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『朝のBS放送』  [2007年01月31日(水) ]
 別に忌み嫌っているわけではありませんが、TVで民放のそれは一応は公共性を声高にするのですが、あくまでもこれお商売ですから、どうしてもスポンサー、有り体に言えばつまりは銭の誘惑から逃れられるものではありません。
 ですからその内容が如何に低俗で、それによって国民が堕落し悪影響を受けるかまでは知恵が廻らず、視聴率さえ上がればそれでよし、と言うことの方が強いようです。もっと正確に言えば、分かってはいるけどより悪質に、えーいっ!やっちゃえ!!ーーが本音でしょう。
 今日に糾弾されている、尤もな題目をあげて後、視聴者を裏切った関西テレビの情報番組は、勘繰りたくないが他の民放も見るにつけ恐らく氷山の一角では、とさえ思ってしまいます。 
 しかし、昔から比べると随分軟弱になってきているとはいえ、NHKは未だ見るに耐える番組が残っているようです。
 ここで、番組が有るではなく残ってーーと言ったのは、ディレクターの人間としての質が年々落ちてきているから早晩、民放並みに俗化するのではないかーーと危惧するからであります。
 今日、そのNHKのBS放送で朝から良い勉強をさせてもらいました。
 途中からだったので題目は知りませんが、宗教音楽についての討論会だったようです。
 何処かのお寺の本堂で各宗教者が集いそれぞれの音楽について披露し論じ合うもので、例えば同じ仏教でも韓国の宗教音楽が多分に布教色の強いのに対し、日本のそれは仏を敬い称えるに重きを置くとか、イスラムの読誦は唱和に一呼吸置く間に歌詞つまり神の声を反芻吟味する意味を持つとかーーと聞くとき、長い歴史の中で人間という生きものが天国、極楽にひたすら憧れる時、どうしても音の旋律にそれを求めることのようです。
 その音の組み立て、つまり音が音楽にまで進化する遥か以前に、先ず風の囁き大地の響きがあったことも確認されていました。
 日本においての宗教が生臭坊主の私物と化し甚だしく形骸化して久しいですが、今日ここらで、ただもの静かで荘厳さだけに篭らずに、革新的な仏教音楽を創り出して若者を引き込み導いてはどうでしょうか。 
 そうすれば、いじめの親子殺傷の轢き殺しのーーなどが少しは減るのではないか、とも思うのですが。     §瑠華§


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『ウオーキング』 [2007年01月30日(火) ]
 異常気象の所為か暖冬が続くが、この暖かさも早朝のウオーキングには甚だありがたく、日の出には未だ間がある早朝の歩きは、特に冬のそれは清々しささえ覚える。
 長年の習慣で目覚まし時計の世話にならず、時間どきには間違いなく目が覚める。
 寝る時間も正確に決まっているから当然なのかもしれないが、このレムとノンレムを正確に巡らせてくれる体内時計はありがたい。
 今朝も元気に目が覚めることができ、眼耳鼻舌身そして意これみな爽快に活動を始めた。これ当に、天地に感謝!。
 躊躇うことなく一気に起き上がり、着替えたその勢いで飛び出す。
 ここ二三日の気温は2度位だからシャツ一では寒いところだが、出掛けには未だ起きたての体温が残っているからその余熱で大丈夫。それが冷める頃には、飛ぶように歩く勢いで体温が上がっていていくので、これで家までの約50分は持つのである。
 街灯でぼんやりと照らされた車道。頭上には妖しげに光る三日月が、独り歩く奇異な人影を蔑むように見下ろしている。野犬だろうか、時折人恋し気に遠吠えを繰り返す。吐く息はあくまでも白く、今日も指先だけは異常に冷たい。
 何故、車道かというと、歩道は凸凹が多く暗闇では転ぶこともあるし、早朝の車道で車は滅多に走らないから、こちらのほうが安心ということ。
 と、音もなく歩く側にすーっとパトカーが近付き窓から、お爺さん大丈夫?、どこから来たの?、歳は幾つ?、家の場所と部屋の番号は分かる?、電話番号を言ってみてーーーと、矢継ぎ早に聞いてくる。
 然もあろう、白髭の男が夜も明けやらぬ暗闇の中をシャツ一で飛ぶように歩いているのだから、夜回りのプロでなくともこれを疑わぬ人はいまい。
 即座に、ははーん!これは惚け老人が徘徊していると思ったに違いないと察した。
 そこで、パトロールご苦労さん、大丈夫ですいつものウオーキングですからと応えると、気をつけてーーと言い残して安心したように去っていった。
 人はいつも、そんなに早くから人も居ない暗闇を歩いて不安で恐ろしいでしょう、と気遣ってくれる。
 尤もな話、遥かな昔なら確かにこんなに暗く人が通らない道なら、間違いなくおどろおどろしい魑魅魍魎が顔を出して驚かされ肝を潰したに違いない。いや、時として頭から齧り付かれたりもしたであろう。
 しかし、遺憾ながらこの21世紀ともなると、その人が居ないから大安心なのであって、人が居るほうが遥かに恐ろしく危険極まりないから、異常である。
 ひょっとして、幽霊やお化けを凌ぐほどに奇っ怪なそして凶暴な人間が充満し、しかも尚、普通の顔をして徘徊しているからであろう。とても痴呆老人の徘徊どころの比ではない。
 絶対に、夜回りのパトカーが必要な所以である。    §瑠華§


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『喜劇』   [2007年01月26日(金) ]
 ヘーゲルの曰く、「歴史は繰り返す。最初は悲劇として、二度目は喜劇として」。
 先日、アメリカのブッシュ大統領がイラクへ兵士2万人の増派を発表しました。国民の半数以上が反対しているにも係わらず。
 さしずめ大阪人なら、あいつ阿保ちゃうかー!、江戸っ子なら、馬っ鹿じゃなかろうかーーーとなるでしょうか。当にこれ、当代きっての喜劇ですなぁーー。
 ブッシュに係わらず、何でも二分して善にあらずんば即ち悪、白で無ければ黒であるとの単純思考は、昨今に垣間見るイスラムの狂信行動においても言えるように、どうも一神教の懲りようもない性のようですね。
 偶然でしょうか2057年前の昨日、彼のユリウス・カエサルが元老院の命令を無視してルビコン川を渡りイタリアに侵入しました。その時に発せられた、「賽は投げられた」は余りにも有名ですね。果たして、ブッシュ政権崩壊の賽が投げられたのでしょうか。
 何事であっても無理強いはいけません。
 当人にとっては混ざり気の無い純な善意であっても、それが押し付けとなると、間違いなく悪行としてしか受け入れられないことくらいは子供でも知っていることなのですが。豈図らんや、面子に拘ってか石油欲しさが先走っての愚行か、何とも御しがたいアメリカではあります。
 些か乱暴な言い方ですが、同じ一神教同士が争って、さーて?どちらが勝ち残るものやら。ここはひとつ高みの見物と決め込みましょうか。
 先日まで続いたNHKのシリーズ「五木寛之21世紀・仏教への旅」の中の法然なら、白も黒も善人も悪人もこれみな総て面倒を見てやろう、丸抱えで極楽に連れて行こうというのですから、これまた大きい。
 草も木も人も虫もみな仏性を具有し、共々にその存在を認め尊重しながら生きる。そして仕方なくそれを食らう時にはその命に許しを乞い、亡くなる時には感謝し礼拝して共に連なって逝く。
 この広さ大きさ、融通無碍と相和する心、このような宇宙大の大らかさは余りに大き過ぎて、恐らく単細胞の彼らには解りはしないでしょう。
 そんな分からない連中の常識が、今の日本の常識になっているから恐ろしい。
 その日本の歴史が繰り返すとき、喜劇が悲劇にならねばよいが。     §瑠華§


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『12回目の懺悔』 [2007年01月24日(水) ]
 少し旧聞に属しますが、阪神大震災の追悼行事が各地で催されていました。
 長かったというか、亡くなられた方の環境によっては遂この間の出来事のように感じられるのではないでしょうか。
 ぐらっと来た時には、倒れるものは総て倒れていました。飛び起きた足元には洋服たんすが倒れ、もしそこにテレビの支えが無ければ僕の両足は間違いなく骨折していたことでしょう。この地震は、後に余震の無い一瞬にしての激震でした。
 瞬間的に、あっ!母親がーーと起き上がって布団を飛び出し居間へ飛んでいったのですが、母は朝の散歩に出掛けるのに玄関で立ったまま震えていました。もしそこに居なければ、間違いなく和ダンスの下敷きになっていたと思います。
 その居間まで行くのに、たんすの下を潜ったのか上を乗り越えていったのかは未だに思い出せません。とにかく、飛んでいったのであります。
 母の居間に行くまでの足場は食器棚が倒れて、中の物が粉微塵に散らばっていました。足元がガラス片などで危ないので、暗闇の中で母親にスニーカーを履かせて着るものを着せたのが先ず最初にしたことだったと思います。
 不思議にガスだけ何とか出ていました。しかし、思ったほど早く通った電気には助かりましたが、その後数週間も出なかった水道にはそれはもう難渋の日々で、普段に何の用意も無かった油断の付けが回ってきたのでしょう。
 神戸は六甲山の岩盤の上に乗っかっているから地震には無縁ーーという、有らぬ通説が大きな仇となったようです。神戸市民の無知、迂闊の露呈ですね。
各戸に配られる援助食で取りあえずお腹は落ち着くもののその後、つまりトイレには本当に往生させられました。高層マンションの持つ大きく重い宿命ではあります。
 親友の両親が亡くなったのもこの日だったのを、無念に思い出します。
 しばらくして届いた新聞に、「五千余の蓮華に神はどう詫びる」と出ていました。蓮華とは、言うまでもなく死者を指します。詠み人知らずとありましたが、正に当を得た名句ではあります。
 人は何事かの時に、その弱さから神とか仏へ寄り縋り祈り願います。
 それで心落ち着くなら、それはそれでいいかも知れません。しかし、その神が一体なにをどうしてくれたというのでしょうか。特に、人が苦しみに喘いでいる最中だけでも。
 言われるところ全知なら、総てをお見通しのはずなのに?。遍在なら、何処にでも、それは間違いなく罹災地にも居て惨状の総てを見ている筈ではないか?。全能なら、それらの苦しみに即大愛を施し、助けを授けることが出来る筈ではないか?。
 しかし、だがしかしーー。
 神のいう全知・遍在・全能は、それは只のお飾りか見栄か、虚妄か偽善なのか!?。
 己が神として崇めて欲しいなら、そしてこれからも依然として神で在りたいなら、人というものを創った責任を大きく感じ、総ての蓮華に土下座して懺悔し、深く厚く詫びてほしいものである。
 それすら出来ないのなら、これからはもう神ではなく紙として扱おう。     §瑠華§

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