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終戦と「リンゴの唄」(長文ですが)[2007年08月09日(木) ]
8月が近づくと、「学童疎開」「終戦」「リンゴの唄」 が連想ゲームのように思い出されてきます。

終戦の日は小学6年で、群馬県内の学童疎開先で迎えました。
先生から重大放送があるから全員聞くように、ということでラジオの前に集合したのです。

ラジオは雑音ばかりで何のことかサッパリ判りませんでしたが、後で先生から「戦争に負けた。これからは復興?再建?のための疎開になる」という話があったことを憶えています。

そして先生の話を聞きながら皆が泣きました。今になって思うと何故泣いたのかは判りませんが、一つだけ “これで皆が殺されるのだ” と思ったことは確かです。 
この日はとても晴れていたような記憶があります。

  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

学童疎開のことですが、昭和19年(1944年)8月11日に東京を出発し、翌20年10月20日迄の約1年2ヶ月、私たちは群馬県下で過ごすことになりました。 

行った当時は遠足気分で面白可笑しく過ごしていましたが、たぶん数日経った頃からだと思いますが、夕方になり薄暗くなると 皆が廊下に出て膝を抱えて黙りこくり、一人がシクシクはじめると それを合図のようにして全員が泣き出すのです。 

この光景は、既に60年以上経った今でも鮮明に覚えているから不思議です。
他校では疎開先から脱走する生徒もいましたし、噂では自殺した子供も居た ということも聞いたことがあります。

その時期を越すと元の子供に戻り、他校の生徒とケンカをしたり、地元の子供にいじめられたり、近隣の山へ栗拾いに行ったり、全員で買い出しに行ったり、松の根を掘ったり(松の根を松根油(ショウコンユ)にするための勤労奉仕)の日々で、勉強をしていたかどうか? 

既に疎開に慣れたということもあり、風呂に入りながら皆で軍歌をはじめ、明日はお発ちか」「ダンチョネ節」「ラバウル小唄」「湖畔の宿」「祇園小唄」等々 今の小学生では考えられないような歌を歌ったりしていました。 

         思い出の風景

私たちを担当してくれた先生は進歩的というのでしょうか、スケート靴を持っていて冬の凍った田圃でスケートを教えてくれました。 なお後のことになりますが、戦後はローマ字を教えてくれたので、或る程度の読み書きは出来るようになっていました。

やがて昭和20年になり、1年上の6年生は卒業のため東京に戻って行きました。 が、この頃は空襲も激しくなっていて、私たちの住んでいる所も空襲にあい、噂では東京に戻った6年生の中に死んでしまった生徒もいたようです。 
勿論これについては秘密事項と思いますが、この噂は流れていました。 

やがて 特殊な爆弾が落とされた と言う話や、どうも戦争は負けそうだ、と言う噂が流れ、8月の晴れた日に終戦となったのです。

その年の10月、全員が東京に戻り学校で解散となりましたが、学校は焼けていましたし、周囲も焼け跡や強制疎開 【 家屋の強制疎開は、防火帯を作って延焼防止のために行われるもので、戦時中は長年住み慣れた家も「指令」という名で取り壊された】 で空き地が広がっていました。

家に着くと、電灯が暗かったことと、狭い家(幸いにも焼けなかった)に親戚の人たちが同居している という 知らなかったことが目の前にありました。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ここで何故かよく判らないのですが、「リンゴの唄」を聞くと駅前の闇市を連想してしまうのです。 駅前広場にヨシズ張りのような囲いを作った露天で、大勢の人たちが行き来していました。

【 闇市とは・・・敗戦直後、日本は深刻な食糧難に陥る。特に東京の食料不足は絶望的な様相を呈する。
公的な流通機構「配給制度」はほとんど壊滅状態にあり、実質的には「闇市」や、地方への「買出し」によって食糧が調達された。 
と説明されています。】

その駅前広場が夜になると「夜の女狩り」があり、関係の無いような女性も強制的に車に乗せられ、警察に連れて行かれました。

夜の女とは・・・終戦後生活のために或る女性は進駐軍相手に体を売って生活する人たちを言い、俗にパンパンガールと呼ばれていました。

これらのことをお話し始めるとキリがなく、まだまだあるのですが、これが小学生だった私の終戦前後です。
  

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コメント


yumezi さん、長文なのにコメントを有り難うございました。
仰るとおり私自身このままで良いのだろうか、と思うことがありますが、平和慣れしてしまい日々に流されています。

8月になると戦争当時の物語がTVなどで放送されますが、私はどうしても観ることが出来ません。
が、一方では ブラブラ歩きなどしながら このままで良いのだろうか、と言う 一瞬 ですが思うこともあるのです。
Posted by:遊歩  at 2007年08月12日(日) 14:52

遊歩さん

終戦、そして戦後の問題が寄せられていますが、これ、ほんとに重いテーマになってきます。お互いが間違った歴史観を持たないように、各個人としても勉強し検証しなければならない問題でしょう。
何故負けると予想されていた戦争に突入しなければならなかったのか?
敗因は?アメリカの占領政策、戦後の日本の復興、そして現代日本の精神的荒廃など戦後の後遺症はまだ続いています。
先日もテレビで南方の激戦の島で、日本兵の遺骨が無数に雨ざらしにされ放置されていることが放映されていました。
家族に見送られ戦場に、国のため家族の為に戦った方々が異国の島で放置されている。これをどう考えたらいいのでしょうか?
遊歩さんのお兄様も沖縄戦で行方不明であるとか・・・戦争が終わっていないことを考えさせられます。
平和に酔いしれている現代、その蔭でそんな悲劇が不合理がまだ続いている
日本人として悲しく恥ずかしいことだと思います。
Posted by:yumezi  at 2007年08月12日(日) 13:07

やうち さん、長文なのにコメントを有り難うございました。
「予科練の歌」「加藤隼戦闘隊」などは教わった記憶はありませんが、皆でよく歌ったもので、兵隊になって国のために死ぬのだ と思い続けていましたから、今思うと教育というのは恐ろしいものだと思いますね。
これらの歌をいつも歌っていた同級生も、飛行機や軍艦を上手に描く友達も既に亡くなりました。

歌の続きは
   ♪お国のために お国のために戦った
    兵隊さんのお陰です 

でしたね。
けれども兄のことなどがありまして、戦後の私は殆ど軍歌を歌わなくなりました。
Posted by:遊歩  at 2007年08月11日(土) 22:34

遊歩さま、

学童疎開のこと、松根油のこと、闇市のことなど、体験者の大兄から直接お聞きできて大変勉強になりました。
私は終戦の年が国民学校一年生でして、当時のことは、まだよく理解できる歳ではありませんでした。また機会をみて書いてください。

  
肩をならべて 兄さんと  
   今日も学校へ 行けるのは  
   兵隊さんの おかげです〜
Posted by:やうち  at 2007年08月11日(土) 22:02

黒めだか さん、2度に亘るコメントを下さいまして、有り難うございました。
続きになるかどうか判りませんが、お言葉に甘えまして思い起こしてみることにします。
Posted by:遊歩  at 2007年08月10日(金) 22:42

しゅんか さん、長文なのにコメントを有り難うございました。
終戦当時、北海道はソ連に占領される と言う噂が流れましたが、もしそうなっていたら 今の南・北朝鮮や、過去の東・西ドイツのようになっていたかも知れませんね。

兵隊として行かれた方々は、学童疎開とは比べものにならないようなご苦労をされたのではないでしょうか。
Posted by:遊歩  at 2007年08月10日(金) 22:39

どうしても、もう一度、すみませんが、気になります。
遊歩さまが記憶されて、みなさんもコメントされている、この
テーマは、とても大切です。
そこで、もしよろしければ、もう少し「生々しい」現実を知りたい
と思います。これは興味本位のことではなく、私達世代が子供たち
孫たちへ、どうしても性格に伝えて生きたいことなんです。
誠に勝手なことですが、可能でしたら、この続きを公表して欲しい
と願います。
Posted by:黒めだか  at 2007年08月10日(金) 20:53

遊歩様

とても参考になりました。正直、戦後生まれ
ですので、それこそ「戦争を知りません」

私は北海道の出身で、学校で両親から
戦時の暮らしを聞いてくるようにと宿題が
ありました。母に聞きましたら「北海道の
田舎だったので食料はあった(自分で作って
いたから)室蘭とかの軍事工場があった所
は空襲があったと聞いた」と話していました。

でもそれ以前の暮らしが都会とは違います。
自給自足の生活なのです。父は戦争に
行っております。
様々な戦争体験です。
Posted by:しゅんか  at 2007年08月10日(金) 20:35

道祖神さん、長文なのにコメントを有り難うございました。
ご無事で帰還が出来て良かったですね。
私の兄は沖縄でしたので、未だに行方不明状態です。

終戦の頃の思い出は各人各様でお持ちなのでしょうね。
それにしても「リンゴの歌」からエレクトーン演奏とは、凄い行動力ですね。驚きです!
Posted by:遊歩  at 2007年08月10日(金) 18:48

Rui さん、長文なのにコメントを有り難うございました。
【縁側で縫い物をしながらその話をしてくれた】とのお話が、さだまさしの「秋桜」にダブりました。

8月になると、原爆・終戦など戦争の追想TVが ドラマやドキュメンタリーとして放送されますが、見たくないという思いの方が強いかも知れない8月です。
Posted by:遊歩  at 2007年08月10日(金) 18:38

遊歩さま、終戦間じかな時期の話しは、父母から良く聞いております。
父は満州関東軍(ノモンハン)、上海、シンガポールと転戦しながらも
無事終戦前に帰国しております。各地の写真を多く持っており、
それを見ながら話しを聞かせてくれました。また、東京大空襲の時は
焼夷弾の降り注ぐ中を品川から深川・木場まで歩いて帰ったそうです。
途中の光景を見たままで、話してくれたので臨場感溢れる記憶が残っております。戦争の悲惨さ、少しは父の自慢話もありましたが、今思えば、貴重な話しを聞いてよかったと思います。また、「りんごの歌」はっきりと残っているんです。
他の流行り歌も、口ずさんでいた事を。物心がついて「りんごの歌」がサトウハチロウの作詞とわかり、彼の詩を夢中で読んだ時期があります。
その影響で、エレクトーンで童謡を弾きたいと強い欲求が起こり、銀座のヤマハ教室に通い詰めた事も有りました。昭和52年に文京区弥生2丁目にある、彼の旧居跡1階に、サトウハチロウ記念館ができた時は、また通い詰めました。
今は平成8年に岩手県北上市に移りましたが、まだ行っておりません。

こんな戦後の記憶が私にはあります。
Posted by:おっちょ  at 2007年08月10日(金) 16:25

こんにちは

長文とありましたがもっと読みたい気持ちになりました。
私は戦後の生まれで親から聞いたことしか知りません。
母は戦時中の話を何度も話してくれました。
19年に生まれた私の姉を連れて疎開先で苦労したことなど・・・
母は片方の足が悪く少し引きずりながら歩いていましたが
それも疎開先であった事故のようです。
いつも縁側で縫い物をしながらその話をしてくれた光景を
鮮明に覚えています。

何れは歴史上の出来事となってしまいますね。
対私も長いコメントに、しかも自分の話になってしまいました。
すみません。
Posted by:Rui  at 2007年08月10日(金) 14:17

道祖神 さん、長文なのにコメントを有り難うございました。
歌を聴くとその当時のことが連想出来るのも面白いですね。
「リンゴの歌は闇市を」「東京の花売り娘は停電を」、まだまだ有ると思いますが・・・

兄が出征する時に仲間が送別会をしてくれまして、そのとき何度も歌っていたのが「暁に祈る」で、今でもこの歌を聴くと なんて悲しい歌なのだろう と思ってしまいます。
Posted by:遊歩  at 2007年08月10日(金) 10:25

黒めだか さん、長文なのにコメントを有り難うございました。
学童疎開では宿泊先によっては先生の暴力、仲間同士のイジメ、面会に来る親の身勝手 など色々見ていたと思います。
幸いにも私どもの担任は暴力教師ではありませんでしたが、戦時中のことで往復ビンタも時にはありました。
既に亡くなられましたが、今でも良い先生に巡り会えたことを嬉しく思っています。

ですから いつ頃だったか疎開地へ行ってみようという話が出た時、あの時のことは思いだしたくない という仲間もいました。
Posted by:遊歩  at 2007年08月10日(金) 10:15

遊歩 様

 おはようございます。
お暑うございます。
 
 疎開先は、上州ですか!
写真ではどのあたりか、土地勘のない身にとってはわかりませんが?
 私の親父は、満州でハルピンから奉天まで800キロを歩いて、その後
帰国したそうです。
戦争は嫌だ、としみじみと言っていました。

 りんごの歌は、もうお馴染みの歌です。
当時の世の中を明るくしてくれた、と聞いております。

 日本も、世界も不穏な空気、怖い気がします。
壊すのは簡単でしょうが、復興させるのは大変だと思います。
一人一人改めて考えるべきときがきたようです。
Posted by:道祖神  at 2007年08月10日(金) 08:19

「学童疎開」のことは、よく知りませんでしたが、遊歩さまの
記録で、よく分かりました。多感な時期に、こうした生活を
余儀なくされた、それも大変なこともあった、今の平和な時代
を生きる子供やちにも伝えていかなければならない「ひとつの
事実」ですね。
Posted by:黒めだか  at 2007年08月10日(金) 07:46

子鹿さん、長い文章なのにコメントを有り難うございました。
この暑さで散策するのも億劫なので、子供の頃を思いだしてみました。
これを書いていて気が付いたことですが、まるで走馬燈のように次から次と色々なことを思い出せることでした。
が、これはもうすぐお迎えが来る前兆? 尤も今はお釣りの人生なのでマァ良いっか(笑)。
Posted by:遊歩  at 2007年08月10日(金) 00:26

私は終戦のころも知らないで過ごしました。
大阪に住んでいた、新婚の両親は、出征の時、母を奈良へ転居させました。
ご存知のように、京都、奈良は戦災に遭わず無事でしたが・・。
大阪は焼け野原、親戚中が奈良へ身を置き食料難との戦いだったそうです。
りんごの歌は
終戦のテーマ曲になりつつありますが・・映像は現実に起こったことであり
よくぞ此処まで立ち直れたものだ・・ともう一度原点に帰る必要が
ある、世の中になりましたね。
Posted by:子鹿  at 2007年08月10日(金) 00:04

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