フェデリコ・フェリーニ監督の「8 1/2」が、渋谷で久々にニュープリント上映されているのを期に、詳しくご紹介します。
1963年、45年前のイタリア映画で、映画芸術の古典ですが、まったく色あせず、観念的にも感覚的にもイメージ的にも、これぞ映画だという圧倒的な映画です。
映画監督の創作の苦悩と混沌の日常を描き、映画の中で映画を作るという離れ業。夢と現実、記憶と妄想が、陶酔的な映像美学の飛躍のマジックで映し出されます。
斬新な表現から難解映画の代名詞のように言われた時代もありましたが、ある意味、こんな人に優しい映画はありません。
動くイメージ絵画を観るように映像にみとれ、音楽を聴き、文学的に読み込み、哲学として思索し、オペラや芝居のように映画そのものを楽しめます。
また、大団円とはこれだという素晴らしいラストは、人間の苦悩や本能をまるごと認めてしまおうとの壮大な意思で、最後には生きる意欲を沸き立たせる。映画の映画たるすべてがここにあります。
《構成とあらすじなど》
43歳の映画監督グイドが新作映画に着手。しかし思うように進まず、私生活も落ち着かず、創作とビジネス、芸術家と個人のハザマで、苦悩する物語です。
このときフェリーニ43歳。グイドがフェリーニの分身なのはいうまでもありません。
グイドの映画は最後には製作中止になるので、“映画を撮れなかった映画監督の物語”ともいわれます。
タイトルは“作品ナンバー”だというのが通説。共同監督作品を1/2本にカウントしたら、“8本と半分”の映画を作ったフェリーニの作品数だというのですが、オムニバス映画などもあり、実は計算が合いません。この「8 1/2」自体を数に加えるのか、あるいはグイド監督が作ろうとして中止になった映画も1/2本として加えるのかも知れません。
タイトルの作品数さえ正解などないのだ、人生は見方次第、いかようにも真実は変わるという暗喩だともいえます。アメリカでは公開当時、“Confusion”(混乱)という副題がつけられています。
この映画の後から、映画監督が主人公の映画や、映画の製作現場を映画で描く映画はたくさん作られましたが、本当の意味で、映画の中に映画がある、というのをやり遂げたのはこの作品だけです。
映像表現として、現在と過去の回想シーン、現実場面と夢や幻想シーンを、同じリアリズム映像で描き、それを説明ぬきで編集で並列させる、当時は斬新で難解だとされた手法を大胆に用いています。
重層的な映像イメージで時空間を自在に対比し、現在と過去、あるいは現実と空想を、等価値なものとして並べます。想起される記憶がデフォルメされるごとく、現実だって主観的には自在に変化する。事実も願望も、真実も観念も、存在自体が複雑で多面的だという、映画ならではの自由な表現です。
・・・
グイド監督が作ろうとした映画が具体的にどんな内容だったかは、「8 1/2」の中で説明はなく、これまで45年間、明快な解説も出ていません。
映画の中で準備されたセット、グイド監督が進める俳優のオーディション風景、脚本家との創作上の議論などから推測すると、苦悩する芸術家が最後は宇宙ロケットで地球を脱出するという物語のようです。のちにフェリーニは「インテルビスタ」で、カフカの「アメリカ」を映画化するフェリーニ自身を登場させていますが、これこそグイドの映画だったとの説もあります。カフカは1963年当時、20世紀を象徴する作家とされていました。
ともあれグイド監督が新作映画の主人公に自分自身を託して描こうとしているのは明らかで、これはフェリーニが「8 1/2」でグイドに自分を投影しているのと二重構造になっています。
もっともグイド映画の主人公は最後まで姿を見せません。
製作現場を見学にきたグイドの奥さんが、配役オーディションのラッシュフィルムをみる場面。グイド映画の主人公の奥さんや愛人のイメージは、グイド監督自身の奥さんや愛人のイメージそのまま。つまり自分の役を何人もの役者が自分と似たメークで同じセリフをいうのに驚くやら呆れるやらです。
しかし、映画製作は遅々として進みません。シナリオは固まらず、撮影スケジュールも立ちません。
それでも宇宙ロケットの発射台セットが空き地に出来上がり、俳優たちが集まり出し、衣装合わせやメークテストが始まり、世界中から報道陣が取材に訪れます。
映画製作は集団の分業作業ですが、最終決定はすべてが監督のOK次第。グイドは、歩きながら、打ち合わせしながら、役者の挨拶を受けながら、矢継ぎ早にYES/NOを聞きにくるスタッフに指示を出さなければなりません。
肝心の映画の内容に自信がなく、何を描くか迷っているのに、部分最適のパーツごとの決定を次から次へと行うしかない映画監督のジレンマ。まさに人生の縮図です。
無駄に見える時間があわただしく過ぎていきますが、それが現実の創造過程です。
待望の主演女優の到着。撮影許可交渉もかねたカトリック枢機卿との面談。友人の初老の監督が、若い娘みたいな新しい恋人を温泉保養に連れて来て再会。ジャーナリストや関係者との毎夜の晩餐。社交場は、同時に打ち合わせ場所であり、取材会場です。
グイド監督のイメージは頭の中で勝手に膨らみ、幼児体験や個人的な記憶をイメージ化して全部映画に盛り込もうとしていきます。
カトリックの寄宿舎で過ごした少年期の思い出。死んだ両親の晩年の思い出。懐かしい記憶や風景を、そのまま回想シーンなのか幻想シーンなのか分からない形でリアルに映像化。
映画「8 1/2」を観ている観客には出所はグイドのイメージだと分かっていても、具体的な映像がグイド映画の製作中の一場面なのか、回想シーンなのか、単にグイドの空想イメージなのか、だんだん区別がつかなくなります。
グイドが、自分の周囲の女性たち、誘惑の視線を送ってくる熟年女優や、浮気を疑う奥さんや、押しかけてきて駄々をこねる愛人に加えて、記憶の中の乳母や、少年期に強烈な印象を残した海辺に住むデブ狂女のサラギーナも、みんな一緒にまとめてハーレムのように自分にかしずかせる夢想に耽る。するとそれが具象的な映像として描かれます。現実ではないグイドの夢想場面としてみているものの、過去の回想なのか、妄想シーンなのか、個々のシーンのイメージの面白さや絵柄の美しさに、どっちでもよくなり、ある種の快感的な混沌と混乱を味わえることになっていきます。
これがこの映画の面白さです。
そして映画というのはそもそもが、そういう虚像を観る快感。すなわち映画によって映画の快感を確認する仕掛け、それがフェリーニ魔術なのです。
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1963年、45年前のイタリア映画で、映画芸術の古典ですが、まったく色あせず、観念的にも感覚的にもイメージ的にも、これぞ映画だという圧倒的な映画です。
映画監督の創作の苦悩と混沌の日常を描き、映画の中で映画を作るという離れ業。夢と現実、記憶と妄想が、陶酔的な映像美学の飛躍のマジックで映し出されます。
斬新な表現から難解映画の代名詞のように言われた時代もありましたが、ある意味、こんな人に優しい映画はありません。
動くイメージ絵画を観るように映像にみとれ、音楽を聴き、文学的に読み込み、哲学として思索し、オペラや芝居のように映画そのものを楽しめます。
また、大団円とはこれだという素晴らしいラストは、人間の苦悩や本能をまるごと認めてしまおうとの壮大な意思で、最後には生きる意欲を沸き立たせる。映画の映画たるすべてがここにあります。
《構成とあらすじなど》
43歳の映画監督グイドが新作映画に着手。しかし思うように進まず、私生活も落ち着かず、創作とビジネス、芸術家と個人のハザマで、苦悩する物語です。
このときフェリーニ43歳。グイドがフェリーニの分身なのはいうまでもありません。
グイドの映画は最後には製作中止になるので、“映画を撮れなかった映画監督の物語”ともいわれます。
タイトルは“作品ナンバー”だというのが通説。共同監督作品を1/2本にカウントしたら、“8本と半分”の映画を作ったフェリーニの作品数だというのですが、オムニバス映画などもあり、実は計算が合いません。この「8 1/2」自体を数に加えるのか、あるいはグイド監督が作ろうとして中止になった映画も1/2本として加えるのかも知れません。
タイトルの作品数さえ正解などないのだ、人生は見方次第、いかようにも真実は変わるという暗喩だともいえます。アメリカでは公開当時、“Confusion”(混乱)という副題がつけられています。
この映画の後から、映画監督が主人公の映画や、映画の製作現場を映画で描く映画はたくさん作られましたが、本当の意味で、映画の中に映画がある、というのをやり遂げたのはこの作品だけです。
映像表現として、現在と過去の回想シーン、現実場面と夢や幻想シーンを、同じリアリズム映像で描き、それを説明ぬきで編集で並列させる、当時は斬新で難解だとされた手法を大胆に用いています。
重層的な映像イメージで時空間を自在に対比し、現在と過去、あるいは現実と空想を、等価値なものとして並べます。想起される記憶がデフォルメされるごとく、現実だって主観的には自在に変化する。事実も願望も、真実も観念も、存在自体が複雑で多面的だという、映画ならではの自由な表現です。
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グイド監督が作ろうとした映画が具体的にどんな内容だったかは、「8 1/2」の中で説明はなく、これまで45年間、明快な解説も出ていません。
映画の中で準備されたセット、グイド監督が進める俳優のオーディション風景、脚本家との創作上の議論などから推測すると、苦悩する芸術家が最後は宇宙ロケットで地球を脱出するという物語のようです。のちにフェリーニは「インテルビスタ」で、カフカの「アメリカ」を映画化するフェリーニ自身を登場させていますが、これこそグイドの映画だったとの説もあります。カフカは1963年当時、20世紀を象徴する作家とされていました。
ともあれグイド監督が新作映画の主人公に自分自身を託して描こうとしているのは明らかで、これはフェリーニが「8 1/2」でグイドに自分を投影しているのと二重構造になっています。
もっともグイド映画の主人公は最後まで姿を見せません。
製作現場を見学にきたグイドの奥さんが、配役オーディションのラッシュフィルムをみる場面。グイド映画の主人公の奥さんや愛人のイメージは、グイド監督自身の奥さんや愛人のイメージそのまま。つまり自分の役を何人もの役者が自分と似たメークで同じセリフをいうのに驚くやら呆れるやらです。
しかし、映画製作は遅々として進みません。シナリオは固まらず、撮影スケジュールも立ちません。
それでも宇宙ロケットの発射台セットが空き地に出来上がり、俳優たちが集まり出し、衣装合わせやメークテストが始まり、世界中から報道陣が取材に訪れます。
映画製作は集団の分業作業ですが、最終決定はすべてが監督のOK次第。グイドは、歩きながら、打ち合わせしながら、役者の挨拶を受けながら、矢継ぎ早にYES/NOを聞きにくるスタッフに指示を出さなければなりません。
肝心の映画の内容に自信がなく、何を描くか迷っているのに、部分最適のパーツごとの決定を次から次へと行うしかない映画監督のジレンマ。まさに人生の縮図です。
無駄に見える時間があわただしく過ぎていきますが、それが現実の創造過程です。
待望の主演女優の到着。撮影許可交渉もかねたカトリック枢機卿との面談。友人の初老の監督が、若い娘みたいな新しい恋人を温泉保養に連れて来て再会。ジャーナリストや関係者との毎夜の晩餐。社交場は、同時に打ち合わせ場所であり、取材会場です。
グイド監督のイメージは頭の中で勝手に膨らみ、幼児体験や個人的な記憶をイメージ化して全部映画に盛り込もうとしていきます。
カトリックの寄宿舎で過ごした少年期の思い出。死んだ両親の晩年の思い出。懐かしい記憶や風景を、そのまま回想シーンなのか幻想シーンなのか分からない形でリアルに映像化。
映画「8 1/2」を観ている観客には出所はグイドのイメージだと分かっていても、具体的な映像がグイド映画の製作中の一場面なのか、回想シーンなのか、単にグイドの空想イメージなのか、だんだん区別がつかなくなります。
グイドが、自分の周囲の女性たち、誘惑の視線を送ってくる熟年女優や、浮気を疑う奥さんや、押しかけてきて駄々をこねる愛人に加えて、記憶の中の乳母や、少年期に強烈な印象を残した海辺に住むデブ狂女のサラギーナも、みんな一緒にまとめてハーレムのように自分にかしずかせる夢想に耽る。するとそれが具象的な映像として描かれます。現実ではないグイドの夢想場面としてみているものの、過去の回想なのか、妄想シーンなのか、個々のシーンのイメージの面白さや絵柄の美しさに、どっちでもよくなり、ある種の快感的な混沌と混乱を味わえることになっていきます。
これがこの映画の面白さです。
そして映画というのはそもそもが、そういう虚像を観る快感。すなわち映画によって映画の快感を確認する仕掛け、それがフェリーニ魔術なのです。
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