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案山子 2 [2007年09月28日(金) ]


 “十日夜 (とおかんや)”
案山子の顔は「へのへのもへ」字
誰かわからない「へ」の口は
これでも久延毘古(くえびこ)という
尊い神様と言った
一本足の立ちんぼうで
気休めに居ると思ったら大間違い
「への」目は遠い
大国主神の国作りを見ていた

だけど
あんまり役には立っていない
雀が寄ってたかって
稲穂をついばんで
用心棒になっていない

だからこの頃は
「へのへのもへ」字をやめて
恐いマスク男になった
こいつは
とても悲しい物語を話す
知識があっても動けないことを
とても話したがっている

稲刈りが終わって
雑草の中でまだ立って
10月10日まで立って
それから山へ帰る
昔から人の手でいいように作られて
勝手に顔を描かれて
動かない哀しいパントマイム
それも十日夜までと言う






Posted at 14:20 | 写真 | この記事のURL
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案山子 1 [2007年09月27日(木) ]


田んぼがさみしくなってきた。
9割以上は刈り入れが終わって、切った後の稲株からは‘ヒツジ’と呼ばれる2回目の稲が出てきている。かなり青々したものだ。
これについて知り合いのお百姓さんに訊いたことがある。ヒツジが育つと小さいながらも穂がつくが、食するほどにはならない。なら、農産試験場に頼んで「二次育米」とでも名付け、なんとか喰えるようにしてもらったらどうかと提案したが、冷たい一瞥を返されてしまった。素人の安直な思いつきはアタマに来るらしい。いまだに結構イイと思ッているのだが・・・。
刈り取った後、早々に耕される田もある。そこには沢山のツチガエルが、本当に土の色そっくりに、イボイボをいっぱい付けて飛び跳ねていた。お世辞にもきれいとは言えないが、これも人間の身勝手で、蛙にとっては「大きなお世話」だ。これから土中で一冬を過ごして、来年また啓蟄過ぎには日だまりのなか、ひょっこり顔を出すのだろう。

彼岸花がそちこちに数本のかたまりになって咲いている。畦道の脇にはこぼれるばかりに球根がはみ出ていた。「これって毒だよね」と、何故か目を細めながら周りを見回してしまった。事実かどうかはともかく、イメージがあまり良くないこの花への偏見かも知れない。心休まる秋の風物詩なのに、自分ながら呆れた奴だ。だからか、稲株に足を取られて、思いっ切りひっくり返ってしまった。
そんなわたしをじっと見ている。案山子だ。見ているかどうか、目鼻のないのっぺらぼうだが、やましい人間には凝視を感じるらしい。
午後2時の田んぼは、やたらと陽射しが強かった。




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審判とは? [2007年09月25日(火) ]
『或る日或る朝、主人公が特別の理由もないのに突然逮捕される。やがて裁判にかけられるが、まるで事情が分からない。何もかも分からないまま、最後は主人公が刺し殺されてこの小説は終わる。』
カフカの「審判」である。不条理の典型として、よく例に出される。
なにがなんだか訳が分からないうちに本筋からどんどん遠ざかり、受ける審判も自分を避けて的をわざと外した結審をし、泣こうが喚こうが判決だけは自分に下される。冤罪者の多くはその状態に追い込まれるだろう。いくら事実と違うと訴え、その証拠が目の前にあっても、「一度下した結論は変更できない」と駄目押しされる。出来ない理由も示されない。人間が人間に行う間違いが、どうしてそのままの図々しい行為が世にはばかるのだ。
力関係だけでは収まらない、得体の知れない
流れというのだろうか。

納得出来ない結論を押しつけられて、悔し涙にくれた経験は誰でもあり、、それも一度や二度ではあるまい。
スポーツには必ずルールがあり、それに添って審判が下される。審判員(一定の規則に従って判定をする役目にある者。主としてスポーツの分野で用いられ、野球規則、オリンピック規則などの規則に従い判定する者をいう)の立場は、本人の意思に関係なく、そのものがかなり微妙である。先日中国で行われた国際的なサッカー試合で、日本対中国では、審判員全員が中国国籍と聞いた。これは微妙以前に明らかな間違いで、試合は目に見える日本側不利の判定を連発していた。結果は引き分けだったが、こんな試合運びで中国の人は満足するのかと、少々哀れに感じた。

シドニー五輪の柔道100キロ超級でダビド・ドイエ(31=フランス)と日本の篠原信一(27)との決勝戦では、篠原の返し技を判定する能力がなかった審判員が居た。一体どれほどの眼力があるのか、ましてや金メダルをかけた試合で、あまりにもお粗末な結果である。ビデオで確認すれば一目瞭然の内容を、審判員は非力を棚に上げて認めない。あんたらの自尊心なんか屁の突っ張りにもならないことを知りなさいよ、と言いたい。

最も新しい誤審例である。
【 時事通信 - ビデオ見ない審判に制裁を=浜口戦の判定で福田氏が抗議−世界レスリング
DATE:2007/09/24 12:12
URL:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070923-00000098-jij-spo
ここでも、大会委員がビデオで確認して誤審を認めたが、結果はひっくり返らない。これが解らない。不可解奇天烈なんじゃもんじゃのオナラがプーである。そう、文字にしたら滅裂そのもので、理解したなら躊躇なく恥を捨てて変更すればいいのだ。ルールで出来ないのなら、そんなものは常識で判断して変えればいいではないか。審判なんて、いうなれば間違いが当たり前という前提にある。不条理そのものを貫く意味や価値がどこにある。特にアマチュアは普通に判断できる当たり前のルールに従うべきだ。また、ビデオ判定も採り入れて、審判員はそれに従うべきである。

プロ野球の場合は、誤審か否かも試合を楽しむ要素になっているが、大リーグの審判能力はあまり高くないので、それが問題だ。口泡飛ばして監督あたりと言い争うシーンは、人間味があっていいが、明らかな間違いでも我を通すのは交通事故のときと同じだ。裁判で不利になるので絶対謝らないことと繋がった精神構造なのかも知れない。
これが国際関係にまで浸透している。
間違ったことは「間違った」と認め、屁理屈で不条理にだけは持ち込まないで欲しい。


Posted at 12:41 | 生活 | この記事のURL
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gonjiro日々 [2007年09月22日(土) ]
最近本を読むといっても集中できない。2,3ページ読んではホケーとし、キーを叩いたりテレビを見て、思い出しては読む。寝る前に読むのは永年の癖だが、これも寝付きが良すぎて、開いているのはせいぜい5分。5,6時間はぐっすり寝てしまう。眠いから布団にはいるのに、本を読もうとは踏ん切りの悪い限りだ。後はトイレだが、排泄と平行しているので5分とかからない。それにカミさんが「また持って入って!」と、持ち込んだ雑誌などをその辺に置いておくと、すぐ読み終わった新聞と一緒にされてしまう。トイレの棚には読みかけがいつも3冊はあるが、本棚に戻ることはない運命を思うと、そうそう持ち込みは出来ない。加齢と集中力は反比例らしい。

そんな中で「ふるさとは貧民窟(スラム)なりき」を読み終えた。ルポライター小板橋二郎著(ちくま文庫)による戦中戦後を通して少年時代を過ごした東京板橋区の‘岩の坂’近辺の長屋住人の生活記録である。単なる懐古ともいえるが、残念ながら今では多くが放送禁止語句になっている人たちの、赤裸々で凄まじい貧しさと人間性を感じ取ることが出来る。
なかでも昭和6年に警察が調べた「どん底の人達」として記した一住人のことが、次のように引用されている。
【井戸掘り業 斉藤仙吉 三十九才
   家族数及生活状況概要
右者、家族八名を擁し一ヶ月二十円内外の収入に過ぎず此を以て生活し居れるものにして長女及二女は目下奉公中なるも一銭の収入なし、職業に対しては極めて勤励なるも不景気の影響を受け昨今殆ど仕事なく四畳半の一間に家族を全部起居し居り、残飯食又は豆腐殻、甘藷などを常食とし時々欠食す為に小児の如き甚だしく栄養不良に陥り居りて実に悲惨なる生活をなし居るものとす】
(昭和6年の物価がよく分からないが、10年の統計では、白米10キロ 2.5円。焼酎 1.8g 1.02円となっている)
4.5畳に8人である。今の感覚で判断は出来ないが、空間が貧しいとだけは言える。生活保護などあるわけがなく、貧しいが故の飢えからは様々な生活苦が渦巻き、無学、心身共の病いから貧の連鎖と、よほどの幸運と努力がなければ抜け出せない社会構造になっていたと思う。格差が当たり前で、動かしようのない厳然たる壁が立ちはだかっていた。社会・共産主義にかぶれていなくても、心ある人は嘆いていただろう。
警察官が書いた文面の終わりあたりに、当時の官としては暖かさが感じられる。しかし如何ともし難い現実には手も足も出なかったに違いない。
ふと思い出したことがある。
静岡にいた頃、近くに5人家族が居た。父親は雇われ馬喰(馬を使っての運搬業)で、母娘と男子2人だ。12才だったわたしより3才年上の子とよく遊んだ。家は掘っ建て小屋よりはマシだが、窓ガラスはなく、戸板をつっかえ棒で開けていた。6畳ほどの板の間に1畳の台所と風呂場の土間があり、家に入ると独特のすえた匂いがした。近所から少し離れたところに建っていたせいもあったが、周囲からは敬遠気味に「遊ぶんじゃないよ」と言われていた。その頃から反発ばかりしていたこともあって、ケンケンやらメンコで遊んだものだ。昭和27年であっても、そんなところは結構あった。

【馬車挽業 三村三吉 五十三才
    家族数及生活状況概要
右者、妻以外に五人の家族を擁し先月中の収入二十七円位にして真面目に業務に従事し居れるも不景気の影響を受け昨今仕事なく四円八十銭の家賃を支払ひたる残余の金を以て生計を維持し居れるものなれば時々欠食することあり、残飯或ひは甘藷などを常食となす悲惨なる生活状態にして
小児等は皆栄養不良に陥り居れり】
以上も同じような状況で、多くの世帯が彼らのような生活ぶりだったようだ。

無頼の時代を克明に描いている本だった。

Posted at 14:15 | エッセイ | この記事のURL
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メダカへの想い [2007年09月21日(金) ]


またメダカを飼いだした。
先日実りの田んぼを撮りに行ったとき、巾30センチほどの側溝でメダカどもを見つけた。なかには鮒らしき大きな魚も見えた。群をなしている。これはひょっとしたら網で捕れるんではないかと、少年の心がよみがえり、そのまま100円ショップで昆虫採集用の網と小さなポリバケツを買った。
それを持って帰って、カミさんに「あした、メダカいっぱいつかまえてくるかんな」と意気込むと、冷たく「んなわけ、ない」のひとこと。
そんでもって、昨日「みてろ、往年のタモさばきを」と水路に立った。水がいくぶん減っている。側溝の深さもけっこうあり、日の照り具合で水面が見にくい。温度が下がったせいか獲物も少ない。
「こりゃ、やばいな」と思ったが、ここで引き下がるわけにはいかない。
上流に向けて網を入れ、静かにのぼっていった。3回ほど繰り返したが、網が白いせいか、まったく引っかからない。
どこかの物好きなジジィが昆虫採取用の網でかき回し、よっぽど捕るつもりなのか、不釣り合いに大きいポリバケツをしっかりぶら下げて、子供顔負けに夢中になっている。こんな風景は最近滅多に見られないのだろう。農道を行き来する車は速度を落として、物珍しげに顔を覗いていく。
約30分ほど炎天下でがんばったが、季節外れのメダカ取りは不調に終わった。ゼローそれ以外のなにものでもない。
しかし大口を叩いて出てきた手前、こんなことで帰れるものではない。いろいろ言い訳を考えたが良い策を思いつかない。あれしかない。
釣り人が釣果ゼロのときの家人対策である、古典的な「魚屋さんで仕入れる」方法だ。そこまでしなくても正直にありのままを言えばいいと言う人もいるだろうが、中途半端な人間性といおうか、へんてこな意地が捨てきれない。
この魚屋さん方式は、例えば出来た奥さんだったら分かっていても「アラ、すごいじゃん」とすべてを受け入れてくれるが、うちのカミさんのように鋭い嗅覚と攻撃性で生きているタイプは、完膚無きまでに暴き、「だから無理だっていったじゃないの」と、ひたすら自分の正当性のみをぶっつける。確かに姑息な手段だったに違いないが、亭主の意地ってものを尊重してもいいではないか。
こんなふうに想いを巡らし、近くのペット屋で黒メダカを10尾ほど仕入れて、しらを切るか誤魔化すか、運転しながら判断を決めかねていた。
まだ刈り入れ前の稲穂が重く垂れ下がる農道は、影が濃くなり、盛夏が過ぎたことを告げていたが、温暖化のせいか名残はあちこちに見えた。
メダカ取りには失敗したが、この辺で農薬が使われていない証しとしてメダカ発見はとてもうれしかった。
だからか、「おい、買っちゃった」と正直に先手を打って告げると、カミさんは最初の予測が当たって機嫌がよく、「そう、買っちゃったの」で終わり、七面倒なやりとりをせずに済んだ。
買うときに驚いたのは、黒メダカ以外にもいろいろな種類が居ることだ。ヒメダカは赤っぽく結構一般的だが、他に、青メダカ、白メダカ、茶メダカが居る。ちょっと調べてみた。

【メダカには4つの色素があるそうで、その中の黒色素胞、黄色素胞、白色素胞の3つの色素を持っているかいないかで色が決められるという。
“ホタルメダカ”は、背が光るメダカで、目の縁や腹にある虹色素胞が背中にあるため。背びれのと尾びれの形が普通種と異なり背びれはしりびれと同じ形をし、尾びれはひし形をしている。
”縮みメダカ”は、普通種と比べると脊椎の数が少ない為に縮んでみえる。普通種が水温の高い環境下で突然変異で体が縮んでしまったといわれている。
ヒカリダルマメダカは、上記の特徴を同時に持ち合わせているとても珍しい個体で、風船の様にふくれた体で背の部分がピカピカと光る。
アルビノは、生まれつきメラニン色素のない個体で、目にも色素が含まれていないので、血管が透き通り赤い目にみえる。】

今でもどんどん新しい品種がつくられつつある。金魚は鮒の改良種と言われ、多種多様な形が見られるが、まさかメダカもその類かとびっくりした。わたしゃやっぱり、小川の黒メダカが良い。どこかのバカが改良種を小川に放流しないよう願うばかりだ。個体の純粋を守るのは人間の責任である。
少しは偉そうにしないと、単なるメダカおやじでは格好がつかない。いや、それでいいんだ。
こうやってじっと見ていると、不思議に一尾ずつの違いが分かってくる。雌雄は背びれ腹びれで判断がつく。体ばかりでかくて鈍いやつ、水草の下で哲学者みたいに考え込んで動かないチビ、餌ばかり食い続けている過食症のデブと、群れていても性格の違いがある。こっちの見方に問題があるかも知れないが、それはそれでいい。飽きない。
「お利口さんだね」「バッカだなー」と勝手に楽しんでいる。と言っている間に、メダカたちは檻を抜けて青空へ散っていったようだ。

Posted at 14:05 | エッセイ | この記事のURL
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あえて‘ドイちゃん’ [2007年09月19日(水) ]
【ピンク・レディーなどの振り付け、土居甫氏が死去
 土居甫氏(どい・はじめ=振付家)14日、悪性リンパ腫で死去。70歳。告別式は18日午前11時30分、東京都三鷹市下連雀4の18の20禅林寺。喪主は長男、秀充(ひでみつ)氏。
 テレビ番組「シャボン玉ホリデー」への出演のほか、「スター誕生」に参加し、森昌子、桜田淳子、山口百恵の「花の中三トリオ」や、ピンク・レディーらの歌の振り付けをした】(2007年9月14日19時20分 読売新聞)

なるほど、人は亡くなってその価値が更に広く世に知らされる。ドイちゃんもその一人といえる。「ドイちゃん」などと、さも親しげに呼ぶことに気が引けるが、事実そう呼んでいた。
新宿「どん底」の同期生といってもいい。
2階のカウンターで所在なく頬杖をついていると、とっぽい格好で「元気?」と、ハスキーに声をかけてきた。突っ込んだ話をした記憶はないが、こうして故人になると、もっと話を交わしておけばよかったと、はなはだ残念だ。
当時はダンサーとして踊っていたのか振り付けをしていたのか、はっきり知らない。なにをやっているのか深く知ろうとも思わなかったし、そういう場所でもあった。魅力のある
人物だったことは間違いない。
1960年代の熱気の渦は今から振り返っても凄まじい。カオスに嵐をたたき込んだ状態の中で、自分をつくっていこうと皆もがいていたように思う。新宿騒乱など全共闘と年代は違うが、あれはあれで「どん底」に逃げ込んだ若者をかくまったという逸話があるような青春だった。
振り付けに賭けた土居甫と違い、わたしは67年を結果として無為に過ごしてきた。哀れなほどなにも残っていない。自己表現も中途半端で、自分に自分でビンタを喰らわせても「なに?」と鈍いマナコの瞼が更に下がってしまう。

心からドイちゃんの冥福を祈る。人間として羨ましい燃え尽き方である。

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少年 [2007年09月18日(火) ]


苛立ちまさぐり
自分の中に深く深く潜り込み
モグラのように時たま地上に出るが
やはり外は見えない
見たくないから目をふさいで
また自分にぎこちなく
否応なく戻っていく

少年同志は
互いに相手に潜って
感触が同じか確かめ合い
開けた穴を通じて
行き来し合い
ときに外敵を見つけると
同体になってブチ当たる

目立ちたいだけのパフォーマンスが
暴走の吹かし音になり
蛇走りになり
タコ踊りのみっともなさになり
ハンドクライマーになって
手探り突起を見つけて
上へ上へ上がりたがる
果たして何があるのか知りもせず
必要ともしない
特権である無目的の目的に
ひた走るために
ナンバーを外したバイクを
磨き光らせ
自分だけの輝きを探すのだ

いつの時代も
少年はモグラになってきた

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捨てられた家 [2007年09月17日(月) ]


空き家はあばら屋に通じ、廃屋の前兆である。
歴史的な遺跡は世界のどこでも大切に管理され、“文明文化のなれの果て”とは誰も思わない。過去の暮らしぶりはすこぶる魅力的で、わたしもポンペイやオリンポスなどにわざわざ出かけて、薄茶色に変色し風化も甚だしい石で出来た柱を撫でたり、背景の碧天に未だにそそり立つ神殿を仰いでは、紀元前の人の生業を想像したものだ。歴史の魅力は想像力から源を発しているように思える。

過去に執着するわけではない。また昔を振り返って、今の自分を見つめ直すなどという哲学みたいなメンドクサイことでもない。どんなものをどんな風に食べて、どんな風にしゃべったり喧嘩したり、出来れば何を考えていたのかを知りたいのだ。考古学でも文化人類学でもない。勉強嫌いなわたしには、分析したり時間系列に整然と並べたりが生まれつき出来ない。人が苦労して書き上げた本を盗み読んで、自分に都合のいいところだけを拾い上げる能力はそれなりに持っているので、現場と照らし合わせて、更に想像するだけだ。
未来は「無い」ものである。現在に埋没して
しまったわたしには、正確な予測など出きるものではない。ただ、過去・現在・未来という軸を通して、かすかに朧気に先の匂いを感じ取るぐらいだ。
というわけ(どんな訳?)で、わたしにとっては遺跡と同様に、廃屋に興味を持つのである。
時間の経過は事実を変えていくことがあるので、家族構成や生活基盤は分かっても、喜怒哀楽の表現までは正確に掴めるものではない。人手が入らず、蔦に任せッきりで風雪で錆びたトタン板は独特の雰囲気を見せている。
中は見られないが、台所の隅に打ち捨てられた人形や割れていない食器、古いカレンダーの赤印、黄いばんだ新聞紙など、どこにでもある散乱した、生きてきた物的証拠品を繋ぎ合わせて、イメージを表現しやすい方法(詩など)であらわしてみる。
興味のない人には「なに、やってんだい」だが、遺跡同様、現状プラス想像で、自分なりにその空間を知ったつもりになるのが面白い。小さな歴史探訪になるのかも知れない。





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おとこえし [2007年09月16日(日) ]


「おみなえし」という名は秋になるとよく聞くが、何故か「女郎花」と書く。
開花時期は7月下旬から10月中頃。けっこう清楚な黄色だ。
ちょっと調べたこと。
[「おみな」は「女」の意、「えし」は古語の「へし(圧)」で、 美女を圧倒する美しさから名づけられた。 また餅米で炊くご飯(おこわ)のことを「男飯」といったのに対し、「粟(あわ)ごはん」のことを「女飯」といっていたが、花が粟つぶのように黄色くつぶつぶしていることから「女飯」→「おみなめし」→「おみなえし」となった、との説もある。漢字で‘女郎花’と書くようになったのは平安時代のなかば頃から、と言われている。]
さほどきれいな花とは思わないが、楚々たる味わいは認める。

撮ってきた写真は、それに対抗するわけではないが、男郎花 (おとこえし)らしい。
違うところは色が白く、夏も終わる頃に咲く。女郎花より茎や葉は大きいみたいだ。
しかし後が悪い。別名を「敗醤(はいしょう)」と言って、 花瓶に生けておくと、醤油の腐ったような匂いがしてくると書いてある。どんな匂いか想像もつかないが、嬉しがることではない。昔の人は自然に誠実だったのか正直だったのか。小さく可憐な花でも「ハキダメ菊」と名付けられるより良いかも知れない。




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山田千里で津軽を想う [2007年09月15日(土) ]

「人間は最も激しい孤独感に襲われたとき、最も好色になる」と、坂口安吾は言った。
好色とは生きるために追いつめられて、それを表現するための究極の方法だと思う。
この伝でいけば、津軽三味線の叩き、弾きは生命力の強さを高らかに謳いあげていることになる。

吹雪が道連れながら、そうそう悲愴なものではなく、カンジキを無くして深い雪に足を取られても、行き倒れることなく家の灯りを見つける能力があったのではないだろうか。
搾り出して芸能にまで生きる術として創り上げた太棹の世界は、何と表現していいのか分からないが、評論は抜きにして聴くと、津軽だけに限らない日本人の業の魅力に取り憑かれてしまう。それが、山田千里にある。

久しぶりにレコードのLP盤をいじくっていると、M・デイヴィスや岸洋子などの中に“津軽三味線・津軽恋情曲」というタイトルで、山田千里の演奏を見つけた。タイトル曲の他に、津軽三下り、津軽よされ節、おはら節、あいや節、津軽響奏曲、旧節・中節・新節ー津軽じょんから、津軽たんと節が収録されている。

ジャケットは、瞽女(ごぜ)の絵で著名な斉藤真一氏によるもので、そのシリーズの一枚と思われる。
【1961年(昭和36年)津軽を旅し、初めて瞽女の存在を知り、1965年(昭和40年)より10年を費やし越後に通い瞽女宿をめぐる。その結果が瞽女シリーズとして登場する。1971年(昭和46年)“みさを瞽女の哀しみ・越後瞽女日記より”が第14回安井賞展佳作賞を受賞。また、1973年(昭和48年)随筆、瞽女をテーマに独特の精神世界を描いて、日本エッセイストクラブ賞受賞する。雪深い津軽地方での三味線を弾き語る瞽女さんたちを世に知らしめた斉藤真一。文学と絵画に孤独と情愛の世界を描画名作瞽女シリーズを生む、かれらは美術史上に残る異色の傑作となった。】

人によって冬の津軽のイメージは当然違い、斉藤氏の吹雪に揺れて涙する緋色の瞽女は、曲を聴く限りあまり連想出来ない。
特に「津軽三下り」は、灰色に垂れ下がった雪雲、潮も凍る海沿いの波打つ薄穂、野づらを吹き抜ける中、一組の男女が襟元を押さえ、互いにすがって見えない明日に向かって歩きつづける。視界はモノクロで、イメージが貧弱な私には、心の奥深くが緋色に燃え立っていることがわからない。
ながい冬、凶作、飢え、巡り舞い上がる愛憎ーそんなところで欲しいのは‘人の肌’に違いない。単調にバチを叩きつけ、こまやかに囁く爪弾きが繰り返され、久しぶりに目をつむって音に聴き入った。
本州北端の、いつも圧迫されてきた人々の袋小路に喘いできた心情が、じょっぱり(依怙地)となって、津軽人の誇りとして、個性豊かな狂おしい音色を生み出したと思う。
ただ、そのような風土や現象が希薄になった現代では、音曲としての魅力は残って、若い人たちが次々に新しく取り組みだした。テクニックも素晴らしいものがあるが、どうしても津軽三味線をまとめ上げてきた高橋竹山や木田林松栄、それより前の白川軍八郎ら先達
と比べてしまう。やはり「哀愁」は即席で出来るものではない。新しい解釈が当然生まれ出るが、底を流れる瞽女の怨みや愛をくみ取れるか期待してみていきたい。

Posted at 12:06 | エッセイ | この記事のURL
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