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「種」が消えていく [2007年11月29日(木) ]


CNN.co.jp : 米サウスカロライナ州だけで53種の鳥類が絶滅の危機 - サイエンス
DATE:2007/11/29 18:13
URL:http://www.cnn.co.jp/science/CNN200711290017.html

いま環境問題をいうとき『リベット抜き』という言葉が使われている。
種の絶滅は、飛んでいる飛行機からリベットを1本ずつ抜いていくように進んでいることを表している。
共同通信記者の井田徹治氏が書いた「ウナギ」(岩波新書)を読むと、未だにウナギの産卵シーンを見た人は居ないという神秘を持つが、漁獲量が激減している。日本の川でもどんどん穫れなくなっていて、ある学者は「ウナギがいる川には健全な生態系が残っている」というほどだ。そういう意味ではまさに‘キー・ピーシーズ’=鍵になる種である。
人間は生き物の管理をするようになって食では豊かになったかも知れないが、そんなことでは済まない環境汚染が生態系を壊しつつあるらしい。鮪も同様という。
食料にならない生き物の動向には、普段はあまり関心を持たない。蛙の病気もすぐ日本に上陸するかも知れないし、ここ何年かは鳥インフルエンザなどという、少し前までは考えられないウィルスが生まれ、いつどこから来るとも知れない空からの恐怖もある。
注意して周りを見わたすと、リベットは毎日毎月抜けていき、20分に一種が消えていっているとも言われる。
確かに飛行機は数万本リベットが使われているが、現在何本抜けており、あとどれくらいで空中分解するのかも分からない。
人間は“技術”で便利や効率をもたらし、みんな恩恵を受けてきた。いまも享受している。1960年代のレイチェル・カーソンはすでに「沈黙の春」で現在を予告していた。だが、経済優先を国是とするアメリカや先進国は選挙に勝つために汚染をないがしろにし、途上国はそれを真似して「汚染の権利」を主張している。
ツバルやモルディブという現実があるにもかかわらず、結局は黙視し、自分にそれが降りかかったときはすでに「遅い」のに、リベットが最後の一本になって、あわててガムテープをベタベタ貼り付けることになる。
それだけならまだしも、様々な欲得でドンパチを繰り返している。世界が一つになって、一度飛行機を着陸させ、全員が整備士になって傷だらけの機体をオーバーホールしなければ、イスラムもキリストも、石油や鉱物にうつつを抜かすのも、意味のない権力も、そんなものはなんの意味もなくなる。
先のないわたしはともかく、息子やその子供たちに日々おののきと失望しか残せないことになりはしないかと、あまりにも大きな、そしてあまりにも身近な現象に戸惑うばかりである。

Posted at 19:05 | 日記 | この記事のURL
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ふと昔に [2007年11月26日(月) ]


今朝早く、高台にある市営の競技場へ行ってみた。ここには初めてで、散歩やジョギングの人がポツポツと居る以外は静かなものだ。昨日は少年サッカーの試合があったと聞いていたが、その賑わいは畳まれていないテントに残っているだけで、すっきりというより淋しい空間になっている。

この頃、昔をふと思い出すことがある。
普段は半分呆(ほう)けていて、頭の中は固有名詞がどんどん消えていき、「あれ、それ」が巾を効かしている。カミさんも同じで、そのうえ年寄りの特徴の一つである「自分の言いたいことばかりしゃべって、相手の言っていることには生返事」傾向がともに強く、その結果を想像すれば下手な漫才よりトンチンカンでは引けを取るまい。
加えて、「言った言わない」の争いだ。「ここにあると言っただろ」「そんなこと、聞いてないわよ」の繰り返しだ。その都度、次から録音しなきゃあねと言いつつも、5分後には繰り返している。

こんな中、何とはなしにRという人物の名前をフルネームで憶い出した。芝居の本を読んでいて(そういえば)と、1960年後半に
時間が戻り、ついでに「劇団カッパ」のこととなる。素人の集まりだったが、年2回の公演や巡業?のために、幼稚園を借りて週2−3回稽古をした。その仲間のひとりがRである。
そこで早速検索をかけると、なんと今でも「しずおか演劇祭実験劇場」に所属して頑張っていた。今見つけたばかりなので、直接連絡していないが間違いない。わたしより年上だから70才になんなんとしていて、役者として頑張っている。書き込みしてきたのでなんらかの反応があるだろう。楽しみだ。
青春を過ごした静岡の断片が未練たらしく貼りついていたが、とにかく嬉しい。

Posted at 19:15 | 日記 | この記事のURL
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うん [2007年11月24日(土) ]


うん
ぼくは沈んでるんだ
狭くなって窮屈になって
ぶっ壊していいのならそうしたいけど
出来ないから沈んでしまうんだ

うん
どうなんだろう
わからなくなって沈んじゃうのかな
空は晴れてるよ
きれいな色がいっぱいあるよ
でも沈んじゃう

うん
おいしい朝ご飯食べたよ
新しい新聞読んだよ
連ドラも観たよ
それでも沈んで
昨日と変わりないから沈んで

うん
鉄の塊じゃないんだから
いつかは浮くよ
明日になったら
大きな川の真ん中で
浮き輪もなしで
ドンブラドンブラ浮いちゃって
どこへ行くのか
わからないけど浮いて

うん
今度はどこへ行くんだろう
沈んで浮いて
どこへ行くんだろう

Posted at 05:19 | | この記事のURL
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格付け=権威か? [2007年11月22日(木) ]


銀杏が本当に散り始めた。
街中にいると、人々の装い、店頭の野菜などで秋を知るのだが、秋から冬への着替えという点では銀杏の色づきを見るのが手っ取り早い。風が一吹きするたびにヤケになって散っていく。黄金色の魅了を知っているように、これみよがしに三角形の出来損ないの葉っぱが一旦高く舞い上がり、ヒラホラ足元を敷き詰めていく。空気はやっぱり冷たくなった。

ミシュランというタイヤ会社が世界のあっちこっちの食い物屋のランク付けをしている。
星印3個が最高で、2個1個もそれぞれ意味があるとか。数ではパリ、ニューヨークを抜いて東京が1番になった。何ごとも1番は良いのだが、思った通り東京に住む一部の方々は大騒ぎだ。多分、この道では権威があるのだろう。
今日、詳しい内容の本が発売になった。料理はもちろん、品格や清潔さ、もてなしなどが記してあるらしい。格付けの結果と理由が分かる。
こういうとき、必ずわたしのようなひねくれ者がいる。ミシュランが格付けした。ミシュランの基準である。そんならその格付け内容を格付けするのは誰なんだ。
確か、アメリカあたりで企業のランク付けをしているところがある。金融業、製造業などのジャンルに分けて、「これは伸びる、これはヤバイ」と、世界中の会社を舐め回して評価する。評価する側のチェックはだれがするんだろう。
今や少なくとも日本で大企業といわれるところ、老舗といわれるところの一部は、自ら信用を失墜させている。あんな大きな会社がインチキしたりごまかしたりするはずがないーそれが「する」のであり「してきた」のであり、他も「するであろう」と思われ始めた。権威や信用で培われてきた“名前”がドロドロ溶け始めている。残念ながら教師、医師、警察という、我々の世代では三大権威といわれてきたところも、時には「スケベ、ゴマカシ、ウソ」3要素が当たり前になり、公務員の公務員たる姿勢はいうに及ばずだ。厚顔無恥は何世紀経とうが死語にならず、歯ぎしりしすぎて臼歯が馬並にすり減るのも当分続くようだ。
正義=権威を謳ってきた国アメリカになぞらえば、正義などない。あるのは武力の強弱による恫喝の仕方がうまいか下手かだ。中国、ロシアも同じで、日本政府はあっち見てウロウロ、こっち見てソワソワの部類にはいる。弱いなら弱いで、泳ぎ方ぐらいズルするならまだしも、その勇気さへない。そのくせ、政治家さんの中では「大物」と自他共に格付けされたとされる人もいる。

こんな風に、誰がなんのために「格付け」して喜ぶのか、わたしには分からない。そうです、わたしは貧乏人です。だから三ツ星の2万3万する食い物は、わたしにとってはもはや食い物ではないのです。喰えないものは食い物ではないからです。

せっかく物静かに語りだしたのだが、やはり日頃溜まっているウップンがどうしても洩れてくる。お屁だったらバッ!!の一発で済むが、世の出来事への不満は五臓六腑にしみ込み加齢臭になって、カミさんあたりから文句を言われる。これはいくらゴシゴシ洗おうとコロンをぶっかけようと決して無くならない。新聞テレビネットから遠ざかれば自然消滅して、本来の得も言われぬ芳しい香りを発するというわけだ。分かってくれないだろうな。
星は星でも、わたしは七つ星テントウ虫を見ていたほうがいい。食べはしませんよ。







Posted at 17:00 | エッセイ | この記事のURL
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せせらぎよ戻れ [2007年11月18日(日) ]


せせらぎよ戻れ
メダカがかわいい。
買ってきた9尾のうち、不注意で1尾排水溝に流してしまい8尾となったが、♂2尾♀6尾は元気な姿を見せてくれる。
今もほぼ毎日産卵しており、1次稚魚が20尾、2次稚魚は30尾、3次は20尾と、三世代に渡ってそれぞれ成長している。子供たちの世話と採卵はカミさんがせっせせっせと取り組んでいて、それも嬉しそうに励んでいる。
昼は陽が出ている限り日光浴させ、グリーンウォーターといわれる藻を水槽内に発生させて、メダカたちの自然食にしている。
わたしは泳ぐ遊ぶ姿を楽しんでいるが、カミさんはそれにはあまり関心がない。繁殖の喜びだけで満ち足りているようだ。
上から覗くとサッと水草の陰に身を潜めるが、透明の横からでは逃げるどころか寄ってくる。こっちが口をパクパクして音を出すとみんな珍しそうに顔をこちらに向ける。
エサをやる前に水槽の横を軽く指でトントンと叩くと、スーッと水面に上がってきて催促する。かわいい。

そもそもメダカは大した奴ではない。
すくいあげるとピンヒョコ跳ねるフナと違って、多くはシナッとして動かない張り合いのない奴だ。棲んでいるところは大方澱んだ水たまりで、ほんの少し流れはあるものの、増水して急流になると流れに逆らうどころか、サッサと身を任せてしまう。無理もない。大きくても4センチぐらいで、こんな奴が目の色変えてサケに倣って溯る姿は気味悪くなる。田んぼや小川が汚れてしまい、なにか言う暇もなく、当たり前の‘そちこち’からどんどん消えてしまって、蟻やバッタのような存在が稀少になってしまった。誰のせいだ、人間のせいだ。

そのメダカを品種改良と称して、青だの赤だの色づけしたり、体を短小にしたり透明にしたりしている。それを売る人間がおり買う人間が居る。その上、飽きたとか自然に棲んでいる数が少なくなったからと、地域の個体性も考えず放流する人間がいる。
飼育と称して、水槽に入れて楽しむわたしも同類かも知れない。どうせ自然の中でも小さな世界しか持たないと、勝手に自分に都合よく解釈して正当化している。でも、君たちをいつも身近に見ていたいんだ。ごめんなさい。





Posted at 18:00 | 写真 | この記事のURL
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 [2007年11月18日(日) ]


かすかに燃えて
原始の朱が
よぎる風で小さくパチパチと
燃えだして
わたしのコアに燃え移り
やがて葦の原が
マグマになる
冬の予言はさみしい
燃え立ってもさみしい

自分と重なり合って
寂寥が生まれるのかも知れない
そんな色だ
そんな朱の色だ

Posted at 05:45 | 写真 | この記事のURL
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自由律 [2007年11月16日(金) ]
隠れ逝く犬猫は 本当に迷わないのか

山車のバレンは少年の憂鬱 夏が来る

向日葵は 夏の目ン玉 山雀とまる

食後三十分 狭心症の薬 日だまりに待つ

写真の猫 アイラインの媚びが妖しげ

逝く人の 潤う目玉は 悲しゅうございます

流れは堰で止まるくせに 自分の堰は壊れた

田んぼの闇に月 お母さま見て下さい

めだか小さく稚魚小さく卵なお小さく生きる

湧き流れる朝霧に 陽の亡霊

会って涙する人 去って涙する人

知らなければ傷つかず 狡猾に生きる

冬の田枯れ 図々しく薄穂 月を観る

山が沈み 海が昇り 人はなお喰らうばかり

 

Posted at 19:36 | 自由律 | この記事のURL
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秋の陽 [2007年11月14日(水) ]

弁当の時間になると
安倍君はいつも居なくなった
居なくなって探すと
鉄棒の砂場で空を見上げている
ぼくも横に座って
11月の風を受けながら座って
蒸かし芋を半分に折った
その前に安倍君は
すっと立って川畑の方へ
空を見ながら歩いていった

教室で釘の抜けた椅子に座って
窓の外を見た
色が白くて大柄な紀子が
友だちとゴム跳びをしていた
スカートがひらめいて
白いズロースが見えた
ぼくはびっくりして
少年画報の漫画を読み直した
読んでも
何を読んでいるのか
全然分からなくなったので
机の教科書入れに突っ込んで
風でカタカタ揺れる
窓硝子の音を聴いた

陽が射し込んで
木の机が少し暖まって
コガタナで彫った
ゆがんだ正三角形を指でなぞって
午後の数学の時間を嫌だと思い
地球座にかかっている
西部劇三本立てを見に行くと決めた
お腹が痛いとさぼって
「荒野の拳銃王」「無法者の逆襲」
「悪漢バスコム」を見に行った
田んぼから町なかまでの一本道は
土ぼこりのつむじ風が舞い
じっと前を見据えて
保安官と騎兵隊とインディアンと
早撃ちの悪者と草原と美女と
気持はスクリーンを超えて
映像を自分のものにした

木造の机や椅子は遠のき
後ろめたい冷たさが
固いシートにしみ込んで
煙草の煙のなかからの銃声に
無理におののいて
過ぎる時間にもおののいて
やがて家に帰る道をおもうと
寒々しい嘘をおもうと
身が縮こまっていった

教室の机に
今日も陽が当たっている
安倍君は休んでいる
紀子は遠い校庭の隅で
ゴム跳びをしている
ぼくは覚悟を決めて
教科書の分数を見て
寝てしまった
三本立ては当分見られないので
寝てしまった

Posted at 11:04 | | この記事のURL
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まとまらないメディペチャ結果  [2007年11月13日(火) ]

*この2階にて

福岡医師会主催による3回目のメデイペチャが飯塚のコスモスコモンで開かれた。
各地から10名のモニターが集まり、医師会理事や医師が出席して、約3時間、意見交換が行われた。

前回の女性Bさんの経験談が、小泉医療改革のひとつの例である。
末期癌で点滴のみの患者(父親)が、2ヶ月経つと転院を半ば強制されている。これは治療より療養ということで、3ヶ月過ぎると病院の収入が下がる制度があるかららしい。やたら複雑で、役人がこねくり回した保険制度は、とにかく医療費を抑えることが主眼で、それに患者、病院・医師が巻き込まれている構図だ。要するに日本国は貧乏だから、厚生が成り立たなくなりつつある、甘ったれるな!と言いたいらしい。
また、医局制度の功罪をしっかり総括しないまま廃止したことが、医師確保の上で格差がどんどん拡がり、加えて、リスクが高く労働条件が厳しく訴訟率が他科に比べてダントツの小児科産科の医師が逃げ出している。
小児科は夜間診察が多いが、その多くが軽度患者で、本来重い患者に割く時間が無くなる状態になるらしい。地元のI病院では電話で適切な助言をしたり、来院患者を程度で分けて対処するようになってから、医師の負担がかなり軽くなったと聞いた。
男性Cさんの父親は80才を越え、入院治療中だったが去年亡くなった。その前に手術をする際、医者から「年取っているから」と、もしもの時の言い訳のように言われていた。結果として手術痕が化膿して死に至り、Cさんは未だに医師に対して不信感を持っている。

日本の平均寿命は、先進国30カ国中1位。乳児死亡率の低さは4位。医療費は一人あたり19位で、GDPに対する総医療費の比率は22位だ。医師の数は1000人当たりで27位と低い。結果として、WHOも指摘しているように、コスト、質で日本の医療制度は世界一なのだ、今までは。

ダカーポ11/21付けの記事から拾い読みをしてみた。
小泉改革で、我々が「純チャーン」などと言いだした頃から、窓口負担はどんどん増え、ベッドが減らされ、75歳以上の新医療制度では新しい保険料が取られることになった。それも年金から天引きというあくどさだ。
いつもも思ってきたことだが、介護保険料は勝手に決められ、徴収方法や日付まで勝手に決めて、結果だけをポンと送ってくる。一度忘れると、「手数料100円プラス」やら「強制徴収」と、まるでヤミ金である。そのくせ事業は民間に丸投げして、介護が受けられない人、安い賃金でハードな仕事に我慢している介護スタッフだ。

そもそも少ない年金から健康保険料と介護保険料を差し引いたらいくら残るのか、政治家や役人はどれくらい理解しているのやら。彼らは何かというと「金がない、財源は?」と言うばかり。金がないから増税という、言ってみれば誰でも出来る施策である。ク○役人の厚顔無恥な税金大食いと、それを制止できないか便乗している政治屋である。目で見、身で感じる無駄遣い禁止や省すべて業界向けの体質改良が果たして為されているだろうか。
テロ特措法で油云々もいいが、それよりも生きるか死ぬかに置かれた人間の叫びを心から受け入れなければ、馬鹿げたアメリカ追従など真摯に考えられるかってんだ。
このまま時に任せ、いい加減な政策を放っておくと、尊敬するマイケル・ムーアの『シッコ』以上に、貧乏人は無慈悲な医療制度に更に泣かされることになる。いや、今も療養ベッドから「出ていけ」と追いだされている人がいる。
OECD統計では、総医療費の対GDP国際比較はアメリカの15.3%が一位で、先進7カ国中日本はどん尻の8%。窓口負担も、イギリスの2.4%に比べて世界的にも飛び出た18%である。消費税や国民性、諸事情を含めて考えても、予算に占める割合は教育予算同様、年々減っている。
ベッド数に至っては、2006年6月で33万床(医療・介護)が、2012年には15万床になる。長期になる療養は自宅でやれと言うことだ。

“ピンピンコロリ”という名言?が流行っている。役人も医者も患者も望むところだろう。語感の通り普段はピンピン元気でいながら、ある日コロッと逝ってしまいたい気持は昔からある。そんな願掛けの寺も確かあった。
だが、普段こう言っていてもイザ病気に罹ってしまうと、多くの人は『生』への執着が芽生えるという。いっそのこと、今の診療科目に「安楽死促進科」を設けた方が親切である。人道上などとカッコつけても、やっていることはジワリジワリで、この方がよっぽどタチが悪い。厚生の意味を理解していないか、ものすごい勘違い感覚を持つ典型の役所・厚労省は、HIVやC型肝炎、遡ればイタイイタイ病等々に対処するどころか、不作為は当たり前で、動いたかと思えば製薬会社の手足になり、被害が広がると分かっていながら情報を隠すということを、散々見せられ経験している。なんのことはない。厚生とは治すより病気になれという意味だと、広辞苑あたりを改訂してもらいたい気持だ。こういう役所は言えば言うほど腹が立つが、

最近の来診者にもひどい奴が居ると聞く。
サービスという言葉を「金を払えばなんでも言うことをきく」と、トンチンカンな解釈をしているようだ。コンビニ診療とも言われるらしい。自分の都合になんでもあわせたがる人種が増殖しているが、例のモンスターペアレンツ(横文字ではなく、わがままでひとりよがりで、おまけに馬鹿な親というべき)の存在と似ている。大した症状でもないのに喚き立てて無理を通そうとする。中には医師や看護士に暴力を振るう。治療費や入院費を払わない。クレーマーも居る。暇つぶしか喫茶店感覚で来る人もいる。
医師も万全ではない。先ずは本人の責任とは言えないが、絶対的な時間が足りない。自分を過信し納得する説明をしない。セカンドオピニオンを暗に否定する。過誤を隠そうとする。
いうなれば、教育現場とそっくりだ。ひどいことばかり並べるなら、資質のない教師、子を躾けられずそれを他人(教師など)に頼るばかりか気に食わないと怒鳴り込む親、触れられるだけで親に訴える子ども等々ーそっくりだ。

わたしがこの会合で提案した事がある。
病院の多くの待合室にはテレビが設置してある。ここで医療に関する問題点をビデオやDVDを使って放映するべきだ。ある時は医師の立場、次は患者、そして国や製薬業と、立場を変えてアピールもしくは啓蒙するべきだ。気長に続けて定着すれば、少しは何かが変わっていくに違いない。なにかをしなければ老人は殺され、病院はつぶれ、年金共々、先を保障できない国は壊れる。決して大げさではないとわたしは思う。

あっち飛びこっち飛びになってしまった。言いだすと切りがない。
今回で一応終わりと言うことで、コーヒーとケーキを前に茶話会(なつかしー!)になった。何故かそれぞれに感謝状が贈られ、おまけに記念撮影とはナンジャラホイと思いながら、司会を務めた隣の女性とおしゃべりした。彼女は医師会ではなく、まとめや分析を委託されたマーケットリサーチの人だった。そういえば、柔らかい言葉と笑顔で本音をしゃべらせようとしていた。その罠にはまって、どこに住んでいてどんなことをしてきて、何に興味があるかなど、こちらの情報ばかりをしゃべってしまった。40代だろうか。人なつっこい丸顔には気をつけなくっちゃ。
ウム、プロは違うなぁ。

Posted at 16:56 | 生活 | この記事のURL
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加齢 [2007年11月12日(月) ]
年令は毎年増えていくものだ。どんなにあがこうが、時間は針を止めない。これは物理的事実なので文句の言いようがないが、もうひとつの「年をとる」には同調やら異論やらがある。
藤沢周平の「残日録」で、三屋清左右衛門が、“日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ(ひのこりて くるるに いまだとおし)」と言う下りがある。好きな文節だ。
つまり、確かにジジィになった。それで隠居だの大人しくだのとまわりは言うが、まだまだそんな‘年’ではないわ、とほざいている状態とでも言おうか。いや、そんな気張りさへない。年を取ろうが、自分は自分だからだ。
こんなことをこの頃よく書くようになった。自分でも、いつの間にまた言ってるよと思う。単に負け惜しみかも知れない。
青春時代は「何故生きているのか、生きるとは?」を、無垢の気持で誰でも考えるものだが、ジジィになると、垢をいっぱい身に付けて「どう死ぬか、死ぬこととは?」に変わってきた。
生きる←→死ぬを同列に置いて、「生きるとは如何に死ぬことか」とか「死に至るまでの時間が生きること」と、哲学のような悟ったようなことを多くの人が書いている。これに宗教色が絡むと、いよいよ混乱し、これらを遠ざけたくなる。
淡々と構えて自然に任せることが出来れば、なんてことはないが、結構いろいろ考え出すものだ。こんな日々が“昏ルルニ”達しない
状態なのかも知れない。良いのか悪いのかメンドクサイものである。

Posted at 03:40 | 日記 | この記事のURL
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