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韓ドラに感じたこと [2008年03月22日(土) ]
韓国ドラマ「朱蒙(チュモン)」シリーズ21本を見終わった。これでもまだ続く。
現代恋愛ものはともかく、歴史物語は勉強になる。
古朝鮮(こちょうせん、コジョソン)とは、漢王朝武帝による漢四郡設置(紀元前108年)以前の古代朝鮮国家の総称ということを初めて知った。
【建国神話
『三国史記』によれば、高句麗は紀元前37年に朱蒙(チュモン)により建てられたとされる。朱蒙の母は河の神の娘で天帝の子と出会って結ばれるが、父の怒りを買って東扶余王の金蛙の所へ送られた。やがて娘は太陽の光を浴びて身篭り、卵を産んだ。この卵を金蛙は動物に食べさせようとしたが動物はこの卵を守り、卵から朱蒙が産まれる。朱蒙は生まれた時から非常に弓が上手く(朱蒙と言うのは弓の名手のこと)、これに嫉妬した金蛙の息子たちは朱蒙を殺そうとするが、朱蒙は母の助言でいち早く脱出して卒本州に至り、ここで高句麗を建てたという。広開土王碑にもほぼ同じ内容が書かれている。
朱蒙が建国したとされる卒本の地は現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県(吉林省との省境近くの鴨緑江の少し北)に当たり、都城の卒本城は五女山山城に比定される。しかし建国後まもなく、西暦3年には第2代の瑠璃明王が鴨緑江岸の丸都城(尉那巌城)へ遷都した、と伝えられる。高句麗の本拠地が実質的に丸都城への移動した時期については2世紀末から3世紀初めにかけてのころだと見られている。
* 丸都城時期
丸都城は吉林省集安市(かつての玄菟郡配下の高句麗県)の山城である。その後、山を下りて平地の国内城に王宮を構えたが、山城の丸都城と平城の国内城とは一体のものであり、こうした山城と平城(居城)との組み合わせは、朝鮮半島における城のあり方として普遍的なものとなっていった。国内城については最近の考古学的研究により、3世紀初めの築造と見られている。高句麗は次第に四方に勢力を延ばし、とくに遼東方面への進出に積極的であり、玄菟郡をさらに西に追いやった。後漢の統制力が黄巾の乱により弛緩すると、遼東には公孫氏が自立するようになり、高句麗と対立した。197年に第9代の故国川王が死んだ後、王位継承をめぐって発岐と延優(後の10代山上王)との間に争いが起こり、卒本に拠った発岐は公孫度を頼って延優と対立したが、丸都城に拠った延優が王となって発岐の勢力を併呑した。
公孫氏が魏の司馬懿に滅ぼされた後は、魏と国境を接して対立するようになり、魏の将軍?丘倹により246年に首都を陥落させられた。東川王は東に逃れ、魏軍が引き上げた後に首都を再興した。このときに築城された都を平壌城というが、丸都城の別名または集安市付近の域名と考えられており、後の平壌城とは別のものである。】

今のところ、王子朱蒙は、これから新しい国を創るべく流民を率いて居城だった扶余(ぷよ)を出たところだ。先は長い。
高句麗は紀元前37年頃生まれた扶余系民族による国家であり、最盛期は中国東北部(満州)から朝鮮半島の大部分を領土としたとある。半島南西部の百済、南東部の新羅とともに朝鮮半島における三国時代を形成。隋煬帝、唐太宗による遠征を何度も撃退した。しかし唐と新羅の連合軍により滅ぼされるのだが、普段は知り得ない隣国の盛衰は興味が尽きない。

朝鮮語の語尾に聞かれる上がり下がりが、日本海側の地域で結構聞くことが出来る。直接聞いた記憶もあるが、NHK朝ドラ「ちりとてちん」でよく聞き取れる。日本海に面した福井の若狭に住んでいる一家周辺の会話では、やはり語尾に独特の抑揚が使われている。なんらかの影響を受けているのは間違いなかろう。東アジアは仲が良かろうが悪かろうが、そういう間柄ということだ。

Posted at 17:58 | 日記 | この記事のURL
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似非演歌だー [2008年03月21日(金) ]


赤提灯が くだを巻く

酔ってこぼした 酒を拭き
白い小指に 重ね涙が こぼれてしずく
なぜ泣くと 訊いてはみたけど
湯気の向こうに 佇んで
消えるおまえの 忍ぶ声

路地をめぐって すきま風
心に吹いた 悲しい風が
燗酒冷まして 暖簾を揺らし
ああ 
あんたを想って あんたを恋して
紅い提灯 ゆらりと泣いた

仕事帰りの 疲れた肩が
嘘でもいいから 言って欲しいと
ぬくもる‘あんた’と かける声
屋根の間に のぞいた月に
そうよあたしの そうよあたしの
想い雲が 雨を降らせるの

Posted at 18:53 | 日記 | この記事のURL
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御田植え祭り [2008年03月17日(月) ]


弥生の空は晴れわたっていた。
やっぱり曇や雨より、お天気が良いとなにはなくとも晴れ晴れしてくる。
晴れといえば田んぼ、田んぼといえば田植えという、あまり共通項のない発想が芽生えてしまう。瑞穂の生まれの証拠ではないかと一人思うのだが、「青空のもと、里山にうっすらとたなびく白い雲を映して、田の水はさざめき・・・」などと簡単に描くことが出来る
のは日本人しか居まい。
生産調整で田んぼをどんどん減らして、あるべき姿を削り取っていく能なし農政しかできない役人には、絶対イメージできない風景である。

農耕が源の民族という象徴だろうか。3−5月の日本各地では、米の豊作を祈っての神事“田植祭り”が行われる。規模、中身のバラツキはあるが、張りぼての牛が出てきたり子供たちが仮装して笑わせたり、早乙女の田植えで縁ある儀式が見られる心根はまだまだある。
隣の大分県安岐町では、諸田御田植祭が諸田山神社で毎年3月の「春分の日」に催される。境内の広場に仮の神殿を設け、神事の祝詞をあげた後、弓を放つ儀式、あぜ作りから苗取りまでの農作業を、面白ろおかしい舞いにして楽しむと聞いている。もう170年も続いている。
「御田植え祭」「大花田植え」「田楽」「田遊び」「虫送り」と呼び名は違うが、田植え・農耕にまつわる行事として魅力のある名前ばかりである。

コミュニティが崩れつつある今、荒れ寺に続いて、手入れされず草ぼうぼうの境内や傾いた石塔という神社が増えて来つつある。更地にしないのは、いずれ元の姿に戻す気持があるのだろうが、現状は情けないというより哀れを感じる。
先日訪れた金村(かなむら)神社は、そんな荒れ神社から数百メートルしか離れていない、同じ糸田町にある。特に謂われはないので、鎮守神が祀られていると思っていいのかも知れない。鎮守とは字面から一定の地域を守ることで、わたしのような不信心な人間でも賽銭を投げ入れて柏手を打ち、気楽に願い事が出来る場所だ。この頃は氏神や産土(うぶすな)神と分けられないものも増えていると聞く。神道などといわなくても、この神社を中心に、祭りや行事を通して地縁の結びつきを強くする役割もある。なにも「蛇の神」「馬の神」「鮭の神」のように特化しなくても安らぎの場で良い。ここには朽ちたご神木が保護されていて、子供の遊び場にもなっている。飾り立てて崇め奉るより、この大らかさが日本の昔のような気がする。森はないが‘村の鎮守さま’の暖かい目を感じる。

この際とばかりに境内を走りまわる子供たちの歓声を久しぶりに聞いた。男の子の中には、あまりにも暴れすぎて社殿の前で怒鳴りつけられたりしていたが、大人の適度なたしなめもまた良い。それらを囲むように腰掛ける場所を上手に見つけて、ジジババや親は日陰から見守っている。ネットやテレビに侵された頭には、自分が忘れていた風景が生々しく感じられ、三月吉日の風がさわやかだった。

4時頃から境内の真ん中で、お楽しみの御田植え祭事が始まった。町役場や町内有志の面々が、面白可笑しいメイクでお百姓さんスタイルで装い、大げさな動きとのんびり口調で田をならしたり草取り仕草を始めた。しばらくして女装した女房役の大男が昼飯を持って出てくると、まわりは大笑い。「ちょっとオシッコ」と言うと、亭主は「そこいらの草むらでしてこい」と答える。妊娠中の女房は大きな腹を抱えながら観客の前で着物をはしょり、中腰で立ちションの真似だ。終わって手で拭う動作でまた大笑い。少々えげつないとはいえ、昔はこれも自然な日常の一端に過ぎなかったと思えば、今の洗浄付トイレなどちゃんちゃらおかしい。それより、ここぞとばかりに頑張って股ぐらを必死に撮っている町役場の広報係の格好が、今どきを象徴していて面白かった。スパッツを穿いているので期待通りにはいかなかったと思うが・・・。
やがて張りぼての牛が出てきて田を梳き始めた。中に牛の足が2人入り、一人が口輪を取って誘導する。時々観客の輪を突き破ったり寝転がったりして笑いをつくり出す。晴れわたった空は底抜けに青かった。





Posted at 08:56 | 日記 | この記事のURL
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金村神社 [2008年03月13日(木) ]


好天に誘われて、土曜日の下見に出かけた。
3月15日(土)、田川郡糸田町で行われる田植祭のためだ。
場所と駐車の可否は確認できた。団地が近く、結構ごちゃごちゃしたところだが、まわりは田んぼで、のんびりしている。
境内には、寒桜と思われるやわらかな花びらが匂っていた。



【田植祭(無形民俗文化財)
 田植祭は毎年3月15日に、上糸田・中糸田・下糸田地区全体の祭りとして金村神社で行われている。毎年春の農業の出発として、その年の豊作を祈る春祭りである。祭りは祭典が午後3時半頃から行われ参列者は金村神社の神社総代や世話役・田植行事・田植舞の出演者である。祭りの経緯はまず神官が五穀豊穣の祝詞を奏上しそれが終わるとしばらく直会があって模擬農耕行事となる。田植えまでの演技は、草刈り・溝さらえ・畦ぬり・身持ち女の昼まもち・牛を使っての代掻きの順で行われる。その後小学生による、田植舞が奉納され最後に田植えが行われる。
この田植祭を行う、田植保存会は保持団体として平成8年12月27日に町指定文化財第3号に認定されました。】



Posted at 18:02 | 日記 | この記事のURL
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新装電車 [2008年03月10日(月) ]


人と同じように、生活する上で電車は欠かせなかった。東京では主に山手線や中央線、京浜東北線、西武新宿線、東横線などに加えて、都電とにトロリーバスにもお世話になった。通勤では地下鉄が多く、いまから思えば、それにつれてよく歩きもした。
静岡市に住んでいる頃、東京へよく遊びに行った。中学時代だから昭和27,8年頃だ。この頃は国電といわれていて、車体はチョコレート色だったように記憶している。
それ以後、【1961年 101系を投入。車体色はカナリア・イエロー。1963年 103系を投入。車体色をウグイスに変更】と、記録にある。
国鉄時代の武骨で実用一点張りも懐かしい。日本の風景もそれに似て、先ずは「メシを喰う=人を運搬する」図式になろうか。

田舎に住み続けるには車は無くてはならないが、時々電車のガッタンゴットンが無性に懐かしくなる。それとリークするような催し物があった。
ポスターにある平成筑豊鉄道の新車両公開である。あまり興味が湧かないが、暇に任せて電車に乗り会場の金田駅へ出かけた。今日に限り全線一回100円というサービス振りだ。式典が始まるのは9時半過ぎだったが、その前に写真だけ撮って、とっとと退散した。今朝の朝刊には、麻生県知事や沿線首長が出席していた。やはり延々とあいさつがあったに違いない。地元高校のブラスバンド演奏および地産の食べ物屋さんがテントを張っていた。何故かかの有名な佐世保バーガーのバンも来ていた。
レンガ色車輌の愛称は“へいちく浪漫号”に決まったらしい。布がかぶっているところにそれを記すプレートがあった。  
電車電車と呼んでいるが、キハの表示通りの気動車(ディーゼル車)である。国鉄からJRに変わって後、第3セクターとして生き残り、セメント運搬の貨物収入が絶たれてからも、様々な工夫で地元民の足として頑張っている。





Posted at 08:29 | 日記 | この記事のURL
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うるう年 [2008年03月01日(土) ]


公園の梅がもうしぼみ始めた。紅梅にその傾向がある。桜のつぼみはまだまだ固く閉ざしている。
陰暦で二月のことを「如月(きさらぎ)」というが、諸説ある語源の中で都合のいい【草木の芽が張り出す月で、「草木張り月(くさきはりづき)」が転じたとする説】を採りたい。
○第九十号(明治三十一年五月十一日)(勅令)
「朕閏年ニ関スル件ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム
神武天皇即位紀元年数ノ四ヲ以テ整除シ得へキ年ヲ閏年トス但シ紀元年数ヨリ六百六十ヲ滅シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス」
うるう年を制定した明治政府の勅令である。660を引いて100をどうとかして、なおかつ24もどうとかして帳尻を合わせる話らしい。算数にトコトン弱いのでよく分からないが、今年の2月29日は2005,2006,2007年及び2008年を加えた4年分の時間不足を補う年ということか。

ユリウス暦からグレゴリオ暦となり、その不備を補うために現在の太陽暦になったという経緯がある。太陽暦とは、“1年を太陽の動きに合わせ365日とする。実際には太陽の周期は、約365.2422日なので、これを調整したのがうるう年である”。

これにともなって、うるう年に生まれた人はどうなるんだろうという疑問を、いつも2月29日に抱いてきた。
「年齢計算に関する法律」を見つけた。それによると、年齢の数え方は『誕生日の前日に満年齢に達する』と決められている。2月29日生まれの人は2月28日に年齢が加算されるのだ。単純に4年に1回しか年を取らないのではない事が分かってホッとしたわたしだが、それでは誕生パーティはどうなるのだと、馬鹿げた悩みをつい持ってしまう。

なんにせよ時間という見えないモノを見えるようにした人間最大の叡知が暦といえる。アステカの太陽の暦石等に見られるように、人々は太陽の動き、月の満ち欠け、四季などの観察から試行錯誤を重ねて、現在の精巧な時間の管理を有効にしたのだ。その集大成が『うるう年』といえる。ここまで細かく計算しなくてもいいのにと、いい加減な人間として思うのだが、ついでに自分の人生をうるう年と重ねて、その加減を想ってみるのも楽しいのではないか。わたしの場合は足りないモノばかりだから、4年に1回の調整では効かない。毎年100日ばかり足してもらえるとなんとか帳尻が合うかも知れない。だから言うわけではないが、閏年を「潤年」にして、2月29日を潤いのある日にしたかったが、変わらないダラダラ24時間になってしまった。4年に1度の366日を持つ今年を、まだ遅くはなかろうと大切に思うことにした。

もうひとつ気になるのが月末の「みそか」だ。昔、江戸の商人が毎月月末に縁起物としてそばを食べていたということで、日本麺業団体連合会が月末を「そばの日」にしている。30日でも31日でもなく、その月の最終日を当てている。なるほど、だから年末の大みそかにも年越しそばを食べるということに繋がるのか。
でも、全国味噌工業協同組合連合会は毎月30日をみそか=三十にかけて「みその日」にしている。ここは頑固に〈30日〉に固定しているそうで、残念ながら2月は味噌の日はない。語呂合わせも味噌ッ滓(みそっかす)扱いしないで頑固さを持ってすれば、位置づけがしっかりする。

2/29 ニンニクの日、フフク(不服)の日、ツッツク(突っつく)の日、フニク(腐肉)の日
ああ、わたしの乏しい頭では、こんな日しかつくれない。

Posted at 07:51 | 日記 | この記事のURL
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歯抜けのロマンス、わたしの。 [2008年02月28日(木) ]
歯が抜けた。というより、朽ち果てて折れてしまった。10年以上も前、痛くなって近くのは医者へ行ったとき、神経を抜かれた。あとで知ったのだが、あまり良いことではないらしい。加えて、傷みが止まったのをいいことに、面倒くさいので通院をやめてしまった。だから、自分にも半分は責任があるから仕方がないとして、2年ほど前からその歯のまわりが変色してきた。昨日の朝、やけにぐらつくので指でちょっと押すと、ポッキリである。

歯にロマンスはないように思える。食べる行為自体が排泄、生殖と連なった“生きる=生存”条件の一つだからだ。
ラーメンを喰ってメンマをくっつけたたあとのキス、納豆を掻き込んで口をネバネバさせながら愛を語るなどありえないだろう。エネルギー補給という聖なる行為ゆえに、「喰いたい、腹を満たしたい」欲望以外は、入り込む余地はない。少なくとも30分以上経たなければ「さてと」と次の段階に進めないようだ。それもきれいな歯並びと白さがあってこそで、見つめ合ってニッコリ微笑みあうとすれば次第に顔を寄せ合うことになる。歯抜け、特に前歯の一本でもなかったら、どうも様にならない。見た目もそうだが、舌のおさまりが悪い。先端が隙間から出たがる。サ行の発音がしにくい。唾がきれいに遠くへ飛ばせない。

中心から二番目の歯だから微妙にずれているから、口を大きく開けなければ全部は見えないが、下あごを突き出す志村けんさんの「アイーン」をやると、もろに“歯抜けじじぃ”がばれてしまう。外見のことは歯牙?にもかけない。
それより、せっかく空きが出来たのだから、なにかに使えまいかと、口惜しさ半分ながら考えた。ただ「抜けちゃったよ」と見せるだけでは芸がない。鏡で見ると、本当にいよいよ間抜け面だ。

“間が抜けて 
   ついでに歯も抜け 爺となる”

貧乏性なのか隙間があると埋めたくなる。なにをはめ込んだら有効利用できるか、かなり考えた。これ自体、暇を持て余す所業でみっともないのだが、本当に考えたのだ。
そうだ、タバコだ。こんなことを書いたらまたぞろ禁煙信奉者からクレームが付くだろうが、抜け歯のみっともなさに嘆いている人には朗報だ。
タバコのホルダーである。隙間にフィルター部分を入れるとピッタリ!両手が空くのでキーを打つにもハンドルをさばくにも便利で安全だ。これでデッドスペースの一つが生き返った。と思ったが、残念ながら最近はタバコを吸わない。カミさんの意見をと訊くと、
「相変わらず貧弱な発想ね。なによりも口の中がいつも煙りだらけじゃない。歯が真っ黒になって吐く息も毒ガス級」と指摘された。
でも、なにか、きっと、歯医者へ行かずにまわりを納得させる活かし方があるはずだ。当分はこのテーマを追求するとしよう。

*写真は食事前には見ないように(食事中も後もかな)。
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Posted at 08:38 | 日記 | この記事のURL
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豊岡を訪ねて 3 〈目的1〉 [2008年02月21日(木) ]


雪の峠を越す。除雪が自慢と、迎えの人は得意気だ。時間が昼ということもあり、積雪量からすれば確かに走りがスムースだ。
駅から車で30分走ったところで、会場の但東市民センターホールに着いた。
案内された控え室には、受賞者5人のうち、わたしを含む4人が揃った。一人欠席らしい。

【第5回 東井義雄賞「いのちのことば」概要
http://www.city.toyooka.lg.jp/www/toppage/0000000000000/APM03000.html

【2月16日、第5回 東井義雄賞「いのちのことば」の入賞作品発表会・記念シンポジウムを但東市民センター市民ホールで開催しました。
 この賞は、いのちの教育を探求し続けた日本を代表する教育者・東井義雄さん(但東町佐々木出身)の遺徳を顕彰し、その理念を後世に伝えるために創設したものです。
 今回は、「悩んでいた私にスイッチを入れて目覚めさせてくれた先生のあの一言」をテーマに募集したところ、全国各地から902編の応募作品を応募いただきました。
 入賞作品発表会当日は、最優秀作品の東井義雄賞5編を含む入賞作品100編(秀作10編、特別賞10編、佳作75編)を発表し、対象者に中貝市長から賞状や記念品などを贈りました。
 また、式典終了後には、記念シンポジウムとして、高橋小学校3・4年生の児童によるオオサンショウウオ保護活動の取組み発表や、「東井義雄の心を受け継いで」と題したパネルディスカッションが行われました。】

東井義雄氏については、
http://www3.city.toyooka.lg.jp/toui-kinenkan/index.html

彼を紹介する人は、よく「日本のペスタロッチ」と言う。素晴らしい教育者という意味を伝えたいのだろうが、この「日本の」は好きではない。もし言いたいなら「ペスタロッチ同様」にするべきだ。
二人とも、先ずは子供ありきという教育者として当然の教育論をまっとうし打ち立てた人である。また、宗教心に則った慈愛に満ちていた。
特に東井氏は言葉ではなく、身を以て率先した行動で子供たちに道徳心を教えたといわれる。自ら校庭のゴミ拾いをし、自分からあいさつし、日々子供の良き見本を示したのである。詩や考えをおさめた著書も多く出版されている。
『彼の詩を集めたページ』
URL:http://www005.upp.so-net.ne.jp/nijikei/toi-sensei/t-shi10sen.htm

今回のことで、わたしが最も印象深かったのは、このような山深く鄙びたところで、真摯に教育と向かい合った氏の生きる姿勢である。教育の場の荒廃がいわれる今、東井氏を師と崇める多くの先生方の活躍が救いとなればと期待したい。

昔話題にのぼった先生を思い出してみた。
ラジオドラマ「三太物語」の花荻先生は架空ではあるが、印象に残っている。
「おらぁ三太だ。おらぁの村には……」で始まるこの連続ドラマは30分の週一回。 舞台は相模川上流の田舎の小学校で、主人公の三太をはじめ、同級の花子、花荻先生、オトさんや留さんたちが日々繰り広げるコメディックな放送劇だ。この後テレビや映画にもなった。
壺井栄・作「二十四の瞳」の大石先生は映画化され、全国に広まった。
文集「山びこ学校」を生んだ無着成恭先生は実在した人物である。映画化の際、村の貧しさを世間に示したということで追放されてもいる。独特の東北弁がまだ頭に残っている。
虚実が混じっているが、どの先生も子供への暖かさがベースになっている。

わたしの“先生”を思い浮かべていた。
先ずは小学校だが、戦後のどさくさと父の転勤が重なって、4回転校している。印象に残っているのは、二部学級(午前午後に分かれて授業)のスシヅメ教室と意味なく生徒をぶっ飛ばす荒れた教師、静岡へ引っ越したとき優しく接してくれた若い女先生と担任になった40過ぎの謹厳実直のみの女先生。中学1年担任の自殺した若い男先生と、2,3年と受け持ちになった新任の小沢和子先生。高校時の担任は生徒の就職のために走りまわっていたので、ほとんど記憶がない。
小沢先生とは、年賀状だけではあるがやりとりがあり、年一回の同級会にも出席されていると聞く。読む書く聴くの基本をていねいに教えて下さった。涙も流して下さった。悪い生徒としていまだに先生の中に「心配ばかりかけて」という想いが無くならないようで、どうにも頭が上がらない。
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このあと、地元の小学生たちの発表会があった。オオサンショウウオの生態と河の現状など、かなり詳しい報告があった。壇上に15名の生徒が並び、入れ替わり立ち替わりスライドに沿って説明していく。そのローテーションの計算がしっかりされており、誰一人間違うことなく、立ったり座ったりとよどみのなさは練習をいっぱいした成果だ。大きな声、のんびり声、あわて声と、個々の性格もにじみ出ていて、とても楽しかった。
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比べて、シンポジウムは残念ながら眠かった。専門家や現場の先生6名が東井先生に関して討議されたが、興味のある人には有意義な内容だったに違いない。小一時間続いたあとの質疑応答で、聴衆のひとりが淡々と先生への思いを話し始めた。途中で司会者が止めたが、正直彼の話は実感がこもり、具体的で、もっと聴きたかったほどだ。

というわけで、ここへ来た一つ目の目的が終わったので、雪の中、隣町の出石にあるコウノトリ・グランドホテルまで送ってもらった。



Posted at 09:43 | 日記 | この記事のURL
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連想 [2008年02月11日(月) ]
連想
この頃わたしの脳内に、ちょっとした異変が起きている。
瞬間的に記憶が途切れるのだ。
外出は目的地があるから出かけるのだが、車に乗って三叉路に行きかかる前に、「ハテ、どこへ行くんだっけ?」と、数秒間、頭が真っ白になり、進路をためらってしまう。自分の用事で自分だけだったらこういうことはない。カミさんの買い物に付き合って、彼女が横に座っているときが多い。他人事のように行き先をいい加減に聞いていたことが原因なのかも知れないが、ちょっと不気味である。
脳の中がジグゾーパズルだとしたら、ピースがどんどん抜け落ちていく感じで、「年をとったから」で済ますには恐いマダラ現象だ。

昨日20年ぶりにナンチャンに会った。南という名前だが社内の通称がナンチャンである。
広いスーパーのレジを抜けたところに、製氷機がある。冷凍物を買った客が家まで保冷するための氷を溜めている。その説明メモを熱心に読んでいた。
確かわたしより年下だから、60を過ぎた年令になる。ジャージー姿に上っ張りを羽織り、見た目でも生気が欠ける様子だ。
声をかけると、一瞬いぶかりながらも「ひさしぶり」と応えてきた。目が異様に老いている感じで、前歯も抜け落ち、頭の前あたりにモジャと髪は残っているが、全体に存在感の薄さが増していた。訊くと、糖尿を患って7年になると言う。早めに症状が見つかったので、これという後遺症もなく通院で済んでいるらしい。
それに比べたら、おれはまだイケルかな。こんないやらしい優越感をつい持ってしまった。こういう心情が嫌いなくせにと自己嫌悪に陥りながら別れた。
体格のいい奥さんは今、宅配の仕事をしていると言っていた。以前何回か会っているが、頑張り屋で人の良い、アチャコに顔立ちの似た人だった。

そういえば、昔から何故「アチャコ」と名乗るようになったのか気になっていた。
花菱アチャコという漫才師は1974年逝去だからそう遠い事ではない。
本名は変哲のない‘藤木徳郎’で、寺の小僧や材木屋の丁稚などを経て、山田五十鈴の父の一座に入ったのが漫才への第一歩になったらしい。
わたしがよく聞いたのはラジオで、「お父さんはお人好し」だったか。浪花千栄子が妻役で、賑やかなドラマだった。
たしか、15人家族だったと思う。それも、戦後の個人主義のはしりのようなバラバラの家庭だが、貧乏生活の中、なんとか家長としてまとめていく主人公‘藤本阿茶太郎’の悲喜こもごもを描いたものだ。
このオッサンは支離滅裂の八方破れだが、何故かいつも丸く収めてしまう理屈なしの特技を持っていた。
「ほんまにもう、ややこしい。おとっつぁんは、ウロがきて、どないしてええやら、わからんようになったわい」
こんなセリフを独特の間で相手を説得してしまうのだ。台本作家の長沖氏は大した人だった。
では何故‘アチャコ’と名乗ったのか。二つの説を見つけた。
大阪弁で、アベコベのことを『あっちゃこっちゃ』と言うらしい。また、こまめに動く人を「ようアッチャコッチャ(あっちこっち)するわ」と、これは理解できる。そういう人だったらしい。
また彼自身の話と言うことで、旅回りの小さな一座でチョンチョンと幕切れの拍子木を打つ役を受け持っていた。幕切れ多くは「アアッ!」というセリフで終わるので、
「ええか、アアッ、チョン!やで。忘れなや、アアッ、チョン!やで」と教えられ、それがつまってアチャコになった(長沖一「上方笑芸見聞録」)とか。
わたしとしては最初の方が自然の流れに見えるが・・・。どちらにしても永年の疑問がほんの少し解けたという、粗末な連想を重ねた結果でありました。

今日は祝日。昔の紀元節。おれの誕生日。法律上68才になる。
【ホンマにもうめちゃくちゃでござりまするがな】

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「卵かけご飯の店」 [2008年02月09日(土) ]
今朝の新聞サイトにあった記事。
asahi.com:卵とご飯食べ放題で300円 「卵かけご飯の店」 - コミミ口コミ
DATE:2008/02/09 04:20
URL:http://www.asahi.com/komimi/OSK200802040061.html

これから連動して、来週土曜日に行く所にも同じような店があったことを思いだした。
但東マップ
http://www.tantosilk.gr.jp/kanko-map/index.html
この中の百笑館の“但熊”である。
http://www5.nkansai.ne.jp/shop/kura/

まさかメシにぶっかけ卵が商売になるとは・・・。好きな喰い物のひとつで、カミさんの目を盗んで家ではちょくちょくやるが、外食として成り立つのかは疑問だ。
しかしこの不景気の時だ。300円でメシの食い放題だったら、立ち食いソバ屋やラーメン店並に増える可能性はある。そば粉も小麦粉も自給率一桁台のうえ、高騰とくると尚更だ。
ご飯は松竹梅の3ランクに分け、卵もスーパーで安売りのもの、近所の地物、こだわりの高級卵から選び、値段は100円、200円、300円くらいにする。裏庭で飛びまわっている鶏を見せ、客に卵を獲らせてもいい。
醤油は厳選するか、自前のブレンドものを開発する。
資本はそう要らないし、誠実な心がけを失わないで対応すれば、街中でも開業できる。ただはやりのチェーン店にだけはして欲しくない。わたしは基本的にこの類の店は信用しない。個人の『こだわり』は絶対に不可欠だからだ。

16日には兵庫県の豊岡市但東に居る。遠井義雄賞の集まりは午後1時半からだから、ゆっくり1泊したいと思って、いろいろ調べてみた。
マップで「善」を見つけた。
http://www17.ocn.ne.jp/~noukazen/
電話で問いあわせすると、残念ながら満杯で、人の良さそうなお婆さんが申し訳なさそうに対応してくれた。いい写真が撮れたのではないかと今でも心残りだ。

それならと“やまびこ”にメールで申し込んだが、翌日になっても返信が来ないので、隣の出石(いずし)にあるホテルの予約を取った。
http://www.izushi-ngh.jp/information.htm
城下町なので、それなりの面白味があるが、問題は天気である。どの程度の雪なのか分からない。成り行きに任せるとして、泊まる当夜、興味を惹く催し物を見つけた。
イベント情報でタイトル「万葉うたがたり」
だ。万葉をポップス・メロディで歌い上げるという謳い文句に引っかかって予約してしまった。

この辺は交通の便がいいとはいえない。17日朝早めに便数の少ないバスで豊岡駅に出て、城崎(きのさき)へ行くことにした。
http://www.kinosaki-spa.gr.jp/infomation/dokyu.html#03

午前中遊んで帰ることになるが、円山川や温泉街の写真がどれくらい撮れるか、これも雪次第である。

卵かけご飯から始まって、ついお喋りしてしまった。旅はいいが、億劫でもある年令になった。特にカミさんは出不精で、「オトーサン、何日行ってきてもいいですよ」のセリフに、ホッと開放的になるが、反面複雑な気持だ。暖かくなったら気持も変わるだろう。
だから2月は嫌いなんだ。

Posted at 05:30 | 日記 | この記事のURL
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