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さくら雨 [2008年03月30日(日) ]
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とぎれるいのちをだいて
せっかく春がきたのですから
いままで
つないできたのですから
こんなとき雨は
なぜ降ってくるんでしょう

やさしさが
雨にうたれて
もっとやさしくなって
みずたまもようのカッパを着て
それでうなだれていたら
ぼくまで
うなだれてしまうでしょう



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試し河内節 [2008年03月29日(土) ]
サァテハァ一座の皆様へ、ちょいと出ました若輩はァ ヨォホホイホイ
〈ア、ヨイトコセェー、ドッコイショ〉
お見かけ通りの悪声で、お気に召すよに読めないけれど、今宵うれしきサイトから、出もせぬ声をば張り上げましてェ、一生懸命につとめます。
〈ソラ、ヨイトコサ、サノヨイャサッサ〉

浮世に広める名も特に、ありはしないがステージ世話になりつつ‘玉ねぎのみそ汁’という前をもって一節、銅鑼声あげさせていただきますぅー。
ヨォホホイホイ
〈ア、ヨイトコセェー、ドッコイショ〉

師のない流れを汲みし若輩の、ホウホケキョウもままならざるこの私。春は弥生の林にて、啼き声習ってケキョケキョと未熟の唄声お聞き苦しくさもあれど、言いたいことありますれば、お耳を少々傾けて、前置き長くダラダラをここで断ち切り本題へ。
ヨォホホイホイ
〈ア、ヨイトコセェー、ドッコイショ〉

地球は人が増えすぎて、熊虎猿のみならず、
図々しくも象やライオン追い出して、仁義のジの字もない縄張り侵して畑を作り、口の上ではエコエコと白々しくも唱えつつ、人間さまが一番エライと下司な顔付きで申します。
ヨォホホイホイ
〈ア、ヨイトコセェー、ドッコイショ〉

化石が遺産の地底の油を絞りだし、“どうだ買わぬか、一樽100ドルだ”と、寄ってたかって値を上げて右から左へお金を動かし、笑いが止まらぬガッポガッポの国・企業。ロシア・プーチンこの際と、オイルマネーで帝国づくり。おれの言うこと聞かぬなら石油もガスもやらないと、こういうヤカラは昔から近所隣に居たものだ。金で仲間をあやつるならば態度傲慢、顔下卑て、尊敬死語と相成りました。こんなことでは、腰は抜けるは毛は抜けるは、ついでに歯まで抜けましてぇ。イヤハヤイヤハヤ、そんな訳でありまして。
   ア、ヨイトコセー、ドッコイショ
と、ひとまず失礼いたしますぅ。

Posted at 12:25 | 日記 | この記事のURL
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老い人よ(‘恋人よ’といいたいのだが) [2008年03月24日(月) ]

意欲は語彙が失われることで痩せ細っていくようだ。わたしのようなタイプは、簡単に諦めはしないが、言葉を引き出すにはかなりの努力が必要なので、面倒くさくなって「ま、いいか」となってしまう。
胸に燃え立つものがある以上、それを形にしたいのは当たり前だが為しえないもどかしさが積み重なると、老後は反比例のオンパレードと思ってしまう。。
表現しきれない不燃焼に身もだえている老い人は少なくないと思う。体力の衰えは仕方ないとしても気力はある。しかしこの衝動はなんなのだろう。いい加減ホケーとした日常でいいではないか。どんな表現対象があるというんだ。どんな表現方法があるんだ。万が一ある程度満足できる結果を得たとして、「点」ばかり残し、つながりのある線を創るには時間が残っていない。また四六時中創ることばかりを考えて楽しいわけがない。

日吉ミミ「男と女のお話」の替え歌
(上段がオリジナル)

恋人に ふられたの
老い人は 忘れるの

よくある話じゃ ないか
よくあることじゃ ないか

世の中かわって いるんだよ
言葉がつぎつぎ 消えるんだよ

人の心も かわるのさ 
おれの心も 痩せるのさ

-------------------------------
 
淋しいなら この僕が
さみしいから このおれと

つきあってあげても いいよ
つき合ってくれよ ヒマなら

涙なんかを 見せるなよ
同情なんか いらないよ

恋はおしゃれな ゲームだよ
老いはおしゃれな 時間だよ


なんていう馬鹿らしいお遊びで時間をつぶすと「やることないのか」と自分を嘲り、本を読んでもミニ・コンサートへ行っても催し物に出かけても、なんか中途半端。金が有り余っていれば旅にでも出るのだが、生活に追われてママならず、息苦しさが増すばかりだ。ニヒルでも厭世でもないので、心根が更に卑しくなる。ちっちゃな欲に紛れていて、どうも塩梅がよくない。
しかし振り返ってみると、今に始まったことではなく、そんな人生を送ってきたんだ。今になって舵を切ろうにも錆びついてしまっていることに気付いただけなんだ。本音はおしゃれな時間じゃないんだ、老い人には。今ドックに上がってしまうと、もう海には浮かばない舟なのかも知れない。

Posted at 08:27 | 日記 | この記事のURL
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淡い春 [2008年03月23日(日) ]


あっちこっちに 春がうろついています
こうなると図に乗って どんどんみんなの前にあらわれます
意識しない無邪気が 一番たちが悪いことを
あなたは 思い知るでしょう

Posted at 12:47 | 写真 | この記事のURL
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韓ドラに感じたこと [2008年03月22日(土) ]
韓国ドラマ「朱蒙(チュモン)」シリーズ21本を見終わった。これでもまだ続く。
現代恋愛ものはともかく、歴史物語は勉強になる。
古朝鮮(こちょうせん、コジョソン)とは、漢王朝武帝による漢四郡設置(紀元前108年)以前の古代朝鮮国家の総称ということを初めて知った。
【建国神話
『三国史記』によれば、高句麗は紀元前37年に朱蒙(チュモン)により建てられたとされる。朱蒙の母は河の神の娘で天帝の子と出会って結ばれるが、父の怒りを買って東扶余王の金蛙の所へ送られた。やがて娘は太陽の光を浴びて身篭り、卵を産んだ。この卵を金蛙は動物に食べさせようとしたが動物はこの卵を守り、卵から朱蒙が産まれる。朱蒙は生まれた時から非常に弓が上手く(朱蒙と言うのは弓の名手のこと)、これに嫉妬した金蛙の息子たちは朱蒙を殺そうとするが、朱蒙は母の助言でいち早く脱出して卒本州に至り、ここで高句麗を建てたという。広開土王碑にもほぼ同じ内容が書かれている。
朱蒙が建国したとされる卒本の地は現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県(吉林省との省境近くの鴨緑江の少し北)に当たり、都城の卒本城は五女山山城に比定される。しかし建国後まもなく、西暦3年には第2代の瑠璃明王が鴨緑江岸の丸都城(尉那巌城)へ遷都した、と伝えられる。高句麗の本拠地が実質的に丸都城への移動した時期については2世紀末から3世紀初めにかけてのころだと見られている。
* 丸都城時期
丸都城は吉林省集安市(かつての玄菟郡配下の高句麗県)の山城である。その後、山を下りて平地の国内城に王宮を構えたが、山城の丸都城と平城の国内城とは一体のものであり、こうした山城と平城(居城)との組み合わせは、朝鮮半島における城のあり方として普遍的なものとなっていった。国内城については最近の考古学的研究により、3世紀初めの築造と見られている。高句麗は次第に四方に勢力を延ばし、とくに遼東方面への進出に積極的であり、玄菟郡をさらに西に追いやった。後漢の統制力が黄巾の乱により弛緩すると、遼東には公孫氏が自立するようになり、高句麗と対立した。197年に第9代の故国川王が死んだ後、王位継承をめぐって発岐と延優(後の10代山上王)との間に争いが起こり、卒本に拠った発岐は公孫度を頼って延優と対立したが、丸都城に拠った延優が王となって発岐の勢力を併呑した。
公孫氏が魏の司馬懿に滅ぼされた後は、魏と国境を接して対立するようになり、魏の将軍?丘倹により246年に首都を陥落させられた。東川王は東に逃れ、魏軍が引き上げた後に首都を再興した。このときに築城された都を平壌城というが、丸都城の別名または集安市付近の域名と考えられており、後の平壌城とは別のものである。】

今のところ、王子朱蒙は、これから新しい国を創るべく流民を率いて居城だった扶余(ぷよ)を出たところだ。先は長い。
高句麗は紀元前37年頃生まれた扶余系民族による国家であり、最盛期は中国東北部(満州)から朝鮮半島の大部分を領土としたとある。半島南西部の百済、南東部の新羅とともに朝鮮半島における三国時代を形成。隋煬帝、唐太宗による遠征を何度も撃退した。しかし唐と新羅の連合軍により滅ぼされるのだが、普段は知り得ない隣国の盛衰は興味が尽きない。

朝鮮語の語尾に聞かれる上がり下がりが、日本海側の地域で結構聞くことが出来る。直接聞いた記憶もあるが、NHK朝ドラ「ちりとてちん」でよく聞き取れる。日本海に面した福井の若狭に住んでいる一家周辺の会話では、やはり語尾に独特の抑揚が使われている。なんらかの影響を受けているのは間違いなかろう。東アジアは仲が良かろうが悪かろうが、そういう間柄ということだ。

Posted at 17:58 | 日記 | この記事のURL
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似非演歌だー [2008年03月21日(金) ]


赤提灯が くだを巻く

酔ってこぼした 酒を拭き
白い小指に 重ね涙が こぼれてしずく
なぜ泣くと 訊いてはみたけど
湯気の向こうに 佇んで
消えるおまえの 忍ぶ声

路地をめぐって すきま風
心に吹いた 悲しい風が
燗酒冷まして 暖簾を揺らし
ああ 
あんたを想って あんたを恋して
紅い提灯 ゆらりと泣いた

仕事帰りの 疲れた肩が
嘘でもいいから 言って欲しいと
ぬくもる‘あんた’と かける声
屋根の間に のぞいた月に
そうよあたしの そうよあたしの
想い雲が 雨を降らせるの

Posted at 18:53 | 日記 | この記事のURL
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看板 [2008年03月19日(水) ]


想い込み老い人は言ったものだ
「豚カツとコーヒーか、
 旨そうかな不味そうかな
 どっちかにした方が・・・」

‘COFFEE and とんかつ’
ひとみちゃんがつくるんだろうか
ひとみさんだろうか
ひとみ!だろうか
きっとたれ目がぱっちりした
ぽっちゃり型の顔だ
勝手に想い込みが
どんどんふくらんで
風船になって

喰ってみなくっちゃあと
開店しているのかどうか
札が出ているのかどうか
確かめようにも
青い車が邪魔で見えない
スポーツタイプの青い車は
ひとみを隠して
一人占めにしようと
見えないようにして

老い人は背伸びをしたが
薄汚れたむなしい壁の色から
きっとやってはいないと
勝手に判断した
面倒だから
青い車が邪魔しているからと
やっていないと決めてしまった
ほんとうは
‘ひとみ’は寝ていた
土曜日の朝八時に
まだ寝ていたんだ
この頃ずっと寝ているんだ

色を見る目が落ちてきて
くすんだ自分を壁に映して
老い人は
また想い込む
刻んだ沢山のキャベツと
豚カツの形と
小じゃれたカップのコーヒーと
大盛りご飯
もうそれしかない

青い車はいつまでも動かなかった

Posted at 08:18 | | この記事のURL
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御田植え祭り [2008年03月17日(月) ]


弥生の空は晴れわたっていた。
やっぱり曇や雨より、お天気が良いとなにはなくとも晴れ晴れしてくる。
晴れといえば田んぼ、田んぼといえば田植えという、あまり共通項のない発想が芽生えてしまう。瑞穂の生まれの証拠ではないかと一人思うのだが、「青空のもと、里山にうっすらとたなびく白い雲を映して、田の水はさざめき・・・」などと簡単に描くことが出来る
のは日本人しか居まい。
生産調整で田んぼをどんどん減らして、あるべき姿を削り取っていく能なし農政しかできない役人には、絶対イメージできない風景である。

農耕が源の民族という象徴だろうか。3−5月の日本各地では、米の豊作を祈っての神事“田植祭り”が行われる。規模、中身のバラツキはあるが、張りぼての牛が出てきたり子供たちが仮装して笑わせたり、早乙女の田植えで縁ある儀式が見られる心根はまだまだある。
隣の大分県安岐町では、諸田御田植祭が諸田山神社で毎年3月の「春分の日」に催される。境内の広場に仮の神殿を設け、神事の祝詞をあげた後、弓を放つ儀式、あぜ作りから苗取りまでの農作業を、面白ろおかしい舞いにして楽しむと聞いている。もう170年も続いている。
「御田植え祭」「大花田植え」「田楽」「田遊び」「虫送り」と呼び名は違うが、田植え・農耕にまつわる行事として魅力のある名前ばかりである。

コミュニティが崩れつつある今、荒れ寺に続いて、手入れされず草ぼうぼうの境内や傾いた石塔という神社が増えて来つつある。更地にしないのは、いずれ元の姿に戻す気持があるのだろうが、現状は情けないというより哀れを感じる。
先日訪れた金村(かなむら)神社は、そんな荒れ神社から数百メートルしか離れていない、同じ糸田町にある。特に謂われはないので、鎮守神が祀られていると思っていいのかも知れない。鎮守とは字面から一定の地域を守ることで、わたしのような不信心な人間でも賽銭を投げ入れて柏手を打ち、気楽に願い事が出来る場所だ。この頃は氏神や産土(うぶすな)神と分けられないものも増えていると聞く。神道などといわなくても、この神社を中心に、祭りや行事を通して地縁の結びつきを強くする役割もある。なにも「蛇の神」「馬の神」「鮭の神」のように特化しなくても安らぎの場で良い。ここには朽ちたご神木が保護されていて、子供の遊び場にもなっている。飾り立てて崇め奉るより、この大らかさが日本の昔のような気がする。森はないが‘村の鎮守さま’の暖かい目を感じる。

この際とばかりに境内を走りまわる子供たちの歓声を久しぶりに聞いた。男の子の中には、あまりにも暴れすぎて社殿の前で怒鳴りつけられたりしていたが、大人の適度なたしなめもまた良い。それらを囲むように腰掛ける場所を上手に見つけて、ジジババや親は日陰から見守っている。ネットやテレビに侵された頭には、自分が忘れていた風景が生々しく感じられ、三月吉日の風がさわやかだった。

4時頃から境内の真ん中で、お楽しみの御田植え祭事が始まった。町役場や町内有志の面々が、面白可笑しいメイクでお百姓さんスタイルで装い、大げさな動きとのんびり口調で田をならしたり草取り仕草を始めた。しばらくして女装した女房役の大男が昼飯を持って出てくると、まわりは大笑い。「ちょっとオシッコ」と言うと、亭主は「そこいらの草むらでしてこい」と答える。妊娠中の女房は大きな腹を抱えながら観客の前で着物をはしょり、中腰で立ちションの真似だ。終わって手で拭う動作でまた大笑い。少々えげつないとはいえ、昔はこれも自然な日常の一端に過ぎなかったと思えば、今の洗浄付トイレなどちゃんちゃらおかしい。それより、ここぞとばかりに頑張って股ぐらを必死に撮っている町役場の広報係の格好が、今どきを象徴していて面白かった。スパッツを穿いているので期待通りにはいかなかったと思うが・・・。
やがて張りぼての牛が出てきて田を梳き始めた。中に牛の足が2人入り、一人が口輪を取って誘導する。時々観客の輪を突き破ったり寝転がったりして笑いをつくり出す。晴れわたった空は底抜けに青かった。





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金村神社 [2008年03月13日(木) ]


好天に誘われて、土曜日の下見に出かけた。
3月15日(土)、田川郡糸田町で行われる田植祭のためだ。
場所と駐車の可否は確認できた。団地が近く、結構ごちゃごちゃしたところだが、まわりは田んぼで、のんびりしている。
境内には、寒桜と思われるやわらかな花びらが匂っていた。



【田植祭(無形民俗文化財)
 田植祭は毎年3月15日に、上糸田・中糸田・下糸田地区全体の祭りとして金村神社で行われている。毎年春の農業の出発として、その年の豊作を祈る春祭りである。祭りは祭典が午後3時半頃から行われ参列者は金村神社の神社総代や世話役・田植行事・田植舞の出演者である。祭りの経緯はまず神官が五穀豊穣の祝詞を奏上しそれが終わるとしばらく直会があって模擬農耕行事となる。田植えまでの演技は、草刈り・溝さらえ・畦ぬり・身持ち女の昼まもち・牛を使っての代掻きの順で行われる。その後小学生による、田植舞が奉納され最後に田植えが行われる。
この田植祭を行う、田植保存会は保持団体として平成8年12月27日に町指定文化財第3号に認定されました。】



Posted at 18:02 | 日記 | この記事のURL
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新装電車 [2008年03月10日(月) ]


人と同じように、生活する上で電車は欠かせなかった。東京では主に山手線や中央線、京浜東北線、西武新宿線、東横線などに加えて、都電とにトロリーバスにもお世話になった。通勤では地下鉄が多く、いまから思えば、それにつれてよく歩きもした。
静岡市に住んでいる頃、東京へよく遊びに行った。中学時代だから昭和27,8年頃だ。この頃は国電といわれていて、車体はチョコレート色だったように記憶している。
それ以後、【1961年 101系を投入。車体色はカナリア・イエロー。1963年 103系を投入。車体色をウグイスに変更】と、記録にある。
国鉄時代の武骨で実用一点張りも懐かしい。日本の風景もそれに似て、先ずは「メシを喰う=人を運搬する」図式になろうか。

田舎に住み続けるには車は無くてはならないが、時々電車のガッタンゴットンが無性に懐かしくなる。それとリークするような催し物があった。
ポスターにある平成筑豊鉄道の新車両公開である。あまり興味が湧かないが、暇に任せて電車に乗り会場の金田駅へ出かけた。今日に限り全線一回100円というサービス振りだ。式典が始まるのは9時半過ぎだったが、その前に写真だけ撮って、とっとと退散した。今朝の朝刊には、麻生県知事や沿線首長が出席していた。やはり延々とあいさつがあったに違いない。地元高校のブラスバンド演奏および地産の食べ物屋さんがテントを張っていた。何故かかの有名な佐世保バーガーのバンも来ていた。
レンガ色車輌の愛称は“へいちく浪漫号”に決まったらしい。布がかぶっているところにそれを記すプレートがあった。  
電車電車と呼んでいるが、キハの表示通りの気動車(ディーゼル車)である。国鉄からJRに変わって後、第3セクターとして生き残り、セメント運搬の貨物収入が絶たれてからも、様々な工夫で地元民の足として頑張っている。





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