皆さん、こんにちは。
先日は私の学童疎開のことを中心にお話しさせて頂きましたが、今回は「戦争と母親」について断片的な記憶ですが お聞き頂ければと思います。
1,私の兄は1942年(昭和17年)4月、召集で陸軍に入隊して行きました。
当時私は小学3年でしたが、兄の会社の同僚の人が数名 私の家で送別会を開いてくれまして、その時 何度も何度も歌っていたのが
「暁に祈る」でした。
今でもこの歌を聴くと、なんて悲しい歌なのだろう と思ってしまいます。
2.出征当日 家の前では近所の人や婦人会そして在郷軍人の人たちが集まって、恒例の軍歌「露営の歌」 ♪勝って来るぞと勇ましく・・・を歌って兄を軍隊(満州)へ送り出しました。
【画像1,出征の風景・・・この写真は兄のものではありませんし、このような大掛かりなものではありません】。
ただ母は家の前には出てきましたが、駅までは行こうとしませんでした。
また出征に当たって母は兄に何を言ったのか どうかは知りません
3.この写真は日本がまだ勝ち続けていた頃のものですが、戦没者を盛大に迎える儀式で、私たち小学生もよく参列させられました。 【画像2】
(お断り;この2枚の画像は或る方からお借りしたものです)
これらの戦没者の家々には「靖国の家」と表示され、皆の尊敬の的になったのです。
【画像3、この写真は今年の初夏に佃島で撮ったものですが、まだこの様に綺麗に手入れをされているのには驚かされました。】
4,やがて兄は満州から沖縄へ転進していきましたが、出征以降手紙のやり取りはありましたが、誰も兄には会っていません。
5,この1942年の我が家は 2月に父の死、4月兄の出征、同じ4月には祖母も亡くなり という波乱が起こっていました。
6,この後の1944年8月 私は学童疎開へ行きましたので、母を含め家の様子はよくわかりませんが、疎開先へは時々来てくれました。
それもリュック一杯の人参を持ち、うちの子供(私のこと)が人参入りのご飯が好きだから と皆に行き渡るような数を持ってきたのです。
この様なことで学校からも特認されたようで、母は「汽車の切符が優先的に買える」と言っていました。
7,終戦になりましたが兄の消息は判らず、母は毎日のように消息を知るため「引揚げ援護局?」に行っていました。
ですから、私は今でも
「岸壁の母」も聴きたくない歌なのです。
8,そのうちに沖縄で戦友だった人と連絡が取れるようになり、その人の話から兄は弾薬を抱えて戦列を離れて行った ということが判りました。
9,その後戦死公報があり、しばらくして遺骨が届けられましたが、その軽かったこと。
母はそれを開けることはせず、「あの子は戦争で殺された」と嘆き 呟いていました。
もちろん大勢の人に迎えられる事も無く、ひっそりとした帰宅でした。
こんなことがあってかどうか、母は一度も靖国神社へ行ったことがありません。
10,ある時の事、傷痍軍人だと名乗る男が来て「戦争でこんな体になってしまったから何か買ってくれ」。 母はその男を一喝し「無事に帰れたのに何を言ってるのだ! 私のところは何も帰ってこない!」。
11,だいぶ年月が経ち、私が働くようになってから母に 「沖縄へ行ってみる?」と聞いたところ、キッパリと「私は行きたくない」。
その母も昨年三十三回忌の法事を済ませましたが、本当は沖縄へ行って 我が子に会いたかったのではないか? と今でもそう思ってしまいます。
なお、ここに書いたようなことは、多くの家庭に起こっていた ことではないかと思います。