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スティーヴン・キング「ダークタワー/第4巻魔導師の虹(上)76ページ」まで [2007年08月23日(木) ]


ビジュアルを文字で表現する壮大な試みは、スティーヴン・キングの飽かぬ欲望(乃至は彼のスタイルか)なのだろう。ビジュアルであろうとするためにはどんなことでも(当然文字でだが)する。陳腐なシチュエーションでも彼にかかれば読者をして眼前(脳への周到な刺激の結果)に映像を浮かばせる。また、時には形而上学の煌く言葉が、砂利道に見受けられる黄銅鉱(金でなくて残念。キングを黄銅鉱のように陳腐なものとはいう気はない)のように、発見できる。
「…一瞬のうちに〈塔〉の役割を理解した。それは力の伝送路をあらゆる世界に分配し、時の大いなる螺旋の中で安定状態を保っているのだ。…すべての手が暴力に染まらないように〈塔〉は存在しているのだ」。キングはエディを通してそう言わしめる。キングの根底にある〈塔〉への思い、それは人類の英知もそうあれと流布している。そしてそれは、今では脆く、未来に暗雲を投げかけている。だからこその呼びかけ。
「暗黒の塔/魔導師の虹(上)」76ページまでは、ローランドの“傲慢の道標“であった。傲慢は正しいものをも侵食する業病なのだと分かるまで、キングは多くの冊数を割かなければならなかった。この世は正しいものの傲慢でみちている。その業病を氷解することができるなら、旅の視界の先に平和の道標を見ることができるだろう。

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スティーブン・キング「刑務所のリタ・ヘイワース」、「ゴールデンボーイ」 [2007年08月16日(木) ]


「刑務所のリタ・ヘイワース」と「ゴールデンボーイ−恐怖の四季春夏編−」は文庫本一冊に収納されている。この読後感は僕にとってはまことに書き難いもので、三度目の正直で、出たとこ勝負で書いている。
というのも、この二つの小説を読んだ後、対応する映画を観てしまったのだ。どうしたって、原作との比較で観てしまう。「刑務所のリタ・ヘイワース」は映画では「ショーシャンクの空」となっている。なんといっても原作の重みに勝るものはない。原作を読まないで、映画を見ているとそれなりに感慨はあるのだが、「ショーシャンクの空」はそれほどの乖離はなく、5点万点の3くらいを上げようと思える。原作の与える読者への観点の混乱をもっと描けたらいいと思える程度の批判があるだけだ。
「ゴールデンボーイ」では、全く、映画のほうはゲンナリな気になってしまった。訳者、朝倉久志氏はドン・ヘロンの引用「…典型的なアメリカ少年の精神的退廃、モンスターに興味を持ち、やがては殺人に興味を持つようになる少年、ナチとモンスター・ファンとの相互寄生関係−これらに関する神話像を築きあげようとした。われわれもいつまたモンスターになるかもしれない−その過程がここに描かれている。」と紹介しているが、映画では「エッ、これ何! 全然違うよ!」と叫んでしまう僕であった。
ともあれ、映画と原作を同時進行するというのは如何ともしんどいと思える体験ではあった。

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スティーブンキングとピーター・ストラウブ「タリスマン」 [2007年08月08日(水) ]


彼ら二人の想像力をワープロで遠く離れて連結し、文字に置き換える作業、小説を書く作業は宴会(酒を伴う)に似ている。お互いに理解しあう中とはいえ、やはり宴会は静かに始まる。酒が回り、徐々に口も滑らかになるが、お互いに自制がある。さて、本格的に酔い始めると熱狂が始まり、どちらか一方が疲れるまでまくし立てる。疲れると相対者が今度はまくし立てる。偉いのは、相手がまくし立てているとき、一方は黙って聞き耳を立てて静かにしている。宴会は祭りと同じに必ず終わる。宴会がどちらかの不道徳的な言動や行為によって終わる可能性も、場合もあるが、お互い言うことを言って、肩を抱き合いながら宴会場を後にするのが一番、ハリウッド的平和というものだ。

第42章 ジャックとタリスマン 第9節
「こうして、何週間もの苦難と暗黒と絶望のすえ−その間には友人との出会いがあり、そして友人を失い、苦役の日々があり、湿った干草の山で眠った夜があり、暗闇での悪霊との出会いが会ったが、そうしたすべてを経た末に、ついにタリスマンはジャック・ソーヤーの許へやってきたのだ。

第47章 旅の終わり 第6節
「この瞬間に彼女を見た人がいたら、かならずや顔をそむけただろう…リリー・キャヴァノー(ジャックの母)の体重はいまや78ポンド…。肌は黄ばみ、まるで頭蓋骨の上に羊皮紙を貼り付けたよう…。目の下の…隈は、末期(癌)の黒い死の色に変わっていた。目…は、…知性の光を放っていた。胸のふくらみはなく…。腕の肉も落ち…。ヒップと太腿…床擦れが花開き始め…。

第12節
「やがて(タリスマンが彼女の)皮膚の内部へと吸収され…。ジャックの母は、燦然たる光に包まれた−…彼の母そのものがタリスマンとなった。すべての病が彼女の顔から逃れ去った。

ハリウッドのビジュアルを長大な文章で表現を試みた青少年相手の童話。映像化(最もそんな必要のないほど、十分ビジュアルな文章だが)するなら膨大な金と時間がかかるだろう。エンディングはもちろんアメリカンハッピィ。
(訳者/矢野浩三郎氏の解説の一説)「…『タリスマン』は『ハックルベリィ』が終わったところから始まる。」

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スティーブン・キング「ミザリー」 [2007年07月30日(月) ]


ボールデラド・ホテルで新作小説「高速自動車」を書き終えたポール・シェルダン(あるベストセラー作家の名をもじったものであることは見え見え−訳者矢野浩三郎あとがきより)は酒の勢いで「『大いなる冒険の旅』−小説の世界を脱して、再び現実とのふれあいを取り戻す格段の方途だ…」と思い立ち、カマロを駆って西へ向かった。幾百万人に熱狂を与えた『ミザリー』のミザリーを殺し、「『やった!自由だ!やっと自由になったぞ!あの女めとうとう死んじまった!』と絶叫したものである。」と、感慨をもって。
巨大な悪天候での孤独な致命的事故。
気がつくとポールは『ミザリー』のナンバーワン愛読者、精神が極度に病んでいるとしか言いようのないアニー・ウィルクスに捕獲されていた。下半身はズタズタで。
(訳者あとがきより)1986年9月、ヴァージニア・ビーチで行われた講演でのキングの言。
「1979年、ニューヨークのロックフェラー・プラザでの出来事。NBCのビルを出ると、キングの『ナンバーワンのファン』だと自称する男が、一緒に写真に写って欲しいと、しつこく頼む。キングが『じゃあ、急いで』と、承知すると、男は近くにいる者にポラロイド・カメラを渡し、キングと並んで写真におさまった。さらに男は、出来上がったポラロイド写真にサインをしてくれ、とせがむ。キングは男の差し出す特殊ペンを受け取り、男の名を訊いて、『マーク・チャップマンへ、スティーブン・キングより』とサインしてやった。このマーク・チャップマンこそ、その翌年、同じように写真をとったあと、ジョン・レノンを射殺する『ナンバーワンのファン』である。」
一瞬恐怖におののくキングの顔が見えそうだ。ミザリーからの脱出、動機はこれで十分、十分の迫真小説だ。

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スティーブン・キング「シャイニング」 [2007年07月25日(水) ]


ジャック・ニコルソンの「檻の中から、またはフェンスの二つの格子を両手で握り締め、オドロオドロシイ狂気の顔を貼り付けた」ジャケットを今でも鮮明に思い出すことが出来る。その映画を僕も確かに見たのだが、小説の読後感としては、見たかどうかは不確かだという感興を得た。
あの一部分を切り取ったものだという、漫然として印象をもつのみだ。

深町眞理子氏(シャイニングの訳者)は言っている。
「…キングの圧倒的な描写力のすごさを味わってくださいと申し上げたい。きっと、ああ堪能した。小説らしい小説を読んだ、という満足感にひたっていただけると確信いたします。…」

ともあれ、私的(わたくしてき)に言うなれば、
切り立った断崖に水平に板をはめ込んだ板の上に収まっているオーバールック(建築物)が、そのものが悪霊の集まりで、ダニー(恥ずかしい表現だが、超能力を持った少年)をその中に取り込むことで飛躍的な力量を発揮しようと陰謀をたくらむ、その顛末だ。
この種の悪霊を実態としてではなく、精神の有りようとしてといえば、この世の中には随分いるし、最近ではニュースを見ても列をなし、森をなす体だ。
現実の世界には、死人より人間の方がいかに恐ろしいかという、精神的置換を行えば理解できるのではないか。

いずれにしても、引用した深町氏の言辞は全くその通りというしかない。

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スティーブン・キング「ファイアスターター」 [2007年07月22日(日) ]


随分と、写真で見ると、暗い雰囲気の表紙だ。
確かにそれもいえるが、これは彼女のエネルギーを放出する段取りのイメージであって、決して暗くはないと思う。

最近、スティーブン・キングの「デッド・ゾーン」のテレビシリーズを見る機会があった。シーズン1からシーズン3まで出ていて、1シーズン六話完結だから、24話で全体は簡潔となるのだろう。「デッド・ゾーン」はモチーフが「人や物に触れると、それ(人)に関係する過去、現在、未来が主人公の脳に投影される」というわけだから、その部分を糊を水増しするように膨らまし、エンタティメントしているわけだ。
けちを付ける訳ではないが、(結局けちをつけているが)かの原作の主題を多く逸脱していることは否めない。
前回のブログでも記したようなものが僕は主題と思っているから、このテレビシリーズはキングからすると遺憾な脚色というよりほかはない。
なぜこんなことを言うのかというと、つまり、映像化しなくても、キングの小説は十分映像的であリ、映像化は必要ないのではないかということだ。
「ファイアスターター」はそのさいたるものだろう。
ひとたび、その中に浸ることを良しとする感性の持ち主であれば、自分の脳の中にシアターを持つことになるだろう。
キング自身のあとがきを引用しよう。
「『ファイアスターター』は小説であり、私のつくりあげた物語であって、読者がこれによって一晩か二晩の楽しみを味わってくださったとすれば、作者の喜びに過ぎるものはない。とはいえ、この本に書かれていることの大半は、不愉快なことことも、不可解なことも、あるいは興味深いことも、すべてひっくるめて、実際の出来事に基づいている。…」というわけで、リアルなのだ。

火を導き出す少女、彼女の運命。それがすべての話。

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スティーブン・キング「デッド・ゾーン」 [2007年07月18日(水) ]
もし、触発されて読む人へ、映画化したものを見た人に読むことをお勧めするために、吉野恵美子氏(本書の訳者)の優れた解説(抜粋)を紹介しつつ。

「(略)作品に同時代性を盛り込み、その時代の政情、社会の動き、風俗や流行といった現実のものに、想像力の限りを尽くした架空の物語を絡ませる手法はスティーブン・キングの得意とするところだが、とりわけこの『デッド・ゾーン』は、アメリカの1970年代そのものを描いた小説といっても言い過ぎではないだろう。
ケネディの『黄金の60年代』が過ぎて…(略)ヴェトナム戦争がアメリカの軍事力、経済力の限界を国民に明らかにし、…(略)ウォーターゲート事件が起こり、…(略)アメリカ社会全体に後遺症を残した…(略)社会全体を覆った強い不安感…『デッド・ゾーン』の主調をなすものもまた、不安感である。」

1970年代といえば、僕ら団塊の世代にとって(10年くらいの幅をとって)2回の大きな日本の進路を問う安保闘争(60年安保と70年安保)に符合する。安保条約によって、アメリカが日本を大きく飲み込んでいく(あともう少しで完全に飲み込まれるのだが)過程のアメリカ側の事情も何がしか分かるというものだ。

「(略)ジョニ―・スミスは…破壊的な武器をもたない…普通の人に近い弱い存在であり、…彼が予知する悲惨な未来への不安は…底深いものとなる…未来への不安をもたらしたのは地方政治家グレグ・スティルソンだった。(略)未来への不安という形で頂点に達する。不安こそ恐怖の大きな要素であり、ジョニーとスティルソンの対決とその結末がいかにもアメリカ的、現代的である点でも、本書もまたキングのモダン・ホラーといえるだろう。」

僕はふと思う、この国にもスティルソンのような人間が、「美しい国」という聞こえの良い言葉をばら撒き、「ヒトラー」の角度で写真に収まっている男がいるということを。

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ティム・パワーズ「石の夢」 [2007年07月15日(日) ]
The Stress of Her Regard、原作は「彼女の注視の圧力」となり、見るものを石に変えてしまうメドゥサの凝視のことをあらわしています。−訳者あとがきより−
発想は史実にもとづいている。有名な人々、詩人のバイロン卿、詩人シェリィ、シェリィの妻となるメアリ、メアリの異母妹のクレア、そしてポロドーり、彼らはスイスのレマン湖ディオダティ館で幽霊談義にふけっていた。
その後、メアリは「フランケンシュタインを」書き、ポロドーリは「吸血鬼」を書く。物語はこのような史実を巻き添えにして、マイケルクロフォードとジュリアンの恋と愛の成就を背骨にしながら進む。
アダムとイブ以前にいた「石の人種」が19世紀初頭に現れ、人々を侵食し奪う。苦闘に満ちた戦い。多くの人が死に、戦いの果ては苦行の果てとして別人のような風貌と化してしまう。
欧州の修辞法というのか、表現がかなり込み入っていて読破には苦労した。

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スティーブンキング「マンハッタンの奇譚クラブ」 [2007年07月09日(月) ]
奇譚クラブの最後の話、「交通事故で首を切り落とされた妊婦(ミス サンドラ・スタンフォード)が、マキャロン医師に教わったラマーズ呼吸法を、首の離れた剥き出しの器官が行い、出産する」というショッキングなものだ。こんな結末を記すると、読む気が喪失するだろう。
もっとも物語の骨子はそれだけではない。マキャロン医師とサンドラを通して当時のアメリカの風潮をリアルに描きつつ、である。
文庫本118ページ、短編よりは長く中篇よりは短い「スタンド・バイ・ミー」とセットになっていて、キング自身も序の中でこだわった言い方をしている。
「マンハッタンの奇譚クラブ」はキングの長編にありがちな冗長な言い回し(長編ではないが「スタンド・バイ・ミー」にはそれが結構見られる)が強く抑えられていながら、読者を不思議な世界に吸引していく。
通常でいえば、このクラブはトワイライトゾーンのように魑魅魍魎の雰囲気、「ドアを開けた執事スティーヴンズは掻き消え、わたしの前には紫色の霧のカーテンが下がっていた」というような形容が常套だろう。
キングは少しもおどろおどろしい形容は使わず、むしろ意識して使わないのであろうが、「わたしがそのクラブで経験する異常な事柄」も前菜さながら(キングの場合この前菜が曲者なのだが)の扱いだ。
少しずつ、少しずつ読むものの胸を開き、最後のとどめにマキャロンをして奇譚を語らしめる。巧妙に読む者を羽交い絞めにする劇中劇!

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スティーブン・キング「スタンド・バイ・ミー」 [2007年07月08日(日) ]
映画「スタンド・バイ・ミー」は、思春期に入るホンの少し前の成熟した少年期の純粋に同性との冒険譚だ。
テディもバーンも彼らにふさわしく、そしてゴーディを除く最後の生き残りクリスもそれにふさわしく、壮年で逝ってしまう。ゴーディは少年期の記念碑を書く羽目になる。

ラストの延長線のエピソードは、小説ではこうなっている。

ゴーディ、クリス、テディ、バーンはそれぞれにエースの仲間である、クリスの実兄に、バーンはその実兄に、ゴーディはエースとその仲間に完膚なきまでに叩きのめされる。

僕にも、「スタンド・バイ・ミー」とまではいかないが、少年期の仲間があったし、それなりにそれぞれの家庭環境も複雑であった。
僕らも少年期を満喫した忘却のかなたの冒険譚もあったはずだ。
「スタンド・バイ・ミー」はそれを想起させてくれた。

ちょっと冗漫に過ぎるキングの心理描写は、その切なさの表れでもあるのか。

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