最近本を読むといっても集中できない。2,3ページ読んではホケーとし、キーを叩いたりテレビを見て、思い出しては読む。寝る前に読むのは永年の癖だが、これも寝付きが良すぎて、開いているのはせいぜい5分。5,6時間はぐっすり寝てしまう。眠いから布団にはいるのに、本を読もうとは踏ん切りの悪い限りだ。後はトイレだが、排泄と平行しているので5分とかからない。それにカミさんが「また持って入って!」と、持ち込んだ雑誌などをその辺に置いておくと、すぐ読み終わった新聞と一緒にされてしまう。トイレの棚には読みかけがいつも3冊はあるが、本棚に戻ることはない運命を思うと、そうそう持ち込みは出来ない。加齢と集中力は反比例らしい。
そんな中で「ふるさとは貧民窟(スラム)なりき」を読み終えた。ルポライター小板橋二郎著(ちくま文庫)による戦中戦後を通して少年時代を過ごした東京板橋区の‘岩の坂’近辺の長屋住人の生活記録である。単なる懐古ともいえるが、残念ながら今では多くが放送禁止語句になっている人たちの、赤裸々で凄まじい貧しさと人間性を感じ取ることが出来る。
なかでも昭和6年に警察が調べた「どん底の人達」として記した一住人のことが、次のように引用されている。
【井戸掘り業 斉藤仙吉 三十九才
家族数及生活状況概要
右者、家族八名を擁し一ヶ月二十円内外の収入に過ぎず此を以て生活し居れるものにして長女及二女は目下奉公中なるも一銭の収入なし、職業に対しては極めて勤励なるも不景気の影響を受け昨今殆ど仕事なく四畳半の一間に家族を全部起居し居り、残飯食又は豆腐殻、甘藷などを常食とし時々欠食す為に小児の如き甚だしく栄養不良に陥り居りて実に悲惨なる生活をなし居るものとす】(昭和6年の物価がよく分からないが、10年の統計では、白米10キロ 2.5円。焼酎 1.8g 1.02円となっている)
4.5畳に8人である。今の感覚で判断は出来ないが、空間が貧しいとだけは言える。生活保護などあるわけがなく、貧しいが故の飢えからは様々な生活苦が渦巻き、無学、心身共の病いから貧の連鎖と、よほどの幸運と努力がなければ抜け出せない社会構造になっていたと思う。格差が当たり前で、動かしようのない厳然たる壁が立ちはだかっていた。社会・共産主義にかぶれていなくても、心ある人は嘆いていただろう。
警察官が書いた文面の終わりあたりに、当時の官としては暖かさが感じられる。しかし如何ともし難い現実には手も足も出なかったに違いない。
ふと思い出したことがある。
静岡にいた頃、近くに5人家族が居た。父親は雇われ馬喰(馬を使っての運搬業)で、母娘と男子2人だ。12才だったわたしより3才年上の子とよく遊んだ。家は掘っ建て小屋よりはマシだが、窓ガラスはなく、戸板をつっかえ棒で開けていた。6畳ほどの板の間に1畳の台所と風呂場の土間があり、家に入ると独特のすえた匂いがした。近所から少し離れたところに建っていたせいもあったが、周囲からは敬遠気味に「遊ぶんじゃないよ」と言われていた。その頃から反発ばかりしていたこともあって、ケンケンやらメンコで遊んだものだ。昭和27年であっても、そんなところは結構あった。
【馬車挽業 三村三吉 五十三才
家族数及生活状況概要
右者、妻以外に五人の家族を擁し先月中の収入二十七円位にして真面目に業務に従事し居れるも不景気の影響を受け昨今仕事なく四円八十銭の家賃を支払ひたる残余の金を以て生計を維持し居れるものなれば時々欠食することあり、残飯或ひは甘藷などを常食となす悲惨なる生活状態にして小児等は皆栄養不良に陥り居れり】
以上も同じような状況で、多くの世帯が彼らのような生活ぶりだったようだ。
無頼の時代を克明に描いている本だった。
そんな中で「ふるさとは貧民窟(スラム)なりき」を読み終えた。ルポライター小板橋二郎著(ちくま文庫)による戦中戦後を通して少年時代を過ごした東京板橋区の‘岩の坂’近辺の長屋住人の生活記録である。単なる懐古ともいえるが、残念ながら今では多くが放送禁止語句になっている人たちの、赤裸々で凄まじい貧しさと人間性を感じ取ることが出来る。
なかでも昭和6年に警察が調べた「どん底の人達」として記した一住人のことが、次のように引用されている。
【井戸掘り業 斉藤仙吉 三十九才
家族数及生活状況概要
右者、家族八名を擁し一ヶ月二十円内外の収入に過ぎず此を以て生活し居れるものにして長女及二女は目下奉公中なるも一銭の収入なし、職業に対しては極めて勤励なるも不景気の影響を受け昨今殆ど仕事なく四畳半の一間に家族を全部起居し居り、残飯食又は豆腐殻、甘藷などを常食とし時々欠食す為に小児の如き甚だしく栄養不良に陥り居りて実に悲惨なる生活をなし居るものとす】(昭和6年の物価がよく分からないが、10年の統計では、白米10キロ 2.5円。焼酎 1.8g 1.02円となっている)
4.5畳に8人である。今の感覚で判断は出来ないが、空間が貧しいとだけは言える。生活保護などあるわけがなく、貧しいが故の飢えからは様々な生活苦が渦巻き、無学、心身共の病いから貧の連鎖と、よほどの幸運と努力がなければ抜け出せない社会構造になっていたと思う。格差が当たり前で、動かしようのない厳然たる壁が立ちはだかっていた。社会・共産主義にかぶれていなくても、心ある人は嘆いていただろう。
警察官が書いた文面の終わりあたりに、当時の官としては暖かさが感じられる。しかし如何ともし難い現実には手も足も出なかったに違いない。
ふと思い出したことがある。
静岡にいた頃、近くに5人家族が居た。父親は雇われ馬喰(馬を使っての運搬業)で、母娘と男子2人だ。12才だったわたしより3才年上の子とよく遊んだ。家は掘っ建て小屋よりはマシだが、窓ガラスはなく、戸板をつっかえ棒で開けていた。6畳ほどの板の間に1畳の台所と風呂場の土間があり、家に入ると独特のすえた匂いがした。近所から少し離れたところに建っていたせいもあったが、周囲からは敬遠気味に「遊ぶんじゃないよ」と言われていた。その頃から反発ばかりしていたこともあって、ケンケンやらメンコで遊んだものだ。昭和27年であっても、そんなところは結構あった。
【馬車挽業 三村三吉 五十三才
家族数及生活状況概要
右者、妻以外に五人の家族を擁し先月中の収入二十七円位にして真面目に業務に従事し居れるも不景気の影響を受け昨今仕事なく四円八十銭の家賃を支払ひたる残余の金を以て生計を維持し居れるものなれば時々欠食することあり、残飯或ひは甘藷などを常食となす悲惨なる生活状態にして小児等は皆栄養不良に陥り居れり】
以上も同じような状況で、多くの世帯が彼らのような生活ぶりだったようだ。
無頼の時代を克明に描いている本だった。
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