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 おとなしくなったギンさん  [2007年03月22日(木) ]
ギンさんは口うるさい。間違ったことは言わないので、よけいに煙たい。
東京に住むギンさんは今年81才で、心身共にすこぶる元気だ。寝たり起きたりだが身辺にとても気を使う。良い意味の「色気」がある。つやつやした肌の持ち主で、うっすらと紅をさし、特に髪の毛の手入れに余念がない。これで大人しければ可愛いのだが、率直というか口が悪いというか、江戸っ子口調でポンポン言われると、私も単純なのでつい「なんだ、コノヤロー」と思ってしまう。
「ケンジさん、あんた気が弱いからさ、嫁さんに馬鹿にされるのよ。夫婦喧嘩ったっていつーも負けてんじゃない。たまに会うとグジュグジュ愚痴こぼしてさ、パシッとやんなさいよ。まったくじれったいね」
よくもまあ、こんなふうに次から次へセリフが出てくるものだと半分感心しながら、「ハイハイ、分かりました」とごまかしている。一度くらいはギャフンと言わせてやろうと構えているのだが、なかなかタイミングが合わない。とにかく口では到底かなわない。

もうひとつ、かなわないことがあった。
写真が上手なのだ。構図が良いとか露出がピッタリなどだけではなく、心に沁みるのだ。まるでフィルムに絵を描いている感じで、同じ被写体を撮っても私にはそれがない。ただ写っているだけ。特に子供の写真は生き生きしており、自分が一緒に友だちになって遊んでいる。私は、いかにうまく撮ろうかと背景や表情を選んでしまうが、ギンさんはカシャカシャと無造作にどんどん撮っていく。カメラも大したものではない。今でこそデジタルのコンパクトカメラだが、最初はバカチョンカメラで撮りまくっていた。彼女の真似できないテクニックは「待つこと」である。特に風景の場合、天候と時刻を計算する。例えばよく見る里山の風景を曇りの日に撮るとしたら、午後3時まで待てばきつめの稜線がゆるやかで和やかなやさしさに変わると分かるのだ。子供の立ち振る舞いでも笑顔でも、驚くほど的確にシャッターを押す。というより、自然に指が動くのだ。アマチュア写真展に応募を勧めたが、他人様に見せるために撮っているのではないと受け付けなかった。
私もそれに影響されて、デジカメ片手に深大寺公園や新宿御苑、夜の渋谷などを撮ってきた。ギンさんに一応見せるのだが、滅多にお褒めにあずからない。「コントラストがいい加減」だの「なにを撮りたいのか分かっていない」だのと、鋭い指摘ばかりである。
私たち家族が福岡に移って以来、電話で撮影の相談をするが、相手に現物がないので「口で言って分かるわけないでしょ」と怒鳴られ放しである。
そこでカミさんと相談して、ギンさんに通販でファックス付きの電話機を送った。それで写真のやりとりをしながら教えてもらっている。それ以外にも、俳句をつくったのスケッチしたからと、なにかあるとファックスを送ってくるようになった。こちらとしてはありがたいことだ。言いたいことをポンポン言われてきた。だが、紙に書く動作が加わると文面も考える。まさか「このスットコドッコイ」などと文章としては書けない。静かに確実に気持ちのやりとりが出来るようになり、ジーという受信音が待ち遠しくもなった。

Posted at 17:25 | エッセイ | この記事のURL
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午前10時 [2007年03月21日(水) ]
朝の公園は結構イケル。
猫どもの栄枯盛衰も見られるし、待つだけのベンチもなかなか味がある。
あと1週間で花見だが、猫の生活は乱さないで欲しい。








Posted at 18:49 | 写真 | この記事のURL
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ゲイタウン「新宿2丁目」石原発言に反発 [2007年03月20日(火) ]
最近、昭和への想いがいろいろな形で見られる。それは濃い家族関係や強い連帯感と父権という社会的背景と、食生活に始まるちゃぶ台や生活用品に至るまで、懐古だけでは収まらない見直しである。
ただ昭和15年生まれとして、不潔で不便な生活環境を体験してきた者にとって、「良かった、懐かしい」だけでは済まないことも是非知って欲しい。
畑の肥料として人糞を使った野菜をつくって食べた結果、回虫などの寄生虫が体内に宿り、時には脳にまで入り込んで死んだり、口から出てきたりし、その駆除に児童は海人草を煎じて飲まされた。布団には蚤虱がうごめいて、寝る前に白い粉の殺虫薬をペコンペコン撒いたものだ。腹巻きを開けるとこれらがウジャウジャ蠢いていた。栄養失調で皮膚病に罹ったり、霜焼けあかぎれは当たり前だった。雨の日は、4キロの田舎道をすり減った下駄に破れて重い番傘をかかえて通学し、弁当はサツマイモ一個だった。
こんな風に振り返って大変だったことが多かったのに、何故回帰に向くのだろう。精神構造の魅力なのだろうか。土ほこり舞う中、少ない資材で物造りに邁進してきた一体感だろうか。全員が貧乏という連帯感かも知れない。
そのような匂いを持つ佇まいが少なくなってきた。これはかなり意識しなければ保てない状態でもある。昭和、特に30年代をテーマにした商店街や集合体が結構見られる。

それでなくても、新宿には結構そんな雰囲気が30年ほど前まで味わうことが出来たが、時代が移って最近はどんどん消えつつある。
火事以降の新宿駅西口飲食街は大分小ぎれいになり、花園のゴールデン街も中身が変わり、行政と自治会で浄化された歌舞伎町は親子連れでも楽しめる「安心」の街に変わった。末広亭近辺の新宿2,3丁目も胡散臭さが減ってきた。特に新宿2丁目は、都の次の目標のようである。

【ゲイタウン「新宿2丁目」石原発言に反発 - 社会ニュース : nikkansports.com
DATE:2007/03/18 14:18
URL:http://www.nikkansports.com/general/p-gn-tp0-20070318-171272.html

私はゲイではないが、少なくとも独特の陰翳が煌々たる照明のもとに無くなることに淋しさを感じる。闇の魅力が消え、人間の澱んだ深みにコンクリートが流され、小ぎれいなデコラカウンターばかりのラーメン屋のように凸凹のない平坦な味になる。安心して遊べる、住めるという「健康」が果たして本当に健康なのか、健康をひっくり返して見えたものを知るべきだ。
どこの国の行政でも、国際的な行事を催すとなると、やたら掃除したがる。普段は無精半分で見て見ぬ振りをしてきた役人も、サミットだオリンピックだワールドカップだとなると、その根性で爪楊枝でほじくるように、特に目に見える「薄汚さ」を見つけだし、人間が居ないかのように法という掃除機の先端を当てて吸いとっていく。ホームレスや違法建築が主な目標物で、彼らのスィートホームは人間性と誇り共々シュレッダーにかけられて夜空へ散っていく。

薄汚さの価値をどのように保つかーこれも都会施政の大きなポイントである。ゲイー同性愛者が居るから”浄化”という発想があまりにもお粗末だ。作家が政治の世界に入ってしまうと、人間の機微より効率や経済の管理に追われ、ふと我に返ることもなくなるのかも知れない。

私の持論は「文字列は小汚いところから自然発生する」などという、まるで蝿の誕生と考えているところがある。そうだろう。やたら掃いたり拭いたり薬まがいの洗剤で清潔を目指したところに、なにが生まれるというのだ。せいぜいカミさんの納得笑いだ。
昭和の陰や汚れは郷愁だけではない。二丁目あたりにも在る気がする。なにも善人ばかりがピュアとは限らない。少しレールから外れた純粋だってある。迷路で遊ぶ情感を捨てさせないで欲しい。手で払った暖簾のカビ臭さを忘れないで欲しい。なにもかも時代の流れと称して整理整頓されてたまるか。

Posted at 17:04 | エッセイ | この記事のURL
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うた [2007年03月19日(月) ]
墨のかすれに幽谷のうめき紙の上に描(か)けるか

炭キ祭りの昔に生きて月が出たかい月は出ぬ

悲しみがずれて跳ね返つて 涙に色づけ

GAッGAッとメシ掻き込んで 梅干しを見る

乘り換への嚴しい階段に時刻(とき)の汗滴る

里美ちやん茶でも飮みな 泥鰌もゐるぜ

雪にお茶點々 LOVE(ラブ)四文字

冬の豫見も夏の前兆も 知らなくなつた雲

ヘへ育む子等がゐる 先生知つてゐるかい

蒟蒻ぷるるん 身をくねらせて冬時の身震ひ

稻田田棚田良田美田水田濕田 嗚呼田んぼ

一夜孕みは尊いと~話に戻り 地藏さん拜む

井に靈宿つて 落ち葉浮く

腦細胞に秋沁みて ころころ蟋蟀一尺跳んだ

ローカル線の移らう窓に 蝶 迷ひ舞ひ

縁側のさゝくれに指を刺し 陽ざしながく

亡母セピア色で微笑つた埃舞ふ机の 小秋陽
ーーー
亡國の道標は役人といふ淋しさ 民の哀しさ

禁煙の渦なら二酸化炭素にも 正義の鐵鎚

腦が鼻高々 ハートは消えていく

玉葱の味噌汁と納豆の朝ご 笑顏かな

♪枯れ葉よー・・・新米おにぎり 秋日和

白いマントで來た冬 炬燵で暖まつてるよ

荷物持ち面倒だけど ざらついた手がいゝ

「おい、ばあさん」「あたしは女よ」

擦り剥けた地藏のお顏に 目鼻を見つけ

燐火に乘つて これからを話したがる亡者

Posted at 18:48 | 自由律 | この記事のURL
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老いか怠けか---わたしの場合 [2007年03月18日(日) ]
島村抱月の小品に「書卓の上」がある。
かなり大きなテーブルの上には、未読の本や書きかけの原稿、返事を出さなければならない手紙や葉書、要らなくなった資料などが山積みされ、当人は懐手でそれらに想いを致すだけだが、片づけなどの行動には移らず、「あの本は読み終わったかな」「手紙には返事を書いたかな」と思い巡らすのである。
こんな偉い人と同じ感覚で申し訳ないが、私にもそんなところがある。例えばここからも見える本棚だ。決まったスペースで整理するとなると、ジャンル別云々より本の大きさが基準になる。これも完全ではない。正直にいえば、空いたところに詰め込んでいるということだ。まともに並んでいる本の上に真っ直ぐや斜めに突っ込み、それでもはみ出してくると、その分はみかん箱に入れて物置行きだ。もう10箱くらい運び込んだ記憶がある。
今も、座り込んで慣れ親しんだ書名を眺めながらどれを暗い牢屋に押し込めたらいいか考えている。考えているだけで、多分しばらくはこのままだろう。
「江戸時代・流人の生活」の横に渋沢龍彦の「エロティシズム」があり、東山魁夷の「馬車よ、ゆっくり走れ」と小沢昭一の「日本の放浪芸」が並んでいる。脈絡のない自分の性格そのものである。このゴチャゴチャが落ち着くのだ。時には小遣いが乏しくなると古本屋に売り飛ばそうかと思いはするが、この田舎に気の利いた古書屋もなく、抱えて福岡まで出るのも億劫で、結局はいつまでもダラダラと持ち主と同じように生き延びている。
なにも本棚まで行かなくても、乱雑さは目の前にある。HDとモニターに板を渡してプリンターを置き、その上にスルメゲソやおしゃぶり昆布、ニッケあめと柿ピーが入ったカゴに加えて雑誌も2,3冊という現状だ。もの思いに耽りながら硬いゲソを食いちぎり、ファンタジックな写真を見ながらアメをしゃぶる。一部のお母さんが昼ドラを観ながら寝転がって煎餅ポリポリという図に似ている。
乱雑さとモノグサさは当然一致する現象で、炬燵に座り込んでしまうと、目先だけでアレとコレを片づけて、実際に立ち上がるときにはさも一大事のように「ヨッコラショ」のかけ声とともに膝を立てる。ここには島村氏のような哲学的観点など微塵もなく、散らかし
への自己弁護に終始するジジィの怠惰だけだ。
そういえば、座り込んだ老人が通りすがりの人たちをじっと見つめているシーンをよく見る。動けない又は動かないおのれの体の代弁者として、歩き回る人に気持ちを預けているかのようだ。映画を観る観客のように、ゲームに没頭する子供のように、自分の願望を架空の登場人物に託すると同じ感覚である。「あんな風に歩けたら、桜の下を散歩できように」とか「あのように動けたら、どんなバスツァーにも参加したい」と、ひたすら思いと行動が一致できた頃の心持ちが芽生えるのだ。羨望と諦めを込めて、闊歩する人を見るのだ。なにも他人事ではない。私自身が省エネ人間にならざるを得ない体に日々変わりつつある実感がある。
それなら考え深い老人になったかといえばまったくの逆である。枯れたの悟ったのと昔の高齢者は偉かった。67才ならそれなりの規範があって、「隠居」という単語が生きていた。「子供らしく」と同じように「年寄りらしく」があった。しかしおかげさまでと言うか医療というか、食い物が良くなったなどのせいで、まだまだイケルと錯覚して老害を振りまく人たちがそちこちに居る。政治や企業、宗教でも長老と言われて、自分の存在感を見当違いに誇大視してしまう。かくしゃくは良いが、それは周りの人に判断を任せるべきで、引くべき時に引かないとみっともない姿になっていることを知るべきだ。それが年寄りの責任でもある。結構、現代ではそのポジションが難しい。「七人の侍」の村の長老のように、普段は村はずれの水車小屋に住み、一大事となったら知恵を出し決断する。これが望ましい位置ではなかろうか。
それなら我が身はと振り返ると、村人どころか自分一人を持て余している。書いてきたように炬燵にはまり込んで所在なく菓子を食い散らかし、うろんな目つきで周囲を見渡しては屁をこき、時折出っ張った腹を両手で揺さぶっては「メタボかな・・・」と思いつつも、昼間からビールを飲む。1人でもこれだけ度し難いジジィだ。自覚しているだけでもいいのかな。

「屍鬼二十五話」は「昭和恋々」と同じ大きさだから、立ち上がって並べ直そうか。おい、やれよ。おまえだよ、ジジィーと言い聞かせながらも立ち上がらないんだから・・・。

Posted at 08:16 | エッセイ | この記事のURL
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Eメールで円満 [2007年03月17日(土) ]
カミさんは最近、やけに口うるさくなった。
一日中私の行動を見張っているのではないかと思うほど細かい事柄を取り上げ、文句の言い通しである。
タンスからあたり前にシャツを取りだすと、「上から順番に取っていけばいいものを、まったくデングリ返して!」。
床にコップの水を一滴こぼすと、「こぼしたらこぼしたと言えばいいのに、ホントに!」。
灰皿の外に少しでもタバコの灰が散らかると、「もう!ちゃんと灰皿があるのに、なんでこうなるのよ」
一事が万事この調子で、ひとり言とはいいながら、聞こえよがしに大げさに言うので、私はなにをするにもオドオド行動している。
人が見ても恐妻家でも亭主関白でもないはずだが、このイライラはなんだろう。特に分析などしたくはないが、ここ半年でこの傾向が強まった。
メシが喰えるだけの年金額なので、始終旅行出来るほどではないし、加齢に連れて病院通いが増え、いざというときのために少ないが貯金には手を付けられない。どちらにせよ、金の管理はカミさんが握っており、私はいろいろなバイトで小遣いを稼がなければならない。私の方がストレスが溜まっているのだ。
あまりのしつこさに時には「うるさい!」と大声を出してしまうが、このパターンは結構精神的にきついものがある。カミさんにその自覚や悪気がないので余計始末が悪い。
互いに言い争うのは好きではないので、その後には気まずい沈黙の時間がおとずれる。会話のない日がときには3,4日になることもある。しかし不思議なもので、日常の受け持ち作業は淡々とこなしている。炊事洗濯はカミさん、風呂掃除や布団の上げ下ろしは私という具合だ。「阿吽(あうん)の呼吸」といえば理解してもらえるだろうか。だが会話がまったくない状態は不自然だし息が詰まる。
そこで私は互いに持っているノートパソコンに目をつけた。「家庭内メール交換」だ。口をきかなければ面子は立つわけで、メールだったら口から音を出すわけではないから話をしたことにならない。
[夫ー晩飯は天ぷらが喰いたい]と出すと、しばらくして[妻ー材料をリクエストせよ]と返事が来る。なにを偉そうに、命令形なんか使いやがってと思うが、[夫ーエビとゴンボウとアナゴ]と打つと[妻ーアナゴはないからアジにする]と来た。もう少し色気のある文に出来ないのかなと[夫ーアジ天いいねぇ。歯触りが好き。ついでに君も・・・]などと返信していると、だんだん落語の長屋の夫婦になってくる。
[妻ーあたしはアジか?!]
[夫ーいやいや、君は今やクロマグロだよ]
[妻ーあたしはあんなにゴロンとしていない]
[夫ー世にもまれな高級魚という意味です]
[妻ー諒解]

喧嘩してはメール、のパターンを繰り返すうちに面倒くさくなり、振り返って「たまにはカラオケに行くか」「そうね」としゃべってしまう。いい年のジジババが背中合わせでメールする風景って、世間ではどんな風に見られるんだろう。まさに究極の至近距離メール交換だ。だがそのデータは時空を駆け抜けて来る。それが面白い。メモを渡せば同じと思うが、字を書く動作は気持ちが入りすぎる。
娘に言ったら「バッカじゃないの」と軽蔑されるのだろうが、なんといわれようと、今のれるに違いない。今のところ方法が我が家の平和には欠かせないようだ。

パソコンは日常生活に定着したアイテムの一つ。なんにでもこれを使ってしまう。少しお粗末だが、工夫次第で面白いという例になるだろうか。

Posted at 06:13 | エッセイ | この記事のURL
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地球(ほし) [2007年03月16日(金) ]
知らない道を見つけて
歩いていったら
潮騒が聞こえた
波の一滴が空に唄い
砂にまみれて泣いて
仲間の多くが
抱き合って蒼く光った

知らない星を見つけて
じっと見ていたら
ぶつかって燃えた
水の星は宇宙を泳いで
からだは崩れていき
赤いかけらになって散った

地球(ほし)よ
あなたに生を託して
蒼い星といわれたあなたに
抱かれて土に戻るとき
わたしも光って
星になれるだろうか

あなたをいたぶり虐め
罵りさへしたわたしは
あなたに愛されないだろう
ならば
空気を濁らす塵になってでも
あなたにまとわりつくんだ

地球(ほし)よ
あなたも哀しい星なんだね

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Posted at 13:51 | この記事のURL
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大牟田・万田を訪ねて [2007年03月15日(木) ]
昨日(3/14)、「文化財探訪」として大牟田市の石炭産業科学館と熊本県荒尾市の万田坑跡を訪ねる日帰りツアーに参加した。主催は田川市の石炭歴史博物館だ。約10時間の行程のうち、車中が5時間ときついが、38人が参加した。男女比率は約半分ずつ、年令はやや高めで、学芸員など主催者側のスタッフ4名を加えて、総勢42人である。
私が参加したポイントは、炭坑に対して筑豊とどのような違いがあるのか知りたかったからだ。
科学館は円形で洒落た外観である。10のテーマに分けられ、訪問者はボタン一つで大きなモニターを見ながら学ぶことが出来る。石炭の創世記、炭坑技術の歩み、大牟田が関わった歴史などに加え、400メートル地底に降りたという仮定の下に、各種の掘削技術やマシーンなどを体験できる。野外展示場では採掘切羽の天井を支えた自走枠が時代毎に並べられ、全体にゆったりした空間を持っている。
しかしハコモノの例に違わず、多分赤字経営だろう。営利目的ではないのでそれなりの存在価値はあるが、ウィークデイトはいえ我々以外に訪問者は見当たらない。広々した駐車場が空っ風に晒され、なんともやり切れない地方自治の実態がある。ここにあやかろうと出店したのだろう。科学館の倍以上はある面積には北欧風の大きな飲食店や池が哀れな姿で閉じられている。


ここで昼食の弁当が配られた。「炭都物語」と名付けられ、「土の中に石炭が埋まっている形を弁当にしました」という能書きが包装紙に書かれている。小袋にはスコップとツルハシをかたどった小物が入っており、一生懸命に考えた努力の跡がある。小間切れのコンニャクが石炭をあらわしていると聞いたが、
それ以外にもいろいろ注釈を聞かないと分からない、ちょっと辛めの高菜漬け弁当(750円)だった。



昼休み後、荒尾市の万田坑に向かった。
明治30年に始められた三池炭坑は、1469年に発見され、柳川藩管轄のもとに瀬戸内地方の製塩用燃料として売られたという記録がある。團琢磨が開発に大いに寄与し、日本最大の近代的な炭坑規模として発展したという。平成9年3月に閉山するまでの108年間(官営時からは124年)、日本のエネルギーを担ったわけだ。
万田炭坑館は、「近代化遺産・国指定重要文化財・史跡」を管理しており、ここから歩いて7,8分のところで第二竪坑が現役の姿と役割など知ることが出来る。



その途中の小径は文化財のため車は御法度で、私は例によって歩く苦労をする羽目になったが、なんとか雰囲気だけは感じることが出来た。この小径の両側には崩れかけた塀が連なっている。この中に炭坑住宅が棟為していたと聞いた。塀は煉瓦などで作られているのでかなり昔の姿が見られるが、肝心の炭住はかけらもなく、復元もされていない。草ぼうぼうの雑木林である。文化財とはいえ、当時の生活の匂いをなんとかつくって欲しいものだ。昔日の哀れのみが漂い、残念で仕方なかった。
余談だが、ガイドの説明に、この炭住にタレントの“ヒロシ”の家があったということで、「応援よろしく」ときた。

田川の博物館や取り組み姿勢と比較した場合、田川は住んでいた人間や環境を中心としており、手堀りの時代(山本作兵衛氏描く実録や五木寛之氏の小説)に重きを置いている。大牟田はその後の機械化した姿を科学的にとらえているといえる。中小の炭坑主が集まった田川の、長屋の人情や残酷な私刑などに比べて、大牟田の少し味気ない大企業感覚というところか。
帰路のSAで「ぽたぽた餅」や芋あんの饅頭を買ったがカミさんには不評で、風呂に入って酒を飲んで寝たという結末だ。






Posted at 13:22 | エッセイ | この記事のURL
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アメリカの民主党ってどんなポリシー? [2007年03月13日(火) ]
と思わざるを得ない。
他国(それも同盟国と言われる)の過去をほじくり出して、拘束力がないとはいえ非難決議をしようとしている。まるで中国やロシアを喜ばせて、それが生きがいのようだ。
それより、本当に自国を振り返って欲しい。
世界を少しでも平和にするべきいろいろな条約(小火器・地雷の制限、使用禁止や国際司法裁判所、アフリカから出された過去の奴隷狩りへの謝罪拒否、世界で一番原水爆やミサイルを持ちながら他の国は持つなという図々しさなどなど)を拒否したり、いい加減な環境対策、人種差別など、数えだしたらきりがないだろうに、世界の警察官にくわえて今度は裁判まで始めた。
共和党のネオコンから、今度は他人をけなすことによってアイデンティティを保とうとする民主党他力本願かいな。
ルーズベルトもトルーマンもハルもクリントンも民主党となれば、日本への態度もおよそ想像がつく。言いだしたらキリがないからやめた。

TITLE:トルコ猛反発 米のアルメニア人虐殺非難決議案 「穏健な日本」と対極|世界|国際|Sankei WEB
DATE:2007/03/13 05:50
URL:http://www.sankei.co.jp/kokusai/world/070311/wld070311000.htm

Posted at 06:08 | 政治 | この記事のURL
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楽しい楽しい菜の花畑 [2007年03月12日(月) ]

あっちこっちの川べりに行って菜の花を撮っている。飽きない。楽しい。
小さな春がいっぱい集まってワイワイ騒いでいるんだ。
世界に渦巻く主義や利益に首まで浸かった人間どもに関係なく、それでも人間に安らぎを与えてくれるーこれほどの無償の歓びをくれる菜の花であり川である。




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