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ブラり散歩*映画談義 [2007年02月28日(水) ]
コマに向かって左側の映画館に、ケビン・コスナーの看板が見えたので迷わず入場した。20年は越えている、久しぶりの映画館だ。タイトルは《守護神》。
沿岸警備隊の海難救命士物語。ベテランと新人の葛藤とヒューマニズムを描いている。米映画に珍しく最後は主人公が死んでしまうが、志は受け継がれるというもの。嵐の中の救助シーンはなかなかで、音響効果のすさまじさに驚いた。

西武新宿線へ向かう道の左角の映画館。ここは何故か昔の佇まいで味がある。
《武士の一分》
毒味役が貝にあたって盲目になり、お役ご免の憂き目にあうところを、妻に横恋慕する上役がそれを種に妻を犯す。自分の邪推で妻を追いだすが、事実を知った夫は上役と対決し、勝ったのち自害に追い込み、面目を保つ。
ここで言われる「一分」は、30石取りの下級武士が盲目という不利にもかかわらず、一刀流免許皆伝の切れ者で番頭の上級武士に1対1の決闘を望む心意気のことだ。
『ともに死するをもって、心となす。勝ちはそのなかにあり。必死、すなわち生くるなり』という師匠の教えは、相打ちの心(肉を切らせて骨を切る)とみた。これは「貞節」という刀を使った妻の心情も同じである。身を挺してでも夫(との生活も含む)を守る自己犠牲の心情からすると、タイトルを「妻の一分」としてもおかしくない。更に、敗れた相手が恥を知って腹を切ったことも「卑怯者の一分」といえる。
見終わったあと、ちょいと小腹が減ったので立ち食いでワカメ蕎麦(何故ワカメなのか記憶がない)をズルズルと喰いながら、自分になにか意地を押し通す「人間の一分」があるのか、考えてみた。よく「1寸の虫にも5分の魂」は使うが、これは人間全般に、特に社会的に体力的に弱い立場に置かれている場合で、武士の一分とは微妙な違いがある。庶民とサムライという違いだからなのかも知れない。
わたしが最も武士を感じる言葉はやはり「武士は喰わねど高楊枝」である。「葉隠れー死ぬことと見つけたり」ではない。先ずは必死に生き抜くことだ。潔さも含まれる。目の前の利益や法律に触れない虐めに組みすることなく、貧乏なりに満ち足りた生活を過ごす。一見マイホーム主義ではあるが、これがなかなか難しい。貧乏という条件はクリアーしていても、雑炊よりステーキになってしまう。向上心がなくなると言われるかも知れない。
グローバル化とやらで、現代では主に殉じるより自分を信じて従う人が増えている感じがする。経営者や上司に魅力や尊敬を抱けないシステムになりつつある。エゴではない「自分の一分」を持つことが出来れば藤沢周平氏の世界とサイクルが合うのかも知れない。

後で知った映画チケット代ーなになに、高校生3人で1000円?60歳以上だと1000円でいい?アー、損した。1800円×2回=3600円。1600円損したー。どうだい。こんなことを今更言うってことは、わたしが貧乏だという証拠だ。あとは、いちいち文句タラタラ言わないことだ。一分どころか0.2分くらいか。

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 ブラり散歩*タクシー談義 [2007年02月27日(火) ]
どうも右足が良くならない。むしろ悪くなっているようで、このままでは駅までの移動も無理に思えた。取りあえずはと、喫茶店のモーニングサービスで朝食を済まそうとルノアールに入った。昔ちょくちょく利用した懐かしい店名だ。アイスティとサンドイッチを頼んで、葬儀場の確認のために兄に電話した。そして「行けないかも知れない」と、もしもの場合のために現状を伝えた。
行くとしたら渋谷に出て東横線に乗り換え、忘れたが更に私鉄に乗り換えなければならない。平面でもヒィヒィ言っているのにとても無理と判断した。しかし香典がある。なんと郵便局がビルの陰に垣間見えるではないか。これを待っていたかのように都合よく香典袋を封筒に入れている。宛先を書き、速達及び配達記録付きで投函した。後から失礼を詫びることで良しとさせていただいた。なんのことはない。福岡からバスに乗って西新宿まで郵便物を出しに来たことになる。エレジーと言うより馬鹿丸出しで締まりのない結果になった。
相変わらず雨模様で、夜9時の出発時間までどうして潰そうかといろいろ考えた。ウィークデイなので友人たちは仕事だし、調べもせず出てきたので催し物などまったく分からず、ともかく人が多いだけでいらついて、逃げ出すことだけしかなかった。
それでは映画で時間をつぶそうと、新宿西口からコマ劇場前までタクシーに乗った。運転手が若いオネエサンと話していたのでどうかなと思ったが、乗っていいという。「近くで悪いね」というと、「いやいや、結構ですよ」と乗った途端に、60才の運転手さんのおしゃべりが始まった。
「さっきの女の人、韓国人でね。2時間で成田空港まで行ったら2万円出す」と言われたそうだ。だが「ここからだったら2時間は無理。雨が降るし交通状態は分からない。それに運賃にしたって、メーターで2万円以上はかかるよ」。つまり旨味がないのだ。「私はね、韓国人、アメリカ人はなるべくお断りしている。文句は多いしケチだしね」
言うことがはっきりしているが、反面、契約社会で育ったせいか、うるおいが無く文句が多いらしい。結局他のタクシーが請け負ったらしいが、「2時間以内に着けなかったらどうなるかな」ー運賃支払い拒否もあり得るらしい。水商売らしいその若い女性はスーツケースや多くのバッグなどを抱えて、どうしてもフライトに間に合わなければならない理由があったのだろうが、それなら「3万円出すから」と、本来なら言うべきだった。それならと、必死になるかも知れない。但し事故云々は補償できないが・・・。要するに、早起きして電車で行けば安いし確実(2時間10分)という話だ。
歌舞伎町が見えだした頃、今度は「私、透析してるんですよ」と言いだした。2日に1回は病院に行くそうだ。だからなんだと思っていると、「それでも海外旅行に行くんですよ」という。行き先の病院に予約をしておくんだそうだ。かなりヤバイと思った。なにかの手違いひとつで透析できなかったら尿毒症の危険がある。それでも行きたいらしい。それほど積極性があった方が楽しいのは間違いない。とはいうものの、左折場所を通り過ぎてしまった。それでも黙っているとやっと気がついて「すいません。ついおしゃべりに夢中になって」。こっちは時間がたっぷりあるので、鷹揚に「いいよいいよ」などと答えながらコマ劇場の横通りで降りた。

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ブラり散歩ー床屋談義 [2007年02月26日(月) ]
街の雑踏の中で片足が急に効かなくなった。傘をさし、キャリーバッグを引きずりながら、少しずつの移動を始めた。PPS(ポスト・ポリオ・シンドローム)のことを想い出した。簡単に例えて云うと、元々ポリオの後遺症を持つ人がそのまま永年過ごすと、ある日突然その部位がまったく用を足さなくなり、車椅子生活になってしまうことらしい。この理屈は分かる。
わたしの場合、生後5ヶ月でウィルスに取り憑かれ、結果として右足が左より10センチ短く、太股は直径10センチにも満たない。当然血管は細く血流が悪い。触ると夏でも冷たい。筋力も劣る。このままの状態で60数年生活してきた。思えば酷使したものだ。子供の頃は今のように車万能ではない。先ず「歩く」ことが移動手段の基本で、1里2里(4−8キロ)は当たり前だった。良い面では「鍛えられた」が、悪い面は「酷使してきた」と言える。左足と同等の能力を否応なく求めてきたのだ。そのツケが来たのかも知れないと思い始めた。
そんな感傷を受け付けるはずのないのが東京だ。グジュグジュいってんじゃねーよと、葬儀に参列するための整えとして、洗髪・ひげ剃りをするべく、目の前に現れた床屋さんに入った。冬だというのに汗だくでハァハァ息を切らせて入ってきた客を見て、さすがに都会の商売人。さりげなく「コートをお預かりしましょう」とにこやかに接してきた。こういうところはわたしが好きな職業意識だ。気構えも臆することも、ましてや「なんだ?」という疑問視を見せない。さらっとしている。
「2番目の席にどうぞ」と、30才台の女性に言われ、座るとやはり「どちらから?」と訊いてきた。「福岡」と答えると、「福岡の人って郷土愛の強い人が多い」という。東京の大学を卒業しても地元で就職するそうだ。しかしひげ剃りという割には何回もクリーム状を塗りたくっては剃りを繰り返し、石鹸をつけない。
「年取るとなんで眉毛が長く垂れ下がるのかな。なんで耳毛が飛び出してくるのかな。鼻毛も伸びるしさ。そのくせ髪の毛は抜けるんだよね」と愚痴ると、「年を取ると何故かみなさん、そうなりますねー」というごく普通の答えが返ってきた。そしてこんなことをしゃべりだした。
「高齢になったら延命して欲しくないこともありますね。実はあたしの母は90才を過ぎたんですけど、ボケは全くないんです。そんなとき、食べることが出来なくなって入院したんです。本人はこのまま老衰で死にたいと希望したんですが、病院はそんなこと認めるわけありませんよね。結局、管で直接胃に栄養分を入れる処置をとったんです。当然元気になるけど、それは食欲も催すことにつながって、母は食べたいけれど食べられないという状態になりました。だって食欲はあるんですよ。ということは、あれも食べたいこれも飲みたいー口に入れて味わいたくなるんです。ソフトクリームを欲しがって困りました。飢え死にするわけじゃない。頭はしっかりして体力がついてきたから、その思いは強いんです。こうなったら餓鬼道だなと弟が言ってました。だって、特に年取ったら飲み食いしか楽しみがないじゃありませんか。もう可哀想で・・・」
よほど気にしていたのだろう。相手が客ということも忘れたような、それともこの人だったらしゃべってもいいと判断してのことかもしれない。延命を望む患者にはトコトン誠意を込めて治療するべきだが、本人が希望しないなら胃に穴をあけてまで生かすのはどうだろう。医者の倫理観とのズレはこれからどんどん増えていくに違いない。こういう相克やジレンマに行政はありきたりの理屈やどうとでも解釈できる態度しか取らないだろう。「尊重」とはなにかに悩むに違いない。
そんな話を聞かされ、顔はさっぱりしたが、気持ちにはわだかまりが生まれた小一時間だった。

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右足ブラり散歩ー夜行バスelegy [2007年02月25日(日) ]
まさにエレジー。
悲歌は解釈次第ではコメディになり得る事を会得した出来事だった。
本人が真剣に悩み苦しんでも、脇から見ると
笑ってしまう。今回は自分を嘲笑うという情けなさである。
事の発端は、兄からの電話だった。「横浜の姉が亡くなった。明日夕方から葬儀があるがどうするか。遠いから無理しなくていいよ」という主旨である。他家に嫁いだとはいえ3人兄弟のひとりで、今では兄と二人きりになった。ならば行かずばなるまい。しかし、新幹線にしろ飛行機にしろ往復費用やホテル代などを考えると、年金暮らしには苦しいものがある。それならと、試みに長距離バスを申し込んでみた。
博多ー東京間1100キロを14時間25分で夜間に走り抜ける、その名も「博多号」。値段は15000円で、ビデオ2本上映かつパンとお茶の朝食付き。座席が3列でフラットに近いリクライニングシートときた。すべての条件からすれば、そう悪くはない。夜7時に出て、翌日朝9時半着の予定だ。電話で予約を済ませ、天神のバスセンターに向かった。
時間通りに出発した。シートは思ったより幅が狭く、居心地は決していいとは言えないが、それより前の爺さんが座った途端にシートを思い切り倒したことだ。いい年をして「ちょっと倒しますよ」との挨拶もない。前の背もたれに雑誌や小物を入れたのだが、まったく取り出せる状態ではない。目の前にその先端が来る。年令に関係のない気遣いのなさの典型だ。嘆かわしい。そんな中、昼飯に買った「バス弁」を食べた。駅弁空弁船弁に続くネーミングだが、幕の内系の一種類しかない。旅に出ると食欲が出る傾向にあり、今までの最多で新幹線6時間内に駅弁4つという記録がある。多分みんなそうだと思うが、胃の腑が大きくなるわけではなく不思議な現象だ。
夜10時半頃、横にカーテンが引かれて就寝状態になる。ここでみんながそろって背を倒すわけだ。短い足でも伸ばしきれず、タイヤの回転音や振動が思ったより感じる。朝6時半のカーテンオープン時間までに2時間は目を閉じただろうか。右に左に身をよじり、ビールを飲んでも眠気は来ない。本の用意もできなかった。今のデパートでは本のコーナーがないらしい。百貨店の名が泣く利益優先文化退化の風潮はこんなところまで来ている。
翌日、1時間遅れで10時半頃西新宿に着いた。小雨混じりの中、降り立ったはいいが、長時間座っていたせいか右足の調子が悪い。突っ張りが効かないのだ。つまり、ブラブラの右足ブラり散歩の始まりである。また大した内容ではないこともエレジーたる所以だ。

Posted at 19:47 | エッセイ | この記事のURL
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夢の思いだし方 [2007年02月22日(木) ]
朝目覚めて、それまで見ていた夢を思い出そうとするとき、決して焦ってはいけない。
必死になるほど、どんどん遠ざかり、断片が次々に消えていくのだ。「やばい」と思いながら追い求めると、やがて全くの白紙になってしまう。
要領は、尻尾をしっかり掴むことが第一。そして一呼吸おき、知らん顔をしながら横目の姿勢で少しずつ少しずつ「なにがあったのかな?」と、あくびをまじえながら尻尾の先を空の上から見るように眺めていく。視線を感じさせてはいけない。
茫洋とした中からゆっくりと全体が浮かび上がってくる。
尻尾のつかみ方が難しい。あわてるとすぐツルッと抜けてしまうのだ。早く思い出したい=早く結果を出したい、は禁物。
冬の朝、睡眠の名残を味わうように横たわっていると、現実が容赦なく近づいてくる。夢の尻尾は淡いものだ。

Posted at 06:22 | この記事のURL
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迷走なのか本質なのかー米議会 [2007年02月20日(火) ]
アメリカという国が本当に分からなくなってきた。これもその現象のひとつだ。

慰安婦問題:米下院の決議案に首相官邸危機感−行政:MSN毎日インタラクティブ
DATE:2007/02/18 15:29
URL:http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20070218k0000m010070000c.html

西部劇は勧善懲悪のシンボルだった。そしてジョン・ウェイン主演映画の頃までは、ネイティヴ・アメリカン(インディアン)はどう猛で野蛮な原住民だった。悪である彼らとの戦いは、開拓という美名と口癖の「神の恵みあれ」と共に侵略し殺戮し、自らを正義とした。
ここからアメリカは、独立戦争・南北戦争を経てのち、あらゆる大義を掲げて戦争を続けてきた。冷戦の対立軸がなくなった後、巨大な軍需産業の行き場がいよいよなくなり、在庫を無くし開発を続けるには、更なる敵の創出が必要になった。イラクに至っては計算された迷走?の極で、「テロとの戦い」戦略だとすれば、あまりにもイスラムの分析がお粗末である。「アッラーアクバル=神は偉大なり」と唱えながら自爆する本質を見抜けないまま、テロ拡散状態をつくり出したと言ってもいい。
更に混乱を生み出しているこの時期に、【日系のマイケル・ホンダ議員(民主党)らが下院外交委員会に超党派で提出した】その感覚がまったく理解できない。日本に謝罪させてどうしようというのだろう。世耕氏がその動機などを調査するらしいが、政府はこんなことでオタオタしないで欲しい。所詮は現在のアメリカはこの程度なのだ。
「レイプ オブ ナンキン」の仕掛け人、アイリス・チャンは結局は重圧に耐えかねて自殺したと聞く。中国・韓国が中心の圧力とは言え、この時期に、8回も廃案になった決議案を出し続けるならば、原爆投下に始まって、ヴェトナムの枯れ葉剤使用やクラスター爆弾、劣化ウラン弾と今も尾を引く深刻な問題を討議して欲しい。それが野党の責務だ。最も、違うようで同質なところも重複する共和、民主だ。他人は責めても自国のことになると、どこの国でも躊躇するものだ。
悪人は自分だったという事実もあろう。民主国家の長であるなら先ず示して欲しい。以前の、度量の大きいアメリカはなくなり、セコセコとつぎはぎが多くなった。

Posted at 05:31 | 政治 | この記事のURL
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自由律 [2007年02月19日(月) ]
あげな高い煙突 石炭燃えたね月が出た

あほな さうなん 頑張りやぁー

くすぐつたい浮毛に私は眠る 抱つこ大好き

戰爭が商賣だと市民は公園で知り 鳩ククク

陽射しが小石を暖め 蹴つ飛ばして朝

薄曇りにおにぎり食べて 落とした轉がつた

窓から逃げて 湯氣ほわり

ケータイちりり 人生ちりり

すべつても湯呑みに留まつて てんたう蟲

北向きの納屋に日だまりさがして 霜の湯氣

ぼくの茶碗 轉がり落ちて土塊(つちくれ)だ

白いお墓に 雨 しよろしよろと

おやぢの「コラー!」を知つてるかい

Posted at 05:23 | この記事のURL
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 駅の待合所 [2007年02月18日(日) ]
私は小さい頃から駅の待合所が大好きだった。その土地の匂いや空気がプンと漂い、会話の中身や言葉遣いも面白い。
昭和30年代は、駅に来れば先ず沢山のベンチが目に入った。荷物を下ろし、時刻を確かめ、知り合いがいればおしゃべりし、小一時間の待合い時間を座って楽しんだものだ。
静岡駅もそんなところだったが、当時中学生だった私にはもっと深い想いがある。
家出して一週間たった頃、駅のベンチで疲れ果てて寝込んでいた私は、探し回っていた母に見つかり、腕をしっかり掴まれてしまった。周りのおじさんからも「心配かけるな」と、逃げようとするところを押さえ込まれ、諦めた私は、心痛で痩せた小柄な母を腕にぶら下げるようにして家へ帰ったが、途端にパシッ!と一発、母の猛烈なビンタを喰らった。
以来、待合所を使うたびに母の必死の形相を思い浮かべていたが、最近の大きな駅はほとんどがコンコースで、お年寄りや荷物の多い人は所在なげに柱を背もたれにしてしゃがみ込んでいる。小ぎれいなだけで匂いもなくなった所では、母の面影もなくなってしまった。効率や経済効果もいいが、駅が持つ「味」にも心を配って欲しいものだ。

Posted at 08:59 | この記事のURL
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ネット恋愛の現実性 [2007年02月17日(土) ]
人は相手の目を見ながら話し、聞いているのか通じたのか反応を探る。それでも完全に理解は出来ない。
しかし、今の時代、結構恐がりが多く、スーパーや自販機のせいもあって、なるべく他人との接触を避けながらも、逆に深層では相手を求める心理が強くなっているようだ。
従って煩わしさの比率が増え、「こんにちは」「ありがとう」などの日頃のあいさつ言葉は、文字になりこそすれ声を出して使うことが少なくなってきている。

よく他人との接触で「自分が傷つくことを恐れるから避ける」と言われる。これがよく分からない。他人を傷付けてもその痛みは感じないが、自分に関してはほんのちょっとしたことでも怒ってしまうケースは増えている。
「キレル」と表現されている現象だ。電車内の大声のケータイ会話や障害者用の駐車スペースに平気で停めて、あきらかに当人に非があっても注意されると「うっせー」「カンケーねぇだろ」と、乏しい日本語が更に汚なくなり、果てには殴りかかる。コミュニケーション力不足とも言われるが、それ以前の「自分かわいがり症候群」だ。やましいことを他人から「言われる」ことが堪えられない人種である。老若男女問わず増殖している。
生活の貧しさが心の貧しさを誘っているのか、当たり前の善意や大らかさがどんどん削られている。接触を嫌う現象にも結びついている感じだ。

こんな状態で果たしてネットでどのような恋愛が成り立つのだろうか。

ネットから広がる恋愛と成就の確率、ルールブックはあてにならない? - 米国 AFP BB News - BETA -
DATE:2007/02/16 10:50
URL:http://www.afpbb.com/article/1341110

前提は、互いにどれほど自分をさらけ出せるかだ。以前の文通によるペンフレンド(ペンパル)でも、関心を引きたいばかりに違う写真を同封したり、相手に合わせて履歴や趣味を偽ったりと聞く。しかし少なくとも文章の多くは自筆で、自分の行為が反すう出来た。書いて切手を貼ってポストに入れるまでに考え直す機会があった。比べてキーを叩く動作は反射的で即物的な面もある。ENTERポンで、意志に反した内容でも取り返しはつかない。顔を合わさないでEメールやチャットで会話を繰り返して知り得ることも多いが、見極めるには経験や感性が欠かせない。オフ会で団体として参加するなら人とナリを観察できるが、出会い系サイトの1対1で余裕のある目が持てるだろうか。犯罪に巻き込まれる紙一重の危険を冒してまで見つけたいのかと思ってしまう。

出会いサイト関連の検挙数 06年は過去最多
DATE:2007/02/17 14:39
URL:http://www.j-cast.com/2007/02/16005581.html

見えないものは見えないのだ。それがいつか「見える」錯覚となり「見た」つもりになって、自分の都合通りに物事が運んでいると思い込んでしまう。ここが恐い。

Posted at 14:45 | この記事のURL
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日向ぼっこ [2007年02月16日(金) ]


公園でのんびり、あられもない格好でバンザイ・・・

Posted at 05:35 | 写真 | この記事のURL
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