなくした経験者なので、よく分かるのだ。

夏ばてに栄養と、そんなときにお決まりなのが、土用丑の日のウナギである。土用とは、季節の終わりの18〜19日間をいい、春夏秋冬に4回あるのだが、一般には夏の土用を指す。この夏の土用の期間中、十二支が丑の日を「土用の丑の日」と言うんだそうで、今年は7月30日と相成った。
昨日買い物に引っぱり出されてスーパーへ行ったが、食堂もコンビニの店頭でも「鰻の蒲焼」や「うな重」の文字が舞い踊っていた。
この、「土用丑の日に鰻を食べる」習慣については、平賀源内が考えついたらしい。
江戸時代、夏場に商売がうまくいかない鰻屋に相談された源内が、「丑の日に『う』の字がつく物を食べると夏負けしない」という言い伝えをヒントに、「本日丑の日」と店頭に貼りだしたところ大繁盛。それが行き渡って、いつしか土用の丑の日に鰻を食べる風習が
定着したートトントンと講談調。こういうマコトシヤカは大歓迎だ。なんでもちょっと理屈が付いていれば有難味も増し、ただ「喰いてー」だけの心情では動物と同じである。実際、鰻にはビタミンB、D、Eの他にミネラル分、カルシウム、亜鉛、鉄などがたっぷり。本当に理にかなった夏の食い物だ。
いや、本当はそんなことどうでもいい。先ずは旨い!好きだ!喰いたい!これに尽きる。
そんな中で、またまた中国のお出ましである。
【安さより「高価な安心」、中国産ウナギが品質不安で不振 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
DATE:2007/07/28 04:32
URL:http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070727i3w2.htm

残念ながら、安くて旨ければ良くて、安全を忘れがちなわたしでも、様々なインチキやいい加減さがこれだけ噴き出てくると、中国人そのものに不信感を抱いてしまう。カミさんなんぞは、「これ安い」と手にとって中国と表示してあるとポイと元に戻す。
出来たものだけに限らない。ほとんどの原材料のうち、中国からの輸入もかなりあるはずだ。それを使って日本で生産すれば国産になる。一世を風靡したミンチホープ(実態はホープレスだった)の感覚だ。鶏だろうが兎だろうが鼠や犬猫だろうが、混ぜくって「牛肉ミンチ」と貼ればそれは牛肉ミンチなのだ。肉屋の店頭で、目の前で挽肉にしてもらわなければ信用できない風潮をつくったあの社長の罪は重いが、「なんでも疑えよ」と、消費者の目を覚ましてくれた。いまだに「アー、失敗した」と思いこそすれ、反省はしていなさそうな顔付きには腹が立つが、多かれ少なかれ加工者の心理の一端を知らしめてくれた。
ましてや他国へ輸出するものとくれば、推して知るべしである。

ああ、どうしよう。今日も心が揺れ動く。国産は高いから買ってくれないし、中国製は気持ちを萎えさせるし、喰いたいし、こんな時哲学はどのように解決するのだろう。
「無いものは無い。在るものも無い。故に無いものを在るものとしてあらしめよ」
ン!解決した。
丼に飯をテンコ盛り。その上に三匹の缶詰のサンマを置き、蒲焼きのタレをたっぷりかけるのだ。山椒の粉をちょっぴり振って、ガッガッと掻き込めば’&%$#”=・’・・・。

Posted at 07:54 | エッセイ | この記事のURL
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立ち話 [2007年07月18日(水) ]



他人の立ち話は面白い。といっても内容ではない。その佇まいである。何気ない日常のどうでもいいコンタクトは楽しげだ。二人だったら受け答えでおよその力関係は分かる。親密度や、時として前回会ってからどれくらい経っているかも想像できる。女性同士の仕草ーお辞儀の角度や姿勢と、加えて相手に触れる仕草を観察していれば尚更だ。特に肩を叩く動作は女性に特有で、親しみの他に妬みや憎しみを巧みに隠している場合もあるようだ。テレビドラマではまるで中年女性の特徴のように使っているが、これはいささか常套に過ぎる。もっともっと繊細なのだ。
4,5人になるといよいよ面白いが、想像をはるかに超える。難しくなる。こういうときは良くしたもので、ちゃんと聴き手に徹する人が居る。しゃべる合間に器用に返事を織り込み、人より多く情報発信を試みる中で、にこやかに「そうですねー」と相づちを打つ女性は、何故か賢そうだ。ただそれが本当に納得したうなずきなのか、(しょうがないなー)なのか(バッカじゃないの)なのか、心中を見せない賢さにもつながるようだ。
スーパーなどの店内で、知人とばったり会うカミさんの態度を見ていると、空恐ろしくなることがある。
「アラ、久しぶり」
「ホント、元気?」
と、互いに顔付きは微笑んでいる、かのように少なくとも見える。数分後別れて言うには渋い顔で「会いたくない人に会ってしまった」である。男にもこういう場面はあるが、だいたいは知らん顔をしてすれ違う。向こうも何故かそう思っていると確信できる。無駄なことはしない。どちらが礼儀に叶っているのだろう。
わたしの立ち話相手は本当に少なくなった。先ず車での移動が多い。住んでいる周辺は急な坂が多いので、足の悪い者にとっては気楽な散歩とはいえない。

休日の午前、生ぬるい曇天の舗道を珍しく歩いていたとき、近所の人と顔が合い、
「立ち話もなんですから、お茶でもどうぞ」
と誘われたが、家に上がっていいものかどうか、この辺の機微が結構難しい。間柄はお茶をご馳走になるほどではないし、ここは、
「ありがとうございます。ちょっと野暮用がありますんで」
と、失礼した。わたしは立ち話にも変な小理屈を付けるいやなおやじになっていた。

Posted at 07:53 | エッセイ | この記事のURL
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マリナーズの今シーズン [2007年07月12日(木) ]
シーズン前半が終わって、トップのエンジェルスに2.5ゲーム差と迫っている。
入団した2001年にはア・リーグ西地区優勝だが、以後、3,2,4、4、4位と、下位が定着してしまった。特にピネラからハーグローブに監督が移ってからが悪い。彼の采配は着任後から納得できないことが多かった。最たるものは、セクソンの処遇である。ナ・リーグのあるチームで一緒だったらしく、師弟関係として親密な間柄だったらしい。セクソンが打率1割台で三振がリーグ2位でも4番打者で使い続け、流れが途切れてしまう試合が数多くあった。シーズンの終わり近くになってホームランも出るようになったが、この時期にいくらホームランを打ってもはい上がることは出来ない。人柄は悪くないが、アウトロー、インハイに弱い穴だらけの打撃姿勢にはうんざりしていた。
また悲運というべきか、ベルトレイの調子も上がらず、なにをおいても投手陣が滅茶苦茶だった。今シーズンも必ずしも良いとは言えない。
昨日クローザーとして投げたJ.J.プッツはリーグトップクラスのセーブ率で、セットアッパーといわれる中継ぎ陣も調子がいい。ただ先発が不安定で、ヘルナンデス、ワシュバーンはまあまあだが、バティスタ、白嗟承はいまいちだ。出だしが悪かったウィーバーはかなり調子をあげているので楽しみ。 このマイナス面を今シーズンは打撃でカバーできているところに、地区優勝またはワイルドカードの可能性がある。
ハーグローブが辞任し、ベンチコーチのマクラレンが代わりを勤めているが、どのような指揮をするか見ものだ。セクソンは連続して先発には加わらなくなった。打席も7,8番あたりで気楽に打たせた方がいい。
捕手の城島健司は2年目にして早くも信頼を勝ち得ているし、プッツも育てあげたといっていい。打撃も好調だ。DHのホセ・ビドロ、二塁のホセ・ロペス、遊撃のユニエスキー・ベタンコートは攻守ともに少しむらがあるが、そこそこ活躍している。右翼のホセ・ギーエンは喧嘩っ早いが最近特に打撃好調で、頼りになるウィリー・ブルームキストはどこでも守れる。ベン・ブローサードはセクソンの代わりになりつつあり、ラウル・イバネス、エイドリアン・ベルトレ、イチローはまさに中核である。 打率リーグ2位は伊達ではない。
13日から中地区トップのタイガースを皮切りに後半戦が始まる。

写真は、イチローとイバネス

Posted at 09:44 | エッセイ | この記事のURL
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