現代恋愛ものはともかく、歴史物語は勉強になる。
古朝鮮(こちょうせん、コジョソン)とは、漢王朝武帝による漢四郡設置(紀元前108年)以前の古代朝鮮国家の総称ということを初めて知った。
【建国神話
『三国史記』によれば、高句麗は紀元前37年に朱蒙(チュモン)により建てられたとされる。朱蒙の母は河の神の娘で天帝の子と出会って結ばれるが、父の怒りを買って東扶余王の金蛙の所へ送られた。やがて娘は太陽の光を浴びて身篭り、卵を産んだ。この卵を金蛙は動物に食べさせようとしたが動物はこの卵を守り、卵から朱蒙が産まれる。朱蒙は生まれた時から非常に弓が上手く(朱蒙と言うのは弓の名手のこと)、これに嫉妬した金蛙の息子たちは朱蒙を殺そうとするが、朱蒙は母の助言でいち早く脱出して卒本州に至り、ここで高句麗を建てたという。広開土王碑にもほぼ同じ内容が書かれている。
朱蒙が建国したとされる卒本の地は現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県(吉林省との省境近くの鴨緑江の少し北)に当たり、都城の卒本城は五女山山城に比定される。しかし建国後まもなく、西暦3年には第2代の瑠璃明王が鴨緑江岸の丸都城(尉那巌城)へ遷都した、と伝えられる。高句麗の本拠地が実質的に丸都城への移動した時期については2世紀末から3世紀初めにかけてのころだと見られている。
* 丸都城時期
丸都城は吉林省集安市(かつての玄菟郡配下の高句麗県)の山城である。その後、山を下りて平地の国内城に王宮を構えたが、山城の丸都城と平城の国内城とは一体のものであり、こうした山城と平城(居城)との組み合わせは、朝鮮半島における城のあり方として普遍的なものとなっていった。国内城については最近の考古学的研究により、3世紀初めの築造と見られている。高句麗は次第に四方に勢力を延ばし、とくに遼東方面への進出に積極的であり、玄菟郡をさらに西に追いやった。後漢の統制力が黄巾の乱により弛緩すると、遼東には公孫氏が自立するようになり、高句麗と対立した。197年に第9代の故国川王が死んだ後、王位継承をめぐって発岐と延優(後の10代山上王)との間に争いが起こり、卒本に拠った発岐は公孫度を頼って延優と対立したが、丸都城に拠った延優が王となって発岐の勢力を併呑した。
公孫氏が魏の司馬懿に滅ぼされた後は、魏と国境を接して対立するようになり、魏の将軍?丘倹により246年に首都を陥落させられた。東川王は東に逃れ、魏軍が引き上げた後に首都を再興した。このときに築城された都を平壌城というが、丸都城の別名または集安市付近の域名と考えられており、後の平壌城とは別のものである。】
今のところ、王子朱蒙は、これから新しい国を創るべく流民を率いて居城だった扶余(ぷよ)を出たところだ。先は長い。
高句麗は紀元前37年頃生まれた扶余系民族による国家であり、最盛期は中国東北部(満州)から朝鮮半島の大部分を領土としたとある。半島南西部の百済、南東部の新羅とともに朝鮮半島における三国時代を形成。隋煬帝、唐太宗による遠征を何度も撃退した。しかし唐と新羅の連合軍により滅ぼされるのだが、普段は知り得ない隣国の盛衰は興味が尽きない。
朝鮮語の語尾に聞かれる上がり下がりが、日本海側の地域で結構聞くことが出来る。直接聞いた記憶もあるが、NHK朝ドラ「ちりとてちん」でよく聞き取れる。日本海に面した福井の若狭に住んでいる一家周辺の会話では、やはり語尾に独特の抑揚が使われている。なんらかの影響を受けているのは間違いなかろう。東アジアは仲が良かろうが悪かろうが、そういう間柄ということだ。
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