8月が近づくと、「学童疎開」「終戦」「リンゴの唄」 が連想ゲームのように思い出されてきます。
終戦の日は小学6年で、群馬県内の学童疎開先で迎えました。
先生から重大放送があるから全員聞くように、ということでラジオの前に集合したのです。
ラジオは雑音ばかりで何のことかサッパリ判りませんでしたが、後で先生から「戦争に負けた。これからは復興?再建?のための疎開になる」という話があったことを憶えています。
そして先生の話を聞きながら皆が泣きました。今になって思うと何故泣いたのかは判りませんが、一つだけ “これで皆が殺されるのだ” と思ったことは確かです。
この日はとても晴れていたような記憶があります。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
学童疎開のことですが、昭和19年(1944年)8月11日に東京を出発し、翌20年10月20日迄の約1年2ヶ月、私たちは群馬県下で過ごすことになりました。
行った当時は遠足気分で面白可笑しく過ごしていましたが、たぶん数日経った頃からだと思いますが、夕方になり薄暗くなると 皆が廊下に出て膝を抱えて黙りこくり、一人がシクシクはじめると それを合図のようにして全員が泣き出すのです。
この光景は、既に60年以上経った今でも鮮明に覚えているから不思議です。
他校では疎開先から脱走する生徒もいましたし、噂では自殺した子供も居た ということも聞いたことがあります。
その時期を越すと元の子供に戻り、他校の生徒とケンカをしたり、地元の子供にいじめられたり、近隣の山へ栗拾いに行ったり、全員で買い出しに行ったり、松の根を掘ったり(松の根を松根油(ショウコンユ)にするための勤労奉仕)の日々で、勉強をしていたかどうか?
既に疎開に慣れたということもあり、風呂に入りながら皆で軍歌をはじめ、「明日はお発ちか」「ダンチョネ節」「ラバウル小唄」「湖畔の宿」「祇園小唄」等々 今の小学生では考えられないような歌を歌ったりしていました。
思い出の風景
私たちを担当してくれた先生は進歩的というのでしょうか、スケート靴を持っていて冬の凍った田圃でスケートを教えてくれました。 なお後のことになりますが、戦後はローマ字を教えてくれたので、或る程度の読み書きは出来るようになっていました。
やがて昭和20年になり、1年上の6年生は卒業のため東京に戻って行きました。 が、この頃は空襲も激しくなっていて、私たちの住んでいる所も空襲にあい、噂では東京に戻った6年生の中に死んでしまった生徒もいたようです。
勿論これについては秘密事項と思いますが、この噂は流れていました。
やがて 特殊な爆弾が落とされた と言う話や、どうも戦争は負けそうだ、と言う噂が流れ、8月の晴れた日に終戦となったのです。
その年の10月、全員が東京に戻り学校で解散となりましたが、学校は焼けていましたし、周囲も焼け跡や強制疎開 【 家屋の強制疎開は、防火帯を作って延焼防止のために行われるもので、戦時中は長年住み慣れた家も「指令」という名で取り壊された】 で空き地が広がっていました。
家に着くと、電灯が暗かったことと、狭い家(幸いにも焼けなかった)に親戚の人たちが同居している という 知らなかったことが目の前にありました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ここで何故かよく判らないのですが、「リンゴの唄」を聞くと駅前の闇市を連想してしまうのです。 駅前広場にヨシズ張りのような囲いを作った露天で、大勢の人たちが行き来していました。
【 闇市とは・・・敗戦直後、日本は深刻な食糧難に陥る。特に東京の食料不足は絶望的な様相を呈する。
公的な流通機構「配給制度」はほとんど壊滅状態にあり、実質的には「闇市」や、地方への「買出し」によって食糧が調達された。
と説明されています。】
その駅前広場が夜になると「夜の女狩り」があり、関係の無いような女性も強制的に車に乗せられ、警察に連れて行かれました。
夜の女とは・・・終戦後生活のために或る女性は進駐軍相手に体を売って生活する人たちを言い、俗にパンパンガールと呼ばれていました。
これらのことをお話し始めるとキリがなく、まだまだあるのですが、これが小学生だった私の終戦前後です。
終戦の日は小学6年で、群馬県内の学童疎開先で迎えました。
先生から重大放送があるから全員聞くように、ということでラジオの前に集合したのです。
ラジオは雑音ばかりで何のことかサッパリ判りませんでしたが、後で先生から「戦争に負けた。これからは復興?再建?のための疎開になる」という話があったことを憶えています。
そして先生の話を聞きながら皆が泣きました。今になって思うと何故泣いたのかは判りませんが、一つだけ “これで皆が殺されるのだ” と思ったことは確かです。
この日はとても晴れていたような記憶があります。
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学童疎開のことですが、昭和19年(1944年)8月11日に東京を出発し、翌20年10月20日迄の約1年2ヶ月、私たちは群馬県下で過ごすことになりました。
行った当時は遠足気分で面白可笑しく過ごしていましたが、たぶん数日経った頃からだと思いますが、夕方になり薄暗くなると 皆が廊下に出て膝を抱えて黙りこくり、一人がシクシクはじめると それを合図のようにして全員が泣き出すのです。
この光景は、既に60年以上経った今でも鮮明に覚えているから不思議です。
他校では疎開先から脱走する生徒もいましたし、噂では自殺した子供も居た ということも聞いたことがあります。
その時期を越すと元の子供に戻り、他校の生徒とケンカをしたり、地元の子供にいじめられたり、近隣の山へ栗拾いに行ったり、全員で買い出しに行ったり、松の根を掘ったり(松の根を松根油(ショウコンユ)にするための勤労奉仕)の日々で、勉強をしていたかどうか?
既に疎開に慣れたということもあり、風呂に入りながら皆で軍歌をはじめ、「明日はお発ちか」「ダンチョネ節」「ラバウル小唄」「湖畔の宿」「祇園小唄」等々 今の小学生では考えられないような歌を歌ったりしていました。
思い出の風景
私たちを担当してくれた先生は進歩的というのでしょうか、スケート靴を持っていて冬の凍った田圃でスケートを教えてくれました。 なお後のことになりますが、戦後はローマ字を教えてくれたので、或る程度の読み書きは出来るようになっていました。
やがて昭和20年になり、1年上の6年生は卒業のため東京に戻って行きました。 が、この頃は空襲も激しくなっていて、私たちの住んでいる所も空襲にあい、噂では東京に戻った6年生の中に死んでしまった生徒もいたようです。
勿論これについては秘密事項と思いますが、この噂は流れていました。
やがて 特殊な爆弾が落とされた と言う話や、どうも戦争は負けそうだ、と言う噂が流れ、8月の晴れた日に終戦となったのです。
その年の10月、全員が東京に戻り学校で解散となりましたが、学校は焼けていましたし、周囲も焼け跡や強制疎開 【 家屋の強制疎開は、防火帯を作って延焼防止のために行われるもので、戦時中は長年住み慣れた家も「指令」という名で取り壊された】 で空き地が広がっていました。
家に着くと、電灯が暗かったことと、狭い家(幸いにも焼けなかった)に親戚の人たちが同居している という 知らなかったことが目の前にありました。
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ここで何故かよく判らないのですが、「リンゴの唄」を聞くと駅前の闇市を連想してしまうのです。 駅前広場にヨシズ張りのような囲いを作った露天で、大勢の人たちが行き来していました。
【 闇市とは・・・敗戦直後、日本は深刻な食糧難に陥る。特に東京の食料不足は絶望的な様相を呈する。
公的な流通機構「配給制度」はほとんど壊滅状態にあり、実質的には「闇市」や、地方への「買出し」によって食糧が調達された。
と説明されています。】
その駅前広場が夜になると「夜の女狩り」があり、関係の無いような女性も強制的に車に乗せられ、警察に連れて行かれました。
夜の女とは・・・終戦後生活のために或る女性は進駐軍相手に体を売って生活する人たちを言い、俗にパンパンガールと呼ばれていました。
これらのことをお話し始めるとキリがなく、まだまだあるのですが、これが小学生だった私の終戦前後です。
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at 22:49
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仰るとおり私自身このままで良いのだろうか、と思うことがありますが、平和慣れしてしまい日々に流されています。
8月になると戦争当時の物語がTVなどで放送されますが、私はどうしても観ることが出来ません。
が、一方では ブラブラ歩きなどしながら このままで良いのだろうか、と言う 一瞬 ですが思うこともあるのです。