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「わたしの名前はマリー」[2008年04月23日(水) ]
こんにちは。
それでは、「わたしの名前はマリー」を始めます。

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「わたしの名前はマリー」
そう言って彼女は、畳の上にある、僕の煙草の箱に手をのばした。
モデルをしてくれて3日目というのに、僕らはお互いの名前も知らなかったのだ。
僕は描きかけのキャンバスから目を離して、自分の名前を名乗り、ついでに年齢も告げた。するとマリーは、僕より5歳年上だということを、恥ずかしそうに言った。
「おいら、煙草止めようと思っているから、それあげるよ」
僕がそう言うと、マリーは笑い「私もほんとは吸えないんだあ」と抜き取った一本を、不器用に箱に戻した。


大学の必修課題である裸婦実技に、どうも気乗りがせず、僕は着衣の絵を描きたくなっていた。
何とか好みのモデルを探し出そうと街に出て、初めて入った新宿駅東口の音楽喫茶にマリーはいた。
満席の店内で、忙しそうに働くマリーに、僕はいっぺんに惹きつけられた。口元が上がり、微笑みがとても自然に見えるのと、肉感的で大柄な体が、僕を特別に魅了した。そしてそれが、小心者の僕に奇跡的な力を与えてくれたのだろうか。帰り際のレジで、唐突にモデルを頼んでも、マリーはそれにあっけないほど簡単に応じてくれた。


約束通りに僕のアパートを訪れたマリーは、昨日と同じ姿勢で僕の目の前にいる。胸元や裾にフリルをあしらった、柔らかそうな薄紫色のワンピースを身に着け、脚をくずして座ったマリーの姿は、僕の汚く狭いアパートの中で、豊潤な果実のように輝いて見えた。
「本当はね、私、横浜に住みたいの」「ああ、高校の時もっと勉強しておけばよかったあ」ポーズをしてくれている間も、マリーは何かを話していた。
出身地である愛媛のみかんのこととか、そこに暮らす大好きな妹のこととかを、まるで僕も、家族のひとりであるかのように話した。そして時折、僕が懸命に描くのを、楽しそうに見ていた。


僕は座布団にすわり込み、床に置いたキャンバスに、間断なく絵の具を置いていく。筆を動かし描き始めると、僕のキャンバスはすぐ別の世界に入り込み、さらに何ものかになろうと、油絵の具の深い色をまとっていった。
「水色の雨の歌詞の中にねえ」「あのお店のチョコレートパフェってね」
と、マリーは秘密を打ち明けるようにクスクス笑いながら話したり、夢を語るように目を閉じ、ひとり頷いたりしていた。
モデルに気兼ねしてしまうタイプの僕には、マリーはとても描き易いモデルだった。普通なら描き手の方で気を使い、懸命に話しかけたりするものだから、僕はどんどん描く事に集中できた。
少しづつマリーの話し声は遠くなり、言葉の意味もなくなってしまうほど、僕は夢中になってマリーを描いた。大きく柔らかな身体から、流れる音楽となってマリーの声は響き、そしてほどなくその音楽すらもキャンバスの中に吸いこまれ、途絶えた。


「ねえ、どっちなの」
突然、マリーの強い口調が僕を現実に引き戻した。
相づちだけをうっていた僕に、マリーは何事かを尋ねている。
僕は、マリーの話の内容を思い出そうと焦り、やっと少しの断片だけを思い出した。
「冷蔵庫」「赤レンガ」「ジーパン」「雨の日」そして「捨て猫」
だけどこれらをどう繋ぎ合わせ、マリーとの会話を再開できるというのだろう。
僕はパレットと筆で塞がった両手を、ただ曖昧に振って見せるしかなかった。
「聞いてないんでしょう、私の話、もおー」
マリーは、わざとらしく頬をふくらませながら立ち上がり、僕に近づいた。
そして、いきなり手を伸ばして、僕の持つパレットを取り上げようとする。
僕は膝立ちになり、中腰のまま身体をよじって、ただ抵抗するしかなかった。
「ケーキをつくるには、どうしても冷蔵庫が必要だ」とか「横浜の赤レンガ倉庫に行こうよ」とか「絵の具の付いたジーパンしかないのか。」「雨の日に捨て猫に出合ったら、拾うしかないよね」といったことを、どうやら話していたらしい。
同じ話を矢継ぎ早に僕にぶつけながら、マリーは僕を攻め続けた。
目の前でマリーの柔らかな体が揺れ、僕の肘や腕に触れるたび、甘い匂いが僕の身体を包み込む。笑い声や無邪気な動作にまぎれても、二人の身体は何かを求め近づいていったのだ。
そして僕がどうしてもパレットを離さないのがわかると、マリーはじれったそうに僕の頭を両手で押さえた。それからゆっくりと力強く自分のお腹に押しつけ、自ら悪ふざけの終りを告げた。
部屋に静寂が戻るとマリーは、僕の足元にあるキャンバスをそっと脇に押しやった。そしてそこへゆっくりと自分の体を横たえ、仰向けになった。
マリーの着けた薄手の布の中で、乳房が揺れ、めくれてしまったワンピースの裾から白い肌がのぞいた。身の置き所の無いほどの激しい鼓動が、僕を襲う。
「いいわよ」
湿ったマリーの声が、僕の鼓膜の内側でうずいた。
それが何を意味するのか、まだ女性を知らない僕にもわかった。
けれど、マリーの豊かな肉体は、今の僕には、とてつもない豪華な宝物のように思えた。
震える長い睫毛、少し微笑んで見える薄く開いた唇。深く息をするマリーの姿態全てに、僕の入りこめない聖域を感じたのだ。
つまりは、あろう事か僕は、怖じ気づいていたのかも知れない。
全ての男達が、輝くような大海原を見て、すぐ航海ができるわけではないだろうし、ましてや僕は小心者だ。
吸い込まれるような艶やかな体を前にしながら、僕はマリーに触れることができなかった。
そしてそれがはっきり分かると、僕はしどろもどろに何かをつぶやき、畳の上にパレットと筆を置いた。そして、マリーの身体から逃げるように流し台の前に立った。
コーヒー瓶の蓋を開けると、後ろを振り返らず、僕は言った。
「インスタントだけどさあ、コーヒー飲もうか。」
薄闇に横たわるマリーは、何も答えない。
マリーが震えているのもわかったし、ここでコーヒーを勧めるべきでないこともわかっていた。けれどこの時この他に、僕のできることは何もなかったのだ。
そしてその日から、マリーは来なくなった。


立てかけたキャンバスの中のマリーを眺めながら、僕はあまり眠れない4日間を過した。
そして5日目、僕は全身から吹き出た汗に驚き、飛び起きた。
夢を見たのだ。マリーの乗った電車に僕は追いつき、急いで乗ろうとする。しかし何度追いついても、僕は乗れないで、ただ電車は通り過ぎる。そんな分かり易い夢だったが、嫌というほどの繰り返しで、へとへとに疲れていた。
でもその夢のおかげなのか、胸にあった暗くて重いものが消えていた。そして形の無い大切なものが、僕の心の中で大きくなっていることに気がついた。それはきっと何か不思議な法則で創られていて、あの日マリーが、僕の心の中に置いていったものなのだ。
その日、僕はこの5日間でやっと理解できた「形の無い、とても大切なもの」を心の支えに、再び新宿の音楽喫茶を訪ねた。


「マリー? 4、5日前から、店には来てないよ。困った奴だよ。もう娘っこでもないだろうにな。行き先?分かんねえなあ。歌舞伎町あたりにでも流れたんじゃないの。」
煙草をくわえたまま下卑た笑いをする店主に、僕はそれ以上尋ねることはせず、頭を下げて店を出た。
新宿の喧噪の中を歩きながら、僕は努めて冷静に、ゆっくりと空を見上げた。
雨でも落ちてきそうな、暗く重苦しい雲が、東の空に淀んでいた。
あの嫌な雲の下に、マリーがいない事を。そして例えいたとしても、雨にはあたらないことを僕は願った。
本当はたくさんのいいわけが胸に溢れていたのだが、そんなことはマリーには意味が無いと思った。だから僕は眠れなかった日々にこしらえた、僕なりの計画を心の中で繰り返した。そして、マリーにも良く伝わるようにと、言葉をきちんと区切り、つぶやいた。
「白のスカイラインに、君を乗せて、僕はチノパンをはいて、君の好きなパフェを食べて、赤レンガの倉庫に行って」と。
マリーの喜ぶ顔が少し浮かんだが、誰かが僕の肩にぶつかって、僕は新宿の風景の中に引き戻される。それでも僕は、溢れ出るたくさんの悔しさと戦いながら、それほど遠くない、空の下のマリーに、懸命に話しかけた。
「ついでにワインも飲んで、雨が降ったら、捨て猫をひろって、」と。


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文章は、私の夢想です。
この作品のサイズは約117×92cm(F50号)キャンバスに油彩
作品裏に作者サインとタイトルがあります。
制作年の記入はなく、正確には把握できませんが、昭和50年代後半と推測しています。
描かれているモチーフがとても私的で、おそらくは制作者の部屋で描かれていると考えられます。
画面右側に室内スタンドのふさふさ飾りがあります。木製であったと思われるスタンド部分は大胆にカットし、ふさふさ飾りとその後部に描かれているドライフラワーのかすみ草が、画面全体の装飾性に大きな役目をはたしています。
しかし奇妙なことに、画面の右側の装飾的モチーフに比べると、左側画面は素っ気無くも、あやしい雰囲気を持ちます。こちらを凝視する黒猫、まったく光の無い大きな窓。不可思議なバランスです。
最初見た時、私にはこの左右のバランスがどうもしっくりきませんでした。そして試しに、この闇を放つ窓をやめ、窓の外に植物か街並みでも描いたなら、どうなるだろうと想像してみました。
もちろん、作品を台無しにしてしまうでしょう。
つまりモデルさんと一体になった黒猫、そして黒猫と一体になった闇の窓。そのつながりがあればこそ、作品の価値と個性があったのです。
ちなみに作品の重さは6.2Kgあります。F50号の木枠とキャンバスの重さは普通3Kg弱ですから、絵の具の重さだけで3.2Kgあります。この女性のイメージを定着させるために費やした絵の具の量はかなりの量です。
女性が、単に絵のモデルさんということでは無いのは歴然です。この女性に対する作者の思いは、生半可なものではなく、女性の個性・雰囲気、そして何か人格までをも描き出そうと、画面は重厚なものとなっています。
私はこの作品に、昭和末期の濃密なエロチシズムを感じています。おそらく、当時若かった私には理解できなかったであろうものが、時代に熟成され私に届けられたように思っているのです。
最後になりましたが、私の夢想とは裏腹に、作者名には女性の名前が記してあり、私にとっては謎の多い作品となってしまいました。


拙い記事におつきあいいただきありがとうございました。
次回は4月27日(日)(掲載時刻未定)
風景画油絵「仙人岳での遭難」を掲載します。
          

※使用している映像、画像のオリジナルは当方が所有しています。
しかし、これらには出処不明のものが少なからずあります。
著作・肖像権の消滅していると思われるものを使用しますが、
もし著作者ご本人で、掲載に異議のある方は、
私のサイトhttp://www31.ocn.ne.jp/~tokyusha/ から
ご連絡ください。
画像削除等、誠意をもって対応させていただきます。

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コメント


アップ時しか、こちらのブログに寄れず、申し訳ありません。よろしかったらまた、お寄りください。
Posted by:雅彦  at 2008年04月27日(日) 11:22

はじめまして

一枚の絵からストーリーをつむぎ出されるのですね。
絵の奥まで深く見通す感性に脱帽いたしました。
次の掲載も楽しみにいます。
Posted by:座無  at 2008年04月24日(木) 20:38

再度訪問しました。

面白いですよ。
次回も期待しております。
Posted by:湘南ジョガー  at 2008年04月24日(木) 13:30

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