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月食に寄せて [2007年08月28日(火) ]


今日の午後7時半から9時半の二時間の長き(短き)にわたって月食のショーがあった。
光を発する太陽があって、地球がその陽を受け、月がすっぽりその影に入る、天体の、人がその動きを刻々と目にする興奮のひと時であった。
月の動きが他の二つよりあまりにも速いので、水が上流から下流に流れるように僕らに可視することができる。
日が朝に東から昇り、夕には西に沈む。そのことも確かに天体の動きの反映ではあるが、日常は意識はしない。
北の人間は、冬から物事の始まりを思う。生あるものが圧迫される冬から、明けぬ夜はないとばかりに春が来、生命の息吹と盛りが瞬く間に来、凋落が来、また冬がくる。それを僕らは思惟しない。
しかし、それもまた、天体の反映なのだろう。
深刻な話ではないにしても、すべてが流転していて、本来は可視できるものなのだろうと思ったりする。

Posted at 21:53 | 随筆 | この記事のURL
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スティーヴン・キング「ダークタワー/第4巻魔導師の虹(上)76ページ」まで [2007年08月23日(木) ]


ビジュアルを文字で表現する壮大な試みは、スティーヴン・キングの飽かぬ欲望(乃至は彼のスタイルか)なのだろう。ビジュアルであろうとするためにはどんなことでも(当然文字でだが)する。陳腐なシチュエーションでも彼にかかれば読者をして眼前(脳への周到な刺激の結果)に映像を浮かばせる。また、時には形而上学の煌く言葉が、砂利道に見受けられる黄銅鉱(金でなくて残念。キングを黄銅鉱のように陳腐なものとはいう気はない)のように、発見できる。
「…一瞬のうちに〈塔〉の役割を理解した。それは力の伝送路をあらゆる世界に分配し、時の大いなる螺旋の中で安定状態を保っているのだ。…すべての手が暴力に染まらないように〈塔〉は存在しているのだ」。キングはエディを通してそう言わしめる。キングの根底にある〈塔〉への思い、それは人類の英知もそうあれと流布している。そしてそれは、今では脆く、未来に暗雲を投げかけている。だからこその呼びかけ。
「暗黒の塔/魔導師の虹(上)」76ページまでは、ローランドの“傲慢の道標“であった。傲慢は正しいものをも侵食する業病なのだと分かるまで、キングは多くの冊数を割かなければならなかった。この世は正しいものの傲慢でみちている。その業病を氷解することができるなら、旅の視界の先に平和の道標を見ることができるだろう。

Posted at 17:59 | 読後感想 | この記事のURL
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スティーブン・キング「刑務所のリタ・ヘイワース」、「ゴールデンボーイ」 [2007年08月16日(木) ]


「刑務所のリタ・ヘイワース」と「ゴールデンボーイ−恐怖の四季春夏編−」は文庫本一冊に収納されている。この読後感は僕にとってはまことに書き難いもので、三度目の正直で、出たとこ勝負で書いている。
というのも、この二つの小説を読んだ後、対応する映画を観てしまったのだ。どうしたって、原作との比較で観てしまう。「刑務所のリタ・ヘイワース」は映画では「ショーシャンクの空」となっている。なんといっても原作の重みに勝るものはない。原作を読まないで、映画を見ているとそれなりに感慨はあるのだが、「ショーシャンクの空」はそれほどの乖離はなく、5点万点の3くらいを上げようと思える。原作の与える読者への観点の混乱をもっと描けたらいいと思える程度の批判があるだけだ。
「ゴールデンボーイ」では、全く、映画のほうはゲンナリな気になってしまった。訳者、朝倉久志氏はドン・ヘロンの引用「…典型的なアメリカ少年の精神的退廃、モンスターに興味を持ち、やがては殺人に興味を持つようになる少年、ナチとモンスター・ファンとの相互寄生関係−これらに関する神話像を築きあげようとした。われわれもいつまたモンスターになるかもしれない−その過程がここに描かれている。」と紹介しているが、映画では「エッ、これ何! 全然違うよ!」と叫んでしまう僕であった。
ともあれ、映画と原作を同時進行するというのは如何ともしんどいと思える体験ではあった。

Posted at 20:46 | 読後感想 | この記事のURL
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スティーブンキングとピーター・ストラウブ「タリスマン」 [2007年08月08日(水) ]


彼ら二人の想像力をワープロで遠く離れて連結し、文字に置き換える作業、小説を書く作業は宴会(酒を伴う)に似ている。お互いに理解しあう中とはいえ、やはり宴会は静かに始まる。酒が回り、徐々に口も滑らかになるが、お互いに自制がある。さて、本格的に酔い始めると熱狂が始まり、どちらか一方が疲れるまでまくし立てる。疲れると相対者が今度はまくし立てる。偉いのは、相手がまくし立てているとき、一方は黙って聞き耳を立てて静かにしている。宴会は祭りと同じに必ず終わる。宴会がどちらかの不道徳的な言動や行為によって終わる可能性も、場合もあるが、お互い言うことを言って、肩を抱き合いながら宴会場を後にするのが一番、ハリウッド的平和というものだ。

第42章 ジャックとタリスマン 第9節
「こうして、何週間もの苦難と暗黒と絶望のすえ−その間には友人との出会いがあり、そして友人を失い、苦役の日々があり、湿った干草の山で眠った夜があり、暗闇での悪霊との出会いが会ったが、そうしたすべてを経た末に、ついにタリスマンはジャック・ソーヤーの許へやってきたのだ。

第47章 旅の終わり 第6節
「この瞬間に彼女を見た人がいたら、かならずや顔をそむけただろう…リリー・キャヴァノー(ジャックの母)の体重はいまや78ポンド…。肌は黄ばみ、まるで頭蓋骨の上に羊皮紙を貼り付けたよう…。目の下の…隈は、末期(癌)の黒い死の色に変わっていた。目…は、…知性の光を放っていた。胸のふくらみはなく…。腕の肉も落ち…。ヒップと太腿…床擦れが花開き始め…。

第12節
「やがて(タリスマンが彼女の)皮膚の内部へと吸収され…。ジャックの母は、燦然たる光に包まれた−…彼の母そのものがタリスマンとなった。すべての病が彼女の顔から逃れ去った。

ハリウッドのビジュアルを長大な文章で表現を試みた青少年相手の童話。映像化(最もそんな必要のないほど、十分ビジュアルな文章だが)するなら膨大な金と時間がかかるだろう。エンディングはもちろんアメリカンハッピィ。
(訳者/矢野浩三郎氏の解説の一説)「…『タリスマン』は『ハックルベリィ』が終わったところから始まる。」

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