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「赤い靴」の女の子 [2007年08月31日(金) ]
先日、「STAGE の誕生招待」で麻布十番へ行ってきたことをお話しましたが、商店街の中心?には童謡「赤い靴」の「きみちゃん像」が一人で立っています。
そこできょうは受け売りで恐縮ですが、この子のことをアップしようと思います。

【 誰もが知っている童謡「赤い靴」、この詩は大正10年に野口雨情によって書かれ、翌大正11年に本居長世が作曲したものです。

この赤い靴の女の子にモデルのあることが明らかになったのは、昭和48年(1973)11月、北海道新聞の夕刊に掲載された、岡そのさんという人の投稿記事がきっかけでした。
「雨情の赤い靴に書かれた女の子は、まだ会ったこともない私の姉です」

    横浜港にある「赤い靴の女の子」

この記事を当時北海道テレビ記者だった菊地 寛さんは、5年あまりの歳月をかけて「女の子」の実像を求め、義妹である「岡そのさん」の母親の出身地静岡県 静岡市清水を皮切りに、そのさんの父親の出身地青森県、雨情の生家のある茨城県、北海道各地の開拓農場跡、そして横浜、東京、ついにはアメリカにまで渡って幻の異人さん、宣教師を捜し、「赤い靴の女の子」が実在していたことを突き止めた のだそうです。】

まだ続くのですが、ご興味がありましたら「赤い靴像」で検索されると読むことが出来ます。

蛇足ですが、先日散策した「麻布十番」はブログに載せましたので、お越し頂けますと幸いです。

       「東京ってオモシロイ(麻布十番界隈)」

Posted at 22:09 | この記事のURL
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【ご招待】毎月がBirthday(8月編) [2007年08月29日(水) ]
STAGE スタッフの方から表記のようなお話しがあり、【ご招待】 であれば・・・ということで、厚かましく 今日(8/29)初めて「麻布十番」へ行くことが出来ました。
そこで どうせ行くのなら 「ブログのネタ探し」も兼ねて行かない手はありません!

誕生パーティの様子はまた何方かがアップされると思いますので、ここでは「麻布十番」のアンナトコ・コンナトコ の画像を載せることにします。

 童謡「赤い靴」でお馴染みの「きみちゃん像」

     「善福寺 山門」 

  善福寺境内にある「越路吹雪の碑」

  江戸時代・武家屋敷の長屋

  麻布にある「釣り堀」

末筆になりましたが、お世話下さったスタッフの方々、ご参加の皆さん、どうも有り難うございました。

Posted at 20:59 | この記事のURL
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お陰様で [2007年08月28日(火) ]
皆さん、こんにちは。
昨年の6月から書き始めた私のブログ
   「足の向くまま・気の向くまま」 
が 今日('07/8/28)でアクセス数が10000を越えました。
これもひとえにご覧下さった皆様のお陰でありまして、心から厚くお礼を申し上げます。

ブログの内容は というと最近は 「東京ってオモシロイ」 一辺倒になっていますが、これが本当にオモシロイので、もう少し自己満足させるために続けさせて頂こうと思っていることと、東京以外にも足を延ばそうか とも考えています。

これからもご指導・ご鞭撻を下さいますよう どうぞ宜しくお願い申し上げます。 
どうも有り難うございました。

Posted at 22:53 | この記事のURL
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耐暑訓練(2) [2007年08月27日(月) ]
皆さん、こんにちは。
いくら暑い・暑いと言っても涼しくなってくれるわけではない

それならばいっそのこと 「猛暑の中へ飛び出そう〜」 ということで 今回は散策ではなく「ゴルフの練習」に行ってきました。
しかし さすがに真っ昼間の練習は勘弁してもらい、夕方から夜にかけて約1時間半。

もちろんまだ腰痛手術後が怖くてフルスイングは出来ず、アプローチ・ショットの練習が主で、後はショートアイアンのショットでした。
それでも久し振りにというのは恐ろしいもので、終わる頃には指に肉刺(マメ)が出来てしまいました。

       千葉の某ゴルフ場

どうも意気地が無くなったというか、ヤワになったというか、修行の未熟さに呆れてしまいました。

先月(7/19) 9ヶ月ぶりの練習の時は恐る恐るの気持ちがあったのでしょうか、肉刺など出来なかったですから 今回は気合いが入っていたのかも知れません。

Posted at 22:15 | この記事のURL
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アンタも好きねぇ〜(ブログ更新) [2007年08月24日(金) ]
拙速が取り柄なので、ブログ「東京ってオモシロイ」の更新作業が終わりました。
ご興味がございましたらお越し頂けますと幸いです。

    「東京ってオモシロイ(目黒界隈偏)」

昨日(8/23)は久し振りの雨が降り、これなら今日は涼しくなること必定 と見込んで、先日ギブアップしてしまった「目黒界隈」に再挑戦してきました。

    黒字が今回訪れた場所です

    目黒不動境内にある「奪衣婆像」

安養院の狛犬、表情がとても変わっています

海福寺にある「永代橋崩落(1807年)事故者の供養塔」

    五百羅漢寺の山門

涼しくなる! の予想は見事に外れ、30℃を超す暑さはやはりただ者ではありませんが、ギブアップをしなかっただけ暑くなかったのかも知れません。

帰ってくると、カミサンいわく 「アンタも好きネェ〜」、私 返していわく 「御意!」


Posted at 10:12 | この記事のURL
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或る風景 [2007年08月20日(月) ]
皆さん、こんにちは。
先日、木立に囲まれた場所を選んで? 散策してきました。

大円寺というお寺さんの本堂ですが、古い木立に覆われる風情には涼しさを満喫・・・

急坂の途中にあった地蔵堂ですが、つくつく法師の鳴き声はもう秋・・・

覆い被さるような鎮守の森は、涼しい風だけを吹き下ろしてくれるよう・・・

これらの画像は先日ブログのネタ探しのために、「耐暑訓練」を兼ねてさまよい歩いてきた「目黒界隈(東京)」のものです。
東京にも、このようなローカルな風景があるのに「驚いたり・感動したり」を満喫してきました。
が、猛烈な暑さの半日でした。

  これは、この日さまよい歩いたルートです。

蛇足ですが、この日の散策についてはブログを更新しましたので、お越し頂けますと幸いです。

      東京ってオモシロイ(目黒界隈)

まだまだ残暑は続くようなので、どうぞ体調管理には十二分のご留意をされますように・・・


Posted at 18:01 | この記事のURL
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ネコが怒ります [2007年08月18日(土) ]
クーラーが嫌いな夫婦ですが今年はもうお手上げで、クーラー&扇風機のお世話になりました。
けれども寝る時はクーラーを使わず 我慢し続けましたよ!

そして昨日までの暑さがウソのような千葉地方ですが、それでも2時間くらい歩くと汗ビッショリ! マァ夏ですから仕方ありませんね。

さて  ”ネコの額” のような所に花が咲いていましたので撮ってみました。
ただ 「ネコの額のような」と言うと、我が家のボスネコが「私の方が広いわよ!」と言いながら ウ〜〜と唸り声を上げます。

私はテッセンですがこの酷暑ですっかり日焼けし、恥ずかしいような顔色になってしまいました

        私はユリです

        私は誰でしょう?

明日以降 今までのような「炎熱地獄」は打ち止めにして欲しいですね。

ただ気になるのが、九十九里周辺を震源地とする地震が多発していることで、たった今も揺れました。



Posted at 17:03 | この記事のURL
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耐暑訓練? [2007年08月17日(金) ]
この STAGE会員の yume さんから、「目黒(東京)にも面白い所がある」と教えて頂きましたので、8/13 に出掛けてきました。

この日はよい具合に東京へ行く用事が出来たので、ついでにブラブラ歩きをするわけで、目黒駅に着いたのが2時半頃で暑さは最高潮! 耐暑訓練にはもってこいです。

駅から1分も歩けば、そこは「行人坂」。坂の途中には「大円寺」があり、下りきった所にあるのが「目黒雅叙園」です。

  大円寺にある「とろけ地蔵」 背景は「五百羅漢像」

   雅叙園入口にある「お七の井戸」

暫く歩くと「幡龍寺」(幡の字は虫偏なのですが、変換出来ません)で、ここにあったのが「おしろい地蔵」。
暑さのためでしょうかお化粧がすっかり崩れています。

    目黒不動尊の境内にある「水掛け不動尊」

ここまで歩いてきましたが、いくら若いとは言え やはり暑さはこたえ、「ムリは禁物」と言うことでギブアップしてしまいました。

もう少し涼しくなったら、今回廻りきれなかった所を含め再挑戦するつもりの「耐暑訓練」の半日でした。

Posted at 12:14 | この記事のURL
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「岸壁の母」(長文ですが) [2007年08月14日(火) ]
皆さん、こんにちは。
先日は私の学童疎開のことを中心にお話しさせて頂きましたが、今回は「戦争と母親」について断片的な記憶ですが お聞き頂ければと思います。

1,私の兄は1942年(昭和17年)4月、召集で陸軍に入隊して行きました。
当時私は小学3年でしたが、兄の会社の同僚の人が数名 私の家で送別会を開いてくれまして、その時 何度も何度も歌っていたのが「暁に祈る」でした。
今でもこの歌を聴くと、なんて悲しい歌なのだろう と思ってしまいます。

2.出征当日 家の前では近所の人や婦人会そして在郷軍人の人たちが集まって、恒例の軍歌「露営の歌」 ♪勝って来るぞと勇ましく・・・を歌って兄を軍隊(満州)へ送り出しました。

 【画像1,出征の風景・・・この写真は兄のものではありませんし、このような大掛かりなものではありません】。  

ただ母は家の前には出てきましたが、駅までは行こうとしませんでした。 
また出征に当たって母は兄に何を言ったのか どうかは知りません

3.この写真は日本がまだ勝ち続けていた頃のものですが、戦没者を盛大に迎える儀式で、私たち小学生もよく参列させられました。 【画像2】
  
(お断り;この2枚の画像は或る方からお借りしたものです)

これらの戦没者の家々には「靖国の家」と表示され、皆の尊敬の的になったのです。
【画像3、この写真は今年の初夏に佃島で撮ったものですが、まだこの様に綺麗に手入れをされているのには驚かされました。】

4,やがて兄は満州から沖縄へ転進していきましたが、出征以降手紙のやり取りはありましたが、誰も兄には会っていません。

5,この1942年の我が家は 2月に父の死、4月兄の出征、同じ4月には祖母も亡くなり という波乱が起こっていました。

6,この後の1944年8月 私は学童疎開へ行きましたので、母を含め家の様子はよくわかりませんが、疎開先へは時々来てくれました。 
それもリュック一杯の人参を持ち、うちの子供(私のこと)が人参入りのご飯が好きだから と皆に行き渡るような数を持ってきたのです。 
この様なことで学校からも特認されたようで、母は「汽車の切符が優先的に買える」と言っていました。

7,終戦になりましたが兄の消息は判らず、母は毎日のように消息を知るため「引揚げ援護局?」に行っていました。 
ですから、私は今でも「岸壁の母」も聴きたくない歌なのです。

8,そのうちに沖縄で戦友だった人と連絡が取れるようになり、その人の話から兄は弾薬を抱えて戦列を離れて行った ということが判りました。

9,その後戦死公報があり、しばらくして遺骨が届けられましたが、その軽かったこと。 
母はそれを開けることはせず、「あの子は戦争で殺された」と嘆き 呟いていました。 
もちろん大勢の人に迎えられる事も無く、ひっそりとした帰宅でした。
こんなことがあってかどうか、母は一度も靖国神社へ行ったことがありません。

10,ある時の事、傷痍軍人だと名乗る男が来て「戦争でこんな体になってしまったから何か買ってくれ」。 母はその男を一喝し「無事に帰れたのに何を言ってるのだ! 私のところは何も帰ってこない!」。 

11,だいぶ年月が経ち、私が働くようになってから母に 「沖縄へ行ってみる?」と聞いたところ、キッパリと「私は行きたくない」。 
その母も昨年三十三回忌の法事を済ませましたが、本当は沖縄へ行って 我が子に会いたかったのではないか? と今でもそう思ってしまいます。

なお、ここに書いたようなことは、多くの家庭に起こっていた ことではないかと思います。

Posted at 17:44 | この記事のURL
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終戦と「リンゴの唄」(長文ですが) [2007年08月09日(木) ]
8月が近づくと、「学童疎開」「終戦」「リンゴの唄」 が連想ゲームのように思い出されてきます。

終戦の日は小学6年で、群馬県内の学童疎開先で迎えました。
先生から重大放送があるから全員聞くように、ということでラジオの前に集合したのです。

ラジオは雑音ばかりで何のことかサッパリ判りませんでしたが、後で先生から「戦争に負けた。これからは復興?再建?のための疎開になる」という話があったことを憶えています。

そして先生の話を聞きながら皆が泣きました。今になって思うと何故泣いたのかは判りませんが、一つだけ “これで皆が殺されるのだ” と思ったことは確かです。 
この日はとても晴れていたような記憶があります。

  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

学童疎開のことですが、昭和19年(1944年)8月11日に東京を出発し、翌20年10月20日迄の約1年2ヶ月、私たちは群馬県下で過ごすことになりました。 

行った当時は遠足気分で面白可笑しく過ごしていましたが、たぶん数日経った頃からだと思いますが、夕方になり薄暗くなると 皆が廊下に出て膝を抱えて黙りこくり、一人がシクシクはじめると それを合図のようにして全員が泣き出すのです。 

この光景は、既に60年以上経った今でも鮮明に覚えているから不思議です。
他校では疎開先から脱走する生徒もいましたし、噂では自殺した子供も居た ということも聞いたことがあります。

その時期を越すと元の子供に戻り、他校の生徒とケンカをしたり、地元の子供にいじめられたり、近隣の山へ栗拾いに行ったり、全員で買い出しに行ったり、松の根を掘ったり(松の根を松根油(ショウコンユ)にするための勤労奉仕)の日々で、勉強をしていたかどうか? 

既に疎開に慣れたということもあり、風呂に入りながら皆で軍歌をはじめ、明日はお発ちか」「ダンチョネ節」「ラバウル小唄」「湖畔の宿」「祇園小唄」等々 今の小学生では考えられないような歌を歌ったりしていました。 

         思い出の風景

私たちを担当してくれた先生は進歩的というのでしょうか、スケート靴を持っていて冬の凍った田圃でスケートを教えてくれました。 なお後のことになりますが、戦後はローマ字を教えてくれたので、或る程度の読み書きは出来るようになっていました。

やがて昭和20年になり、1年上の6年生は卒業のため東京に戻って行きました。 が、この頃は空襲も激しくなっていて、私たちの住んでいる所も空襲にあい、噂では東京に戻った6年生の中に死んでしまった生徒もいたようです。 
勿論これについては秘密事項と思いますが、この噂は流れていました。 

やがて 特殊な爆弾が落とされた と言う話や、どうも戦争は負けそうだ、と言う噂が流れ、8月の晴れた日に終戦となったのです。

その年の10月、全員が東京に戻り学校で解散となりましたが、学校は焼けていましたし、周囲も焼け跡や強制疎開 【 家屋の強制疎開は、防火帯を作って延焼防止のために行われるもので、戦時中は長年住み慣れた家も「指令」という名で取り壊された】 で空き地が広がっていました。

家に着くと、電灯が暗かったことと、狭い家(幸いにも焼けなかった)に親戚の人たちが同居している という 知らなかったことが目の前にありました。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ここで何故かよく判らないのですが、「リンゴの唄」を聞くと駅前の闇市を連想してしまうのです。 駅前広場にヨシズ張りのような囲いを作った露天で、大勢の人たちが行き来していました。

【 闇市とは・・・敗戦直後、日本は深刻な食糧難に陥る。特に東京の食料不足は絶望的な様相を呈する。
公的な流通機構「配給制度」はほとんど壊滅状態にあり、実質的には「闇市」や、地方への「買出し」によって食糧が調達された。 
と説明されています。】

その駅前広場が夜になると「夜の女狩り」があり、関係の無いような女性も強制的に車に乗せられ、警察に連れて行かれました。

夜の女とは・・・終戦後生活のために或る女性は進駐軍相手に体を売って生活する人たちを言い、俗にパンパンガールと呼ばれていました。

これらのことをお話し始めるとキリがなく、まだまだあるのですが、これが小学生だった私の終戦前後です。
  

Posted at 22:49 | この記事のURL
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