暮れになると 何故か「忠臣蔵」がもて囃されますが、今回はチョット珍しい画像でお話ししてみたいと思います。
1,忠臣蔵と言えば、忘れたならないのが「南部坂 雪の別れ」。
これはフィクションという説(そこで画像にはボカシを入れました)もありますが、これでは身も蓋もありません。
ここが赤坂の近くにある「南部坂」ですが、車のすれ違いは出来ないような狭い、急な坂道です。 左の石垣の上はアメリカ大使館の宿舎。
2,忠臣蔵同志の中に「大高源五」という人が居ますが、この人は俳句も詠んでいたようで、両国橋の袂にこの人の句碑が建っています。 何故両国橋なのかは判りませんが・・・
(左の字は私が書き入れてしまったものです)
3,討ち入りされた吉良上野介の屋敷跡で、両国駅の近くにあります。
左には吉良邸で亡くなった人たちの供養碑、右は「首洗いの井戸」だそうです。
4,仇討ち本懐の後、彼等は泉岳寺に向かうのですが、隅田川の東側を歩き、永代橋を渡ったそうです。
その永代橋近くに休息した場所が残っています。
左手にその碑が建っています
5,泉岳寺から北へ数分歩くと、大石内蔵助以下の同志が切腹した場所が残されています。
とても狭い場所ですが、頑丈そうな塀で囲われていまして、その門の隙間から撮ったものです。
塀の中には大小数個の石が埋まるようにありました。
後日談として・・・その後、浪士たちは四大名に分散して預けられ、後日の処分を待つことになり、最終的な処分は切腹と決定。
これは、儒者の荻生徂徠が、「赤穂浪士は義士である。しかし、法に照らせば罪人。もし法を破って免罪すれば、政道は立ちゆかない。故に彼らには武士として名誉ある切腹を命じるべきである」との意見が取り入れられたとのこと。
誰一人取り乱さず、この場所で生と別れを告げていった そうです。
そして大石内蔵助は切腹の時、吉良家の断絶を知らされ随喜の涙を流したといわれている と説明されています。
寺坂吉左衛門が姿をくらましていますが、内蔵助が本家の芸州浅野家へ義挙を報告させるため、といわれているようです。
1,忠臣蔵と言えば、忘れたならないのが「南部坂 雪の別れ」。
これはフィクションという説(そこで画像にはボカシを入れました)もありますが、これでは身も蓋もありません。
ここが赤坂の近くにある「南部坂」ですが、車のすれ違いは出来ないような狭い、急な坂道です。 左の石垣の上はアメリカ大使館の宿舎。
2,忠臣蔵同志の中に「大高源五」という人が居ますが、この人は俳句も詠んでいたようで、両国橋の袂にこの人の句碑が建っています。 何故両国橋なのかは判りませんが・・・
(左の字は私が書き入れてしまったものです)
3,討ち入りされた吉良上野介の屋敷跡で、両国駅の近くにあります。
左には吉良邸で亡くなった人たちの供養碑、右は「首洗いの井戸」だそうです。
4,仇討ち本懐の後、彼等は泉岳寺に向かうのですが、隅田川の東側を歩き、永代橋を渡ったそうです。
その永代橋近くに休息した場所が残っています。
左手にその碑が建っています
5,泉岳寺から北へ数分歩くと、大石内蔵助以下の同志が切腹した場所が残されています。
とても狭い場所ですが、頑丈そうな塀で囲われていまして、その門の隙間から撮ったものです。
塀の中には大小数個の石が埋まるようにありました。
後日談として・・・その後、浪士たちは四大名に分散して預けられ、後日の処分を待つことになり、最終的な処分は切腹と決定。
これは、儒者の荻生徂徠が、「赤穂浪士は義士である。しかし、法に照らせば罪人。もし法を破って免罪すれば、政道は立ちゆかない。故に彼らには武士として名誉ある切腹を命じるべきである」との意見が取り入れられたとのこと。
誰一人取り乱さず、この場所で生と別れを告げていった そうです。
そして大石内蔵助は切腹の時、吉良家の断絶を知らされ随喜の涙を流したといわれている と説明されています。
寺坂吉左衛門が姿をくらましていますが、内蔵助が本家の芸州浅野家へ義挙を報告させるため、といわれているようです。
Posted
at 12:04
| この記事のURL
コメント(16)
| トラックバック(0)









長谷川一夫の「忠臣蔵」は見たことがないのですが、この「南部坂」に出会ってからは、何となく「忠臣蔵」を見るようになってしまいました。
片岡千恵蔵・・懐かしいですねぇ。子供の頃「ある時は片目の運転手、そしてある時は・・・」なんて言うセリフを真似したものです。
市川歌右衛門・・最近息子がよく似てきましたね。