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スティーブン・キング「ミザリー」 [2007年07月30日(月) ]


ボールデラド・ホテルで新作小説「高速自動車」を書き終えたポール・シェルダン(あるベストセラー作家の名をもじったものであることは見え見え−訳者矢野浩三郎あとがきより)は酒の勢いで「『大いなる冒険の旅』−小説の世界を脱して、再び現実とのふれあいを取り戻す格段の方途だ…」と思い立ち、カマロを駆って西へ向かった。幾百万人に熱狂を与えた『ミザリー』のミザリーを殺し、「『やった!自由だ!やっと自由になったぞ!あの女めとうとう死んじまった!』と絶叫したものである。」と、感慨をもって。
巨大な悪天候での孤独な致命的事故。
気がつくとポールは『ミザリー』のナンバーワン愛読者、精神が極度に病んでいるとしか言いようのないアニー・ウィルクスに捕獲されていた。下半身はズタズタで。
(訳者あとがきより)1986年9月、ヴァージニア・ビーチで行われた講演でのキングの言。
「1979年、ニューヨークのロックフェラー・プラザでの出来事。NBCのビルを出ると、キングの『ナンバーワンのファン』だと自称する男が、一緒に写真に写って欲しいと、しつこく頼む。キングが『じゃあ、急いで』と、承知すると、男は近くにいる者にポラロイド・カメラを渡し、キングと並んで写真におさまった。さらに男は、出来上がったポラロイド写真にサインをしてくれ、とせがむ。キングは男の差し出す特殊ペンを受け取り、男の名を訊いて、『マーク・チャップマンへ、スティーブン・キングより』とサインしてやった。このマーク・チャップマンこそ、その翌年、同じように写真をとったあと、ジョン・レノンを射殺する『ナンバーワンのファン』である。」
一瞬恐怖におののくキングの顔が見えそうだ。ミザリーからの脱出、動機はこれで十分、十分の迫真小説だ。

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スティーブン・キング「シャイニング」 [2007年07月25日(水) ]


ジャック・ニコルソンの「檻の中から、またはフェンスの二つの格子を両手で握り締め、オドロオドロシイ狂気の顔を貼り付けた」ジャケットを今でも鮮明に思い出すことが出来る。その映画を僕も確かに見たのだが、小説の読後感としては、見たかどうかは不確かだという感興を得た。
あの一部分を切り取ったものだという、漫然として印象をもつのみだ。

深町眞理子氏(シャイニングの訳者)は言っている。
「…キングの圧倒的な描写力のすごさを味わってくださいと申し上げたい。きっと、ああ堪能した。小説らしい小説を読んだ、という満足感にひたっていただけると確信いたします。…」

ともあれ、私的(わたくしてき)に言うなれば、
切り立った断崖に水平に板をはめ込んだ板の上に収まっているオーバールック(建築物)が、そのものが悪霊の集まりで、ダニー(恥ずかしい表現だが、超能力を持った少年)をその中に取り込むことで飛躍的な力量を発揮しようと陰謀をたくらむ、その顛末だ。
この種の悪霊を実態としてではなく、精神の有りようとしてといえば、この世の中には随分いるし、最近ではニュースを見ても列をなし、森をなす体だ。
現実の世界には、死人より人間の方がいかに恐ろしいかという、精神的置換を行えば理解できるのではないか。

いずれにしても、引用した深町氏の言辞は全くその通りというしかない。

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スティーブン・キング「ファイアスターター」 [2007年07月22日(日) ]


随分と、写真で見ると、暗い雰囲気の表紙だ。
確かにそれもいえるが、これは彼女のエネルギーを放出する段取りのイメージであって、決して暗くはないと思う。

最近、スティーブン・キングの「デッド・ゾーン」のテレビシリーズを見る機会があった。シーズン1からシーズン3まで出ていて、1シーズン六話完結だから、24話で全体は簡潔となるのだろう。「デッド・ゾーン」はモチーフが「人や物に触れると、それ(人)に関係する過去、現在、未来が主人公の脳に投影される」というわけだから、その部分を糊を水増しするように膨らまし、エンタティメントしているわけだ。
けちを付ける訳ではないが、(結局けちをつけているが)かの原作の主題を多く逸脱していることは否めない。
前回のブログでも記したようなものが僕は主題と思っているから、このテレビシリーズはキングからすると遺憾な脚色というよりほかはない。
なぜこんなことを言うのかというと、つまり、映像化しなくても、キングの小説は十分映像的であリ、映像化は必要ないのではないかということだ。
「ファイアスターター」はそのさいたるものだろう。
ひとたび、その中に浸ることを良しとする感性の持ち主であれば、自分の脳の中にシアターを持つことになるだろう。
キング自身のあとがきを引用しよう。
「『ファイアスターター』は小説であり、私のつくりあげた物語であって、読者がこれによって一晩か二晩の楽しみを味わってくださったとすれば、作者の喜びに過ぎるものはない。とはいえ、この本に書かれていることの大半は、不愉快なことことも、不可解なことも、あるいは興味深いことも、すべてひっくるめて、実際の出来事に基づいている。…」というわけで、リアルなのだ。

火を導き出す少女、彼女の運命。それがすべての話。

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スティーブン・キング「デッド・ゾーン」 [2007年07月18日(水) ]
もし、触発されて読む人へ、映画化したものを見た人に読むことをお勧めするために、吉野恵美子氏(本書の訳者)の優れた解説(抜粋)を紹介しつつ。

「(略)作品に同時代性を盛り込み、その時代の政情、社会の動き、風俗や流行といった現実のものに、想像力の限りを尽くした架空の物語を絡ませる手法はスティーブン・キングの得意とするところだが、とりわけこの『デッド・ゾーン』は、アメリカの1970年代そのものを描いた小説といっても言い過ぎではないだろう。
ケネディの『黄金の60年代』が過ぎて…(略)ヴェトナム戦争がアメリカの軍事力、経済力の限界を国民に明らかにし、…(略)ウォーターゲート事件が起こり、…(略)アメリカ社会全体に後遺症を残した…(略)社会全体を覆った強い不安感…『デッド・ゾーン』の主調をなすものもまた、不安感である。」

1970年代といえば、僕ら団塊の世代にとって(10年くらいの幅をとって)2回の大きな日本の進路を問う安保闘争(60年安保と70年安保)に符合する。安保条約によって、アメリカが日本を大きく飲み込んでいく(あともう少しで完全に飲み込まれるのだが)過程のアメリカ側の事情も何がしか分かるというものだ。

「(略)ジョニ―・スミスは…破壊的な武器をもたない…普通の人に近い弱い存在であり、…彼が予知する悲惨な未来への不安は…底深いものとなる…未来への不安をもたらしたのは地方政治家グレグ・スティルソンだった。(略)未来への不安という形で頂点に達する。不安こそ恐怖の大きな要素であり、ジョニーとスティルソンの対決とその結末がいかにもアメリカ的、現代的である点でも、本書もまたキングのモダン・ホラーといえるだろう。」

僕はふと思う、この国にもスティルソンのような人間が、「美しい国」という聞こえの良い言葉をばら撒き、「ヒトラー」の角度で写真に収まっている男がいるということを。

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ティム・パワーズ「石の夢」 [2007年07月15日(日) ]
The Stress of Her Regard、原作は「彼女の注視の圧力」となり、見るものを石に変えてしまうメドゥサの凝視のことをあらわしています。−訳者あとがきより−
発想は史実にもとづいている。有名な人々、詩人のバイロン卿、詩人シェリィ、シェリィの妻となるメアリ、メアリの異母妹のクレア、そしてポロドーり、彼らはスイスのレマン湖ディオダティ館で幽霊談義にふけっていた。
その後、メアリは「フランケンシュタインを」書き、ポロドーリは「吸血鬼」を書く。物語はこのような史実を巻き添えにして、マイケルクロフォードとジュリアンの恋と愛の成就を背骨にしながら進む。
アダムとイブ以前にいた「石の人種」が19世紀初頭に現れ、人々を侵食し奪う。苦闘に満ちた戦い。多くの人が死に、戦いの果ては苦行の果てとして別人のような風貌と化してしまう。
欧州の修辞法というのか、表現がかなり込み入っていて読破には苦労した。

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スティーブンキング「マンハッタンの奇譚クラブ」 [2007年07月09日(月) ]
奇譚クラブの最後の話、「交通事故で首を切り落とされた妊婦(ミス サンドラ・スタンフォード)が、マキャロン医師に教わったラマーズ呼吸法を、首の離れた剥き出しの器官が行い、出産する」というショッキングなものだ。こんな結末を記すると、読む気が喪失するだろう。
もっとも物語の骨子はそれだけではない。マキャロン医師とサンドラを通して当時のアメリカの風潮をリアルに描きつつ、である。
文庫本118ページ、短編よりは長く中篇よりは短い「スタンド・バイ・ミー」とセットになっていて、キング自身も序の中でこだわった言い方をしている。
「マンハッタンの奇譚クラブ」はキングの長編にありがちな冗長な言い回し(長編ではないが「スタンド・バイ・ミー」にはそれが結構見られる)が強く抑えられていながら、読者を不思議な世界に吸引していく。
通常でいえば、このクラブはトワイライトゾーンのように魑魅魍魎の雰囲気、「ドアを開けた執事スティーヴンズは掻き消え、わたしの前には紫色の霧のカーテンが下がっていた」というような形容が常套だろう。
キングは少しもおどろおどろしい形容は使わず、むしろ意識して使わないのであろうが、「わたしがそのクラブで経験する異常な事柄」も前菜さながら(キングの場合この前菜が曲者なのだが)の扱いだ。
少しずつ、少しずつ読むものの胸を開き、最後のとどめにマキャロンをして奇譚を語らしめる。巧妙に読む者を羽交い絞めにする劇中劇!

Posted at 19:03 | 読後感想 | この記事のURL
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スティーブン・キング「スタンド・バイ・ミー」 [2007年07月08日(日) ]
映画「スタンド・バイ・ミー」は、思春期に入るホンの少し前の成熟した少年期の純粋に同性との冒険譚だ。
テディもバーンも彼らにふさわしく、そしてゴーディを除く最後の生き残りクリスもそれにふさわしく、壮年で逝ってしまう。ゴーディは少年期の記念碑を書く羽目になる。

ラストの延長線のエピソードは、小説ではこうなっている。

ゴーディ、クリス、テディ、バーンはそれぞれにエースの仲間である、クリスの実兄に、バーンはその実兄に、ゴーディはエースとその仲間に完膚なきまでに叩きのめされる。

僕にも、「スタンド・バイ・ミー」とまではいかないが、少年期の仲間があったし、それなりにそれぞれの家庭環境も複雑であった。
僕らも少年期を満喫した忘却のかなたの冒険譚もあったはずだ。
「スタンド・バイ・ミー」はそれを想起させてくれた。

ちょっと冗漫に過ぎるキングの心理描写は、その切なさの表れでもあるのか。

Posted at 17:39 | 読後感想 | この記事のURL
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V・C・アンドリュース「愛の輝き」/「ルビー」3部作最終 [2007年07月04日(水) ]
乗りかかった船をやっと降りた。読み終えた。
3部作の最後、「愛の輝き」、やはりルビーは幸せになった。
幾人かの悲惨な人生を踏み台にして、いやいや、踏み台としてというのは意地悪な言い方だから、不条理の結果、ルビーは幸せになったと言おう。
ボーとの子を孕み、ダフネの体面を強要した堕胎から逃げ出すルビーはバイユーに帰って、ポールの庇護のもとパールを生む。
ポールの執拗な(情熱的な)求婚の前に、自分自身の経済力では自分と?パールの将来に展望のもてない(偏った見方かも)ので、ルビーは契約結婚(お互いの思いを束縛しない)を承諾する。
一時は、ルビーを捨てた形になったボーは、ルビーを忘れられないといいう言い訳にジゼルと結婚する(これは全く理解に苦しむ)。
ジゼルが不治の脳炎にかかり、それに乗じたボーは自分の思いを遂げる一念からルビーをジゼルになり代わらせる。ルビーを最終的に自分のもとに引き寄せる手段としてポールはこれに協力するが、ジゼルの死への進行と共にポールも生命力を失い、果ては死んでしまう。
パラドックス(詳しく説明すると長くなるから、読むしかないだろう)はルビーとボーを苦しめるつけを払わせようとするが、二人の愛は最終的に勝利をかちとる。
エゴイストの権化、ジゼルの死。
不条理なポールのルビーへの愛とその死。
それを経てのルビーとボーの愛情の成就。
ラストは二人にとってすべての面でハッピーエンド。これって有りだろうか。

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V・C・アンドリュース「愛の旅立ち」/「ルビー」続編2 [2007年07月02日(月) ]
「ルビー」の続編があるのを知ったのは、解説を読んでからだった。
「ルビー」はそれ自体で完結している作品で、文学的示唆に富む作品だ。
さて、「愛の旅立ち」ともなると、「ルビー」の中で完結した和解が、人生そう簡単ではなく、人の持つ業は続くのだという設定なのだ。
双子の姉ジゼルは、「わたし(ルビー)は、甘やかされてわがままに育った気まぐれで自己中心的なジゼルを見つめた。歩けるようになってもまだ車椅子に乗ってみんなの同情を集め、人をあごでこきつかい、ほしいものは何でも手に入れようとしているふたごの姉を見つめた。」とルビーをして言わせる。
今回は父ピエールが心臓発作でなくなり、ダフネの忌避と策略でジゼルとルビーが隔離された全寮制の女子高校が主な舞台となっている。
そこではジゼルの悪意と嫉妬に満ちた謀略が余すことなく語られる。
そして、ルビーのボーとの愛の果ての出産。
ホウマへの脱出とポールとの再開、そして新たな苦悩。
「ルビー」が交響曲の主題を語る第一楽章、「愛の旅立ち」(言葉にするのも恥ずかしいが、)は散漫な主題の周辺を語る第二楽章だ。勿論それは第三楽章へと移行し、切れ目なく続く第四楽章、終章へ怒涛のように連なる。第三部があるというわけだ。
V・C・アンドリュースはここで何を言いたかったのだろう。
ひとり(ジゼルとルビーをひとりの人格として)の人間の中にすむ光と影を言いたかったのだろうか。
血の最も近い双子の離反する精神の中に、乖離できないものの存在を訴えたのか。
少女小説? の中に嵌ってしまったが、最後まで読むよりない。

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