先日「向島・浅草界隈」を散策してきましたが、ここで忘れてならないのが「名物!」。
向島の「長命寺」の傍には「長命寺の桜もち」があり、通りを挟んであるのが「こと問い団子」の店です。
「桜もち」の店先
桜餅が最初に作られたのは江戸時代、向島の長命寺だといわれてます。
享保2年(1717年)、長命寺で門番をしていた山本新六は、向島堤に数多く植えられていた桜の落葉掃除に悩まされていました。
そこで、これらを何かに使えないだろうかという思案の末に作り出されたのが、餡を小麦粉の皮で包み、桜の葉の塩漬けを巻いた桜餅だったのです。長命寺の門前にて売り始めてそれから二百八十年余、隅田堤の桜と共に名物となったそうです。
「桜もち」の現物です。 但し、この「桜もち」は生菓子のため、デパートなどでの販売はしていないそうです。
「こと問い団子」の店先・・・言問と言えば、創業明治元年の「言問団子」で、団子は白あん、あずきあん、緑のこしあんの三色団子で、 この団子屋さんの祖先が言問いの名をこの地に広めたという説もあるようです。(残念ながら現物写真はありません)
言問橋の由来はご存知の通り平安時代まで溯るようです。
平安時代の六歌仙の一人。古今集歌人の中でも一二を争う人気歌人だった 在原業平(ありわらのなりひら) が、京を離れ、当時湿地帯が広がる辺境だったこの地に左遷され、はるばると隅田川の畔までやってきた時に、鳥の名に託して都の恋人を偲んだという伊勢物語の故事から言問を転用したものと考えられています。
「名にし負わば いざ言問はん都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」 (都鳥はユリカモメだそうです)
なお、この2軒の店では店内で食べることも出来ます。
隅田川を渡って浅草側に来ると、有名な「駒形どぜう」
「駒形どぜう」の創業は1801年。徳川11代将軍、家斉公の時代です。初代越後屋助七は武蔵国(現埼玉県北葛飾郡)の出身で、18歳の時に江戸に出て奉公した後、浅草駒形にめし屋を開きました。当時から駒形は浅草寺にお参りする参詣ルートのメインストリートであり、また翌年の3月18日から浅草寺のご開帳が行われたこともあって、店は大勢のお客様で繁盛したと言います。
仮名遣いでは「どじょう」。それを「どぜう」としたのは初代越後屋助七の発案だそうで、 文化3年(1806年)の江戸の大火によって店が類焼した際に、「どぢやう」の四文字では縁起が悪いと当時の有名な看板書き「撞木屋仙吉」に頼み込み、奇数文字の「どぜう」と書いてもらったのです。これが評判を呼んで店は繁盛。江戸末期には他の店も真似て看板を「どぜう」に書き換えた そうです。
向島の「長命寺」の傍には「長命寺の桜もち」があり、通りを挟んであるのが「こと問い団子」の店です。
「桜もち」の店先
桜餅が最初に作られたのは江戸時代、向島の長命寺だといわれてます。
享保2年(1717年)、長命寺で門番をしていた山本新六は、向島堤に数多く植えられていた桜の落葉掃除に悩まされていました。
そこで、これらを何かに使えないだろうかという思案の末に作り出されたのが、餡を小麦粉の皮で包み、桜の葉の塩漬けを巻いた桜餅だったのです。長命寺の門前にて売り始めてそれから二百八十年余、隅田堤の桜と共に名物となったそうです。
「桜もち」の現物です。 但し、この「桜もち」は生菓子のため、デパートなどでの販売はしていないそうです。
「こと問い団子」の店先・・・言問と言えば、創業明治元年の「言問団子」で、団子は白あん、あずきあん、緑のこしあんの三色団子で、 この団子屋さんの祖先が言問いの名をこの地に広めたという説もあるようです。(残念ながら現物写真はありません)
言問橋の由来はご存知の通り平安時代まで溯るようです。
平安時代の六歌仙の一人。古今集歌人の中でも一二を争う人気歌人だった 在原業平(ありわらのなりひら) が、京を離れ、当時湿地帯が広がる辺境だったこの地に左遷され、はるばると隅田川の畔までやってきた時に、鳥の名に託して都の恋人を偲んだという伊勢物語の故事から言問を転用したものと考えられています。
「名にし負わば いざ言問はん都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」 (都鳥はユリカモメだそうです)
なお、この2軒の店では店内で食べることも出来ます。
隅田川を渡って浅草側に来ると、有名な「駒形どぜう」
「駒形どぜう」の創業は1801年。徳川11代将軍、家斉公の時代です。初代越後屋助七は武蔵国(現埼玉県北葛飾郡)の出身で、18歳の時に江戸に出て奉公した後、浅草駒形にめし屋を開きました。当時から駒形は浅草寺にお参りする参詣ルートのメインストリートであり、また翌年の3月18日から浅草寺のご開帳が行われたこともあって、店は大勢のお客様で繁盛したと言います。
仮名遣いでは「どじょう」。それを「どぜう」としたのは初代越後屋助七の発案だそうで、 文化3年(1806年)の江戸の大火によって店が類焼した際に、「どぢやう」の四文字では縁起が悪いと当時の有名な看板書き「撞木屋仙吉」に頼み込み、奇数文字の「どぜう」と書いてもらったのです。これが評判を呼んで店は繁盛。江戸末期には他の店も真似て看板を「どぜう」に書き換えた そうです。
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